愛で誰かを守るのは愚かであろうか

印川猫奈

第1話

 愛のために自分を捨てる愚かさ


 冷たい雨が降りしきる夜、真琴は駅の改札を出て足早に歩いていた。傘を持たない彼女の髪は濡れ、肩にかけたカバンも水滴を吸って重くなっている。しかし、それ以上に彼女の胸を押しつぶしているのは、自分が選んだ決断の重さだった。


 二か月前、真琴は恋人の尚也と出会った。尚也は彫刻のように整った顔立ちと、周囲を惹きつける話術を持った魅力的な男だった。職場の同僚に誘われた飲み会での初対面から、真琴は彼に心を奪われた。「彼の隣にいる自分こそが、今まで求めてきたものだ」と、そう信じて疑わなかった。


 交際が始まってから、尚也は真琴にとって唯一無二の存在になった。彼の好きなものを知りたいという一心で、真琴は自分の趣味や生活を彼に合わせるようになった。例えば、それまでの彼女は読書が好きで、休日にはカフェで静かに小説を読む時間を楽しんでいた。しかし、尚也が「休日は外で体を動かす方がいい」と言えば、真琴はすぐに登山用の靴を買い、無理にでも彼に合わせてハイキングに行った。


 最初の頃は、それで良かった。彼の笑顔を見るたび、彼の隣で過ごす時間が増えるたび、自分の選択が正しいと信じていた。しかし、次第に真琴は、自分がどこかで何かを失っていることに気づき始めた。


 ある日の夜、尚也が彼女の部屋に来て、ふと本棚に並んだ小説を手に取った。「こんなの、よく読めるな」と尚也が鼻で笑った時、真琴は初めて心の奥底に鈍い痛みを覚えた。


「……小説って、面白いよ。いろんな世界に触れられるし。」


「そうかもしれないけど、現実の方が大事じゃない?本なんて何も生み出さないし。」


 その言葉に、真琴は何も言い返せなかった。尚也を怒らせたくなかったからだ。


 日々が過ぎるにつれ、尚也の価値観に染まろうとする真琴の努力は、彼女自身を削っていった。彼が勧める服を着て、彼が好む音楽を聴き、彼の求める通りの自分を演じる。それでも尚也の態度が冷たくなることが増えた。何かが足りないと感じるたびに、真琴はさらに自分を変えようとした。


 ある晩、真琴が彼に手料理を振る舞った時だった。尚也は一口食べるなり、顔をしかめて言った。


「これ、味薄くない?もっと塩入れた方がいいんじゃないか?」


 その瞬間、真琴の中で何かが切れた。目の前の食卓に並んだ料理は、全て尚也の好みに合わせて試行錯誤して作ったものだった。それでも彼は満足しない。それどころか、何の感謝も示さない彼に対し、真琴は虚しさを覚えた。


「……尚也は、いつも文句ばっかりだね。」


「え?急に何だよ。」


「私は、尚也のために色々頑張ってきたつもりだよ。でも、それって何か意味があるのかなって思えてきた。」


 尚也は驚いたように真琴を見つめた後、鼻で笑った。「そんなこと思うくらいなら、やらなきゃいいだろ。」


 その言葉は、真琴の心を冷たく刺した。彼にとって、自分はただ都合の良い存在でしかないのかもしれないと、初めて認めざるを得なかった。


 その夜、真琴は眠れなかった。ベッドに横たわりながら、自分の中に残っているわずかな本音を掘り起こそうとした。そして気づいたのだ。尚也を失うことへの恐れよりも、尚也に愛されるために自分を捨て続けることの方が、遥かに恐ろしいことだと。


 翌朝、真琴は尚也に別れを告げた。彼は「勝手だな」と吐き捨てるように言い、さっさと去っていった。冷たさと軽薄さに満ちたその背中を見送りながらも、真琴の心には不思議な安堵感があった。


 それからしばらくの間、真琴は自分を取り戻す旅に出た。忘れていた趣味を再開し、誰にも媚びることなく自分の時間を楽しむ生活。カフェでお気に入りの小説を読みふけり、夜は湯船に浸かりながら一日の疲れを癒す。


 ある日、真琴は友人に誘われて参加した文学講演会で、著名な作家と直接話す機会を得た。その作家は、質疑応答の場でこう語った。


「人間関係において、自分を押し殺してまで他人に尽くす必要はありません。誰かを愛することは素晴らしいことですが、自分を犠牲にする愛は決して長続きしません。自分を大切にすること、それが本当の愛の始まりだと思います。」


 その言葉を聞いた瞬間、真琴は涙がこみ上げてくるのを感じた。それは悲しみではなく、過去の自分に対する深い共感と許しだった。


 それ以来、真琴はどんな時でも自分を犠牲にしないことを心に決めた。誰かを愛するときも、自分自身を忘れずにいられるように。真琴の人生は、ようやく自分のものになったのだ。


 冷たい雨の日に始まったその物語は、真琴にとって新しい自分への目覚めの序章であり、愛における真実たらればを知る旅の第一歩だった。





 

