人形少女と黒猫

彩水音静生

ある少年との一日

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 夜。世界を闇が覆い尽くす時間、静寂に包まれる時間。

 しかし、人類は文明の進歩によってそれらを、少しずつ消していった。

 ネオンの明かりが闇を、喧騒が静寂を、蝕んでいく。

 世界の全てがそうだというわけではない、むしろその方が少数だろう。人が住む地でも先進国と称される国の、都会と呼ばれる場所だけが、夜を、闇と静寂を嫌っているのだ。 ここは、その少数の地の一つであった。

 ここでは、夜空を見上げても星は見えない。自動車の排気ガスなどが空気を汚し、様々な明かりが夜の街を彩り、宇宙から地表へ降り注ぐ星々の光を、遮ってしまっている。

 そんな物質文明の弊害を嫌い、それを非難する者は少なからずいる。

 だが、そうでない者もいる。

「綺麗だね、コンチェルト」

 そこにいる二つの影のうちの、片方の影の主が、もう一方の小柄な影の主に囁いた。その視線は、先程から見つめているものから外していない。

「そだね、サスガ」

 小柄な影の主は、一応は被保護者ということになっているが実際には友人のような関係にある相方に、賛意を返した。

 先に言葉を洩らした影の主が、サスガ。もう一方の、小柄と言うよりも小さなと言った方が適切な影の主が、コンチェルト。互いに、そう呼んだ。

 サスガとコンチェルトは、星空の代わりに地上に燈っているネオンの明かりに見入っていた。ここでは、見上げるのではなく見下ろすことで、星々が輝く夜空に似た光景を楽しむことができる。星と違ってネオンは瞬かないが、様々な彩りが楽しめるので、サスガもコンチェルトもこの光景が好きだった。

 この周辺で、最も高い建物の屋上に上がらないといけないのが、少し面倒だけど。

「ボクがマスターに仕えたばっかりの頃は、こんなのを目にすることなんて、想像もしなかったナァ」

 サスガの右肩にその小さな体を乗せて、するりと首の後ろを回り込み左肩に腰を下ろす。そうして、コンチェルトは過ぎ去ったありし日を思いながら、しみじみと呟いた。

「それって、何百年前なの?」

「ん~と、千年くらいだネ」

 この場に、この会話を聞く者がいたとすれば、何を荒唐無稽なと一笑に伏してしまうような、そんなことをこのものたちは語り合っている。もっとも、会話をのみ聞くのなら、だけれど。この場にいる存在を見た者は、笑うでなく、己が目を疑うだろう。

 コンチェルトと呼ばれた者の姿は、本来であれば会話ができるはずがないのだから。全身を覆う、闇に溶け込むかのような黒い毛。天を突くように、ピンと尖った耳。緩やかなカーブを描いた尻尾。全身が闇に沈む中、唯一明々と輝く瞳。すなわち、猫。コンチェルトとは、黒猫であった。言葉を話す猫を目のあたりにすれば、大抵の者は信じられず、己が目を疑うだろう。

 猫でありながら人語を解し、なおかつ繰ることができるコンチェルトは、当然ただの猫ではない。コンチェルトは、魔女の使い魔である。

「コンチェルトって長生きだね」

「それだけマスターが凄いってコトだヨ。もっとも、マスターはもっと長生きしてるけどネ」

「そうなんだ。ところで、あたしって創られてから何年くらいだっけ?」

「三百十年とちょっと、ってトコじゃないカナ」

 コンチェルトが生み出されたように、サスガもまた創り出された存在であった。一見したところ、国籍不明の-強いて言うなら東洋系の顔立ちの十六・七歳の少女といった容姿である。肌の色は黄色人種のそれで、髪の色も黒なのだが、目の色が紫であるために目立ってしまうのが困りものであった。最近では、何も言わなくてもカラーコンタクトだと納得されるので、助かっている。服装は、ワンピースだけ。柄もなく、色は地味。だけれども、当のサスガにとってはお気にいりであった。なぜなら、大好きなマスターが作ってくれたものだからだ。類い稀なる才能を有する凄腕の魔法使い(自称)であるマスターの特製だけあって、感触や柔らかさは普通の服と同じであるのにとても丈夫であり、しかも汚れが自然に浄化するという優れものだった。そんなふうに、サスガの外見は人間と全くと言っていいほど、変わらない。身体の触感も、人間の皮膚のそれと同じ。表情とて、変えられる。

 サスガは、外見は人間のそれを同じ。しかし、人間ではない。造られたもの、作り物という生命を持たない存在。つまり、人形であった。

 外見は人間と同じでも、その身体能力は人間を遥かに凌駕する。夜の高層ビルの屋上に登ることができるのも、その能力があればこそ。

 サスガというのはこの国に来て、自分で付けた名前である。サスガを創った魔女から与えられた本来の名前は、あまり可愛くないという理由から封印された。ちなみに、流我と書く。これも、本人がそう主張しているのだ。だが、この日本という国に滞在して数十年が経つが、コンチェルトは未だにこの読み方が正しいのかどうか分かりかねている。ついでに、サスガという名前が可愛いのかどうかも。

「三百年かあ……。コンチェルトには迷惑かけっぱなしだね」

 サスガは、コンチェルトを両腕で抱き締めながら呟いた。人形の躰は、腕の中のコンチェルトの温もりを感じることはないけれど。

「いいよ。そのくらいは、覚悟の上だったからネ」

 コンチェルトはサスガの腕の中から出て、サスガの左隣にちょこんと腰を下ろした。サスガの右耳は、その機能を失って久しい。だから、コンチェルトはサスガと並ぶ時は、いつも左側にいる。

「ボクたちが今見ているネオンの輝きは、星じゃない。でも、これはこれで綺麗だし、決して悪いものじゃない。マスターと一緒にいれば、自然の星空は眺められるけど、これは無理だヨ。サスガと一緒に来たから、こうして見られるんダ」

 サスガとコンチェルトの視界の中で、ネオンの灯りが流れるように点滅した。

「一人でも多くの人が幸せになれますように」

 サスガは、とっさに願いごとを口にした。流れ星を見た時に、そうするように。だが、二回までしか言えなかった。サスガが、「早口言葉を練習しておこうか」と言い、コンチェルトが「そだね」と返す。

 そして、しばらくの沈黙。

「どうして、サスガは人間がそんなに好きなんだイ? 人間なんてロクなモンじゃないヨ。自分勝手で我儘で排他的で攻撃的、自分たちが特別だって思い込んで他の生きものを見下してる、どうしようもない生きものじゃないカ」

 地上では、こんな時間になっても多くの車が走っている。空気を汚し、犬や猫をひき殺すこの乗り物は、およそ人間以外には害にしかならない。これに限らず、人間たちの文明は人間のためのものでしかない。その被造物は、人間という生きものの本質を写す鏡のようだ。

 サスガは、コンチェルトの背中を優しく撫でた。

「人間は、優しい生きものだよ。自分以外の誰か、自分以外の何か、自分に関係のない痛みを自分の痛みにできるのは、人間だけ」

 永い時をかけて、サスガは人間を観続けてきた。コンチェルトの言うような汚い面も、それ以上の醜さも、何度も目のあたりにした。その一方で、幾度も人間の優しさに触れてきた。

 そんな経験を経て、サスガは人が好きになった。

 サスガの脇に置かれているハンドバッグには、これまでサスガが出会ってきた人々や土地との思い出の品が詰まっている。他人から見ればただのガラクタでしかないが、サスガにとっては人間を好きになれたきっかけとなった物など、かけがえのない宝物だ。

 サスガと共に過ごしてきたコンチェルトも、人間を心の底から嫌悪してはいない。コンチェルトにとっては、人間よりもサスガが大切なだけ。

「人の幸せもいいけど、ボクはサスガはもっと自分の幸福も大切にすべきだと思うナ」

 サスガの躰は、コンチェルトの身体のぬくもりを感じない。けれど、サスガの心はコンチェルトの言葉の暖かさを感じることができる。コンチェルトがどれだけ自分のことを想ってくれているのかが、伝わってくる。

「あたしは、コンチェルトと一緒でと~っても幸せだよ」

 再び、コンチェルトを抱く。サスガのコンチェルトへの想いの分だけ、ぎゅっと抱き締める。

 この都会の夜は、車の走行音や人々の喧騒に満ちている。

 だから、上空で響いた『痛い! 痛い! 痛~い!』という叫び声を聞く者はいなかった。

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 翌日の昼前、サスガとコンチェルトは特にアテもなく自然公園をブラブラと歩いていた。今は木枯らしの吹き荒ぶ十二月、屋外での活動には不向きの時節であった。さらに、平日でありながらも半ば休日に近いこの日は、大抵の人はもっと賑やかな場所で過ごそうとする。つまるところ、公園内の人通りは皆無であった。

 その点、人形であるサスガには寒さなど手足が凍り付いて動かなくなるくらいでなければ関係ないし、コンチェルトもそういった面では普通の猫よりもよほど頑丈である。そして、学業にも職業にも無縁であるのだから、時間にも融通が効く。だから、こうして意味も目的もなく歩いていられる。

 ただ、サスガもコンチェルトもそうすることを好んではいるが、望んではいなかった。他にすることがないから、とそういうこと。

 要するに、二人は閑を持て余しているのだった。

「退屈だねー」

「そだネ」

 朝から何事もなく過ごしていて、この後の予定というものもありはしない。どちらも、面白いことでもないだろうか、などと考えていた。

 八十年もこの国で過ごすうちに、この国の通貨を入手する機会は度々あった。なので、実のところサスガはちょっとした小金くらいは持ち合わせている。サスガが携帯しているハンドバックにしまってある現金は、その額およそ二百万といったところか。これを遣えば娯楽施設を利用することもできる。サスガもコンチェルトも、そういったことに興味がないわけではなかった。だが、カラオケボックスやネットカフェなど、そういった施設はほとんどがペットの同伴を禁じているので、コンチェルトが入れないのである。

 かくして、サスガとコンチェルトは時の流れに身を任せるのであった。偶然に面白い出来事が起こることを願いながら。

 もちろん、世の中そうそう面白いことなど起こるものではない。二人ともさして期待してはいなかった。……のだが。

 以外にも、それはやってきた。

 サスガとコンチェルトの進行方向から、一人の少年が俯いた姿勢で歩いて来ていた。視線が下がっているため、サスガたちには気づいていない。

 その少年は、唐突に天を仰ぎ叫んだ。

「ちっくしょー! 今日を恋人同士の特別な日って決めたヤツが憎い! 僕は、ただ純粋に一切の他意なしに、誕生日を祝ってもらいたいだけなんだよー!」

 悲嘆と悲哀と怒りが入り混じった叫び声が、閑静な公園に響いた。近くの木にとまっていた鳥が、逃げるように飛び立つ。

 あまりにも突然のことで、サスガは思わず腰が引けた。コンチェルトも、尻尾が逆立っている。

 しかし、当の少年は相変わらずサスガとコンチェルトには気づいていなかった。

 再び、少年は空気が抜けてしぼむ風船のようにうなだれた。

「はあ~」

 うって変わって、沈痛なため息。

「今年も、さみしい誕生日か……」

 肩を落としたまま、少年はとぼとぼと歩きだした。

 その一連の動作とコロコロ変化する表情がなんとも面白く感じられて、サスガはついつい吹き出してしまった。

「ぷっ。あっはははは」

 その笑い声を聞いて、少年はようやく目の前の一人と一匹(実際は一個と一匹だが)の存在を認識した。

「あはは。君、面白いね」

 無遠慮に笑って、サスガは言った。

 誰の目にも触れていないとばかり思っていた醜態が、実は目撃されていて、こうして笑われている。少年は顔を真っ赤にして、踵を返した。

「あ、待って」

 今しも走りだそうとする少年を、サスガは慌てて引き止めた。

「何か悩みごとなんでしょ?袖触れ合うも過少の縁って言うし、良かったらあたしに話してみない。あたしにできることなら、力になるから」

 にこやかに言うサスガの足元で、コンチェルトが呆れ顔で呟いた。

「……袖触り合うも多生の縁だヨ」

 その指摘は、誰も聞いていないけれど。

 サスガの言葉に、少年はわずかに踏み止まった。が、すぐに駆け出した。

「しっつれ~だな~」

 頬を膨らませるサスガだったが、コンチェルトにしてみればむしろ失礼なのはサスガだった。口に出したりはしないが。

 サスガは少年の先回りをするために、少年とはわずかに異なった方角に向かった。

「気の毒だネェ」

 サスガの身体能力にかかれば、陸上のオリンピック選手でも逃げられはしない。

「よっぽどあの坊やが気に入ったんだろうネ」

 仕方ないので、コンチェルトもサスガの後を追った。


 公園の出入口まで走って、少年は足を止めた。

 まさか、人がいるとは思わなかった。あんなみっともないところを見られてしまうなどとは。やはり、今日この日は厄日らしい。

 全力で走ったために乱れた息を整えていると、聞き覚えのある声が少年の耳に届いた。「やっほ~」

 入り口脇の『公園使用上の注意』と書かれた看板の前に、さきほどの少女が肩に黒猫を乗せて立っていた。顔の横で手をひらひらさせながら、にこやかな笑顔を浮かべている。 少年は、信じられないといった面持ちであった。一体、どうやってこの少女は先回りをしたというのか。

 困惑する少年が落ち着くのも待たず、サスガは繰り返した。

「ねえ、あたしに相談してみなよ。誰かに聞いてもらうだけでも、楽になれるかもしれないよ」

 それは悩みの内容によるし、そもそもこの少年が悩み事を抱えているというのも、サスガの思い込みでしかないのだが。

「ね?」

 笑顔で迫るサスガに、少年は逃れられる相手ではないと悟った。こうなると、下手に逆らったりしなほうがいいだろう。少年は、意を決した。半ば自棄だったりもするが。

「分かりました……」

 遠い目で答える少年であった。一応、サスガの憶測は当たっていたらしい。

「あたしは流我。キミは?」

「奏治です。藤井奏治」

「ソウジか。いい名前だね」

「それはどうも……」

 晴れやかな笑顔のサスガと、苦々しい微笑の奏治。

「ご愁傷サマ」

 誰にも聞こえないくらいの小声で、コンチェルトが呟いた。

 同情はしても、助け船は出そうとしないコンチェルトだった。なんのかんの言っても、彼は彼で退屈しているのだった。


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「ええと、そのですね……」

 立ち話もなんだからということで、手近なベンチに腰を降ろしてから、奏治はとつとつと語り始めた。

「何と言ったらいいのか。つまりですね……」

 が、なかなか内容に入らない。込み入った事情があって、上手く整理できないのだろうかと、サスガは根気強く待った。

「だから、その……」

 三分ほど経過しても、この調子だった。どう話せばいいのかを迷っているのではなく、話すことそのものに気後れしているようだった。話すのが厭だというのではなく、サスガに対して遠慮しているという風であった。

 いいかげん我慢できなくなったサスガは、奏治にまくしたてた。

「あーもう! グジグジしてないで、シャキっとしないさいよ。男の子のくせにとか言うつもりはないけど、自分で情けないとか思わないの?」

「は、はイ!」

 声が裏返ってしまっている奏治だった。

『可哀相にネェ』

 ひたすら小さくなる奏治に、コンチェルトは同情的な気分になった。コンチェルトの見たところ、彼は女性と接することに苦手意識を持っているようだ。こういう手合いにはこれまでも何度か会ったことがあるので、まず間違いない。そのことにはサスガも気づいているのだろう。だからこそ、奮起を促しているのだ。

「ほら、分かったら実行!」

 まるで、息子に苦手な食物を克服させようとする母親のようであった。そんなサスガに後押しされて、奏治はようやく事情を語り出した。

「今日は、僕の誕生日なんです」

 まだ声は控えめだが、さっきまでのような不明瞭なものではない。サスガは、満足気にふんふんと相づちを打った。

 本当に女性と話したりすることが不得手なのなら、サスガが少しばかりどうこう言ったところで、そう易々と乗り越えられるものではない。問題なのは、奏治自身がそうと分かっていないことだろう。

「僕は、小さい頃から誕生日を誰かに祝ってもらったことがないんです」

 奏治は、ごく一般的な家庭に生まれ育っており、学歴や容姿などどこをとっても平凡な少年であった。そんな彼だったが、たった一つだけ幼少期より続く特殊な慣習があった。「あれは、僕が五歳の誕生日を数日後に控えた時でした。それまで、僕は誕生日を祝うっていうことを知らなかったんです。それで、初めて知って両親にそのことを話すと、父が言ったんです。『男にとっての誕生日ってのは、女と過ごすもんだ。家族に祝ってもらうなんてのは、本当の誕生日じゃない』って」

 幼い子どもにとっては、親の言うことはどれだけ偏った見識であろうとも、それが正しい事実になってしまう。奏治も、父のその言葉を鵜呑みにしてしまった。彼にとっては不幸なことに、彼の父は本気で自身もそうしていたし、母もその意見に賛同していた。

 これが、今でなら別段どうでもいいと思えたのだろう。だが、幼い奏治には誕生日を祝ってもらえないというのは、切ない出来事であった。

 以来、十六歳となった今日まで、毎年欠かさず奏治は誕生日を一緒に過ごしてくれる女性の獲得に奔走した。

 しかし、その努力の結果は彼が言った通り。

「日が悪かったんですよ。考えようによっては、三百六十五日で、最悪かも知れない」

 平凡を絵に描いたような彼は、特にこれといった魅力がない。だが、性格が悪いだとか異常な性癖があるといったようなこともない。それでは、どうして毎年十数人の女性に声を掛けてことごとく断られたかというと、やはり誕生日の日が悪かったのが最大の要因であった。

 奏治の目的を達成に立ちふさがった、どうしようもなく堅固な壁。それは、奏治の誕生日が十二月二十四日だということだった。いわゆる、クリスマス・イヴである。

 子どもにとって、クリスマス・イヴは家族で過ごすのが当たり前であった。なので、奏治の頼みを承諾してくれる女子は皆無だった。だがそれも、やがては雲散霧消する問題でしかないはずであった。一定年齢を超えれば、ファミリークリスマスもないだろう。奏治はそう高を括っていた。大きな間違いであった。たしかに、家族で過ごすからという断りはなくなった。だが、代わりにその日は特別な日だからと断られるようになったのだ。

 一定年齢以上になれば、クリスマスは家族ではなく恋人同士のイベント、それも一年で最大級のメインイベントになってしまう。そうなると、奏治の誘いは交際を申し込んでいるようなものであった。当然、快諾されるはずもない。当人たちにそのつもりがなかろうとも、周囲がどう受けとめるかなど考えるまでもない。これが、そのものズバリの告白なのなら、受け入れられたかも知れない。しかし、奏治にとってはただ誕生日を祝ってもらいたいというだけ。こんなピンボケに付き合ってくれるような女性など、そうはいない。 こうして、奏治は毎年数人から十数人の女性にふられながら、誕生日を祝ってもらいたいという気持ちだけを積み重ねてきたのである。

「そんなわけで、今日も一人でアテもなしにブラブラしてたんです」

 そしてサスガと出会った。と、そういうことだった。

『なんなんだかナァ……』

 奏治の気の毒な身の上話を聞き終えたコンチェルトの、素直な感想であった。本人にとっては苦汁をなめた辛い思い出なのだろうが、傍から聞くぶんにはナンセンスな笑い話にしか聞こえない。しかも、あまり面白くない。

 神妙な面持ちで語り出すものだから、どんな話かと思えば……。コンチェルトは、途中まででも真剣に聞いて損をした気分だった。

『でも、少しでも退屈しのぎができ……』

 ふと、サスガの様子を伺って、コンチェルトは絶句した。

 サスガは、本気で同情していた。彼女との付き合いの長いコンチェルトでなくとも、はっきりと分かる。

「寂しかったんだね……」

 被造物であるサスガには、誕生という概念が希薄なので誕生日にもあまり関心がない。それでも、長い年月の間にそれに接したことは幾度かある。クラッカーが弾けシャンパンの栓が飛ぶ賑やかな誕生会もあれば、いつもの質素なパンよりもほんの少しだけ上等なパンに野菜クズのスープに肉の欠片が入っただけのもので祝う誕生日もあった。豊かで豪勢な誕生会があれば、貧しく質素なものもある。それでも、親しい者から祝福されるその日の主役たちの顔は、サスガには誰のものも輝いて見えた。とても、嬉しそうに見えた。

 奏治は、そんな体験がないというのだ。さらに、努力が報われないというオマケつきでだ。ただ寂しいばかりでなく、虚しくもあっただろう。誕生日を祝ってもらえないということが別段大したことではないとか、奏治の努力がいささか的外れであったことは、サスガにはさしたる問題ではなかった。

 奏治の手をとって、サスガは力強く宣言した。

「今日一日、あたしがあなたに付き合ってあげる!」

 力が込められていたのが声だけでなく手にもだったため、奏治は痛みに顔をしかめそうになるのを、必死に抑えた。

「あの、本当に僕に付き合ってくれるんですか?」

「もっちろん!」

 しかし、奏治は顔色を曇らせた。『いいのだろうか?』そう顔に書かかれている。けれど、それもほんの一瞬だった。サスガの笑顔が、奏治の表情の陰りを強引に払拭した。困惑が完全に消えてなくなったわけではないけれど。

 手に手を取り合って、一人は笑みを浮かべ一人は困惑を顕にする若い男女。そんな通行人がいたならば避けて通るであろう光景を、コンチェルトは冷静に眺めていた。

 サスガが人間にお節介を焼こうとするのは、今に始まったことではない。だから、それについてはどうこう言うつもりはない。ただ、

『どうすればいいのか、分かってるのかネェ』

 コンチェルトの懸念は、まさしく的を射ていた。

 しばらくして、サスガは奏治に尋ねた。

「それで、具体的にどうすればいいの?」

「え?具体的にって言われても……」

 困ったことに、奏治にも明確なプランはなかった。約束を取り付けることさえ成功したことがないのだから、それも仕方なかったのだが。

 あれこれと考えた挙げ句、奏治は言った。

「とりあえず、手を放してほしいんだけど」

 奏治の指先は、青白くなっていた。


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 その後の行動の指針は、サスガの一言によって決定した。

「とにかく、楽しく過ごそうよ」

 やはり具体的なプランはないままだったが、その方針に従って二人は繁華街へと繰り出した。もちろん、コンチェルトも一緒である。

 街は、クリスマス・イヴということもあって大にぎわいだった。冬休みの初日を楽しもうとする学生たちや、今日を節目と気合いを入れているカップルたち、家族連れなどなど人出は激しい。そして、商売をする側も売り上げ増大のチャンスとばかりに、クリスマスにちなんだ飾りやポップを並べるものだから、通りは狭くなってしまっている。

 人が多い上に道は狭いときて、サスガは歩くのに苦労した。今も、サンタクロースの格好でビラを配っているケーキ屋の店員にぶつかりそうになって、慌てて避けた。

 前に進むためには、右に避けたり左にかわしたりと人混みの隙間を縫わなければならないので、サスガの背負ったナップザックはほとんど絶え間なく揺