_____








愛のために他人を犠牲にすることは愚かである──。それを理解した時、紗栄子は胸の中にある深い穴がようやく見えた気がした。


夏の終わり、カフェの隅でひとり、紗栄子は目の前の空っぽのコーヒーカップをじっと見つめていた。外の街並みは、まだ暑さを帯びていたが、彼女の心の中は冷たくなり、冬のように静かだった。


「どうして、私は…」


つぶやいた言葉は誰にも届かない。口に出したところで何も変わらないことを知っていた。けれども、それでも言わずにはいられなかった。


彼女は、三年前に彼──翔太と出会った。それまでの彼女の世界は、規則的で安定していた。毎日同じ時間に起き、同じ仕事をこなし、帰るときにはほっとするような温かい家が待っていた。普通の幸せ、普通の人生。それはどこか退屈で、そして空虚だった。


翔太との出会いは、まるで何かが破裂したかのように、彼女の世界を一変させた。彼は無邪気で、どこか不器用な男だった。最初はただの同僚として接していたが、次第にその存在が紗栄子の中で大きくなっていった。彼と話すとき、胸が高鳴り、顔が自然とほころぶ。最初はそれを単なる「友情」と呼ぶことができた。


けれど、翔太には誰にも言えない秘密があった。それを知ったとき、紗栄子は自分の心の中で何かが崩れ落ちるのを感じた。


翔太は、実は結婚していたのだ。妻と一緒に住んでいるという事実に、最初は驚きと混乱が入り混じった。だが、次第にその事実に目を背けるようになり、彼の深い瞳に吸い寄せられてしまった。


最初はただの慰めだった。会話の中で、彼の心の奥底にあるものを少しずつ引き出していくことが、紗栄子には楽しかった。しかし、次第にそれがただの「友情」ではなくなっていったことに気づかされたとき、すでに遅かった。


ある日、翔太が涙ながらに告白した。彼は妻ともう何年も関係が冷え切っていたこと、そして、どうしても心が離れていく自分を止められないことを話してくれた。その時、紗栄子の中で何かが決定的に変わった。翔太の「自分を選んでほしい」という言葉が、彼女の胸を激しく揺さぶった。


「でも、彼には家庭がある。妻がいる」と、心の中で繰り返してみても、それでも翔太を拒絶することはできなかった。彼の孤独を理解し、彼と一緒にいることで、自分自身の存在も意味を持つような気がした。


それが間違いだと分かっていた。ただし、心はその事実に背を向けることができなかった。


そして、ついにその日が来た。翔太と紗栄子は、すべてを壊すような行動に出てしまった。彼の家に忍び込んだその夜、二人はお互いの気持ちを確認し合った。しかし、その後が最悪だった。


紗栄子はすぐに、翔太が妻にばれてしまったことを知った。彼女は、彼と共にいることで自分の空虚感を埋めようとしたが、結局何も得られなかった。翔太は、最初は彼女にすべてを告げてくれたが、結局その責任を取ることができず、彼の家庭は崩壊し、紗栄子自身もその間に大きな代償を支払った。


翔太の妻、沙耶はその夜、紗栄子を見つけた瞬間、目の前に立つその姿が信じられないものに感じられた。涙を流しながら、彼女の心はひどく痛んでいた。しかし、愛する人に裏切られたという事実が突き刺さり、沙耶は無我夢中で動き出した。


「ふざけないで!」


沙耶の手が振り上げられ、強烈なビンタが紗栄子の頬を打った。痛みと共に、彼女の心は震えた。その瞬間、何も言えなくなった。ただ、涙だけが溢れ、言葉にならない思いが胸を締めつけた。


「あなた、どうしてこんなことができたの?」


沙耶の問いかけに、紗栄子は何も答えられなかった。ただ、翔太を愛していたという思いがぐるぐると胸の中で回るばかりだった。それがいけないことだと分かっていても、心はどうしても翔太を拒絶できなかった。しかし、今その代償として、沙耶の目の前で泣き崩れることしかできなかった。





彼女はそれから、翔太との関係を断ち切り、独りで過ごす日々が続いた。時折、自分を責め、涙を流すこともあったが、何も変わらない現実の中でただ耐えているだけだった。やがて、時間が過ぎ、彼女はふと振り返ってみる。


翔太との関係で、自分は何を得たのか。彼の孤独を癒すことで、自分が得たものは一体何だったのか。彼女は答えを出せなかった。ただ一つ確かなことは、愛とは他人を傷つけることではないということだった。翔太を選んだことで、結局周りの人々を裏切ってしまった。


そして、今もなお、彼女はその重い代償を胸に抱えたままだ。愛とは、誰かを犠牲にして手に入れるものではない。それを理解した時、紗栄子はようやく本当の意味での「愛」を学び始めていた。


「私は、どうしてこんなに愚かだったんだろう」


そう思いながら、紗栄子は静かに目を閉じた。






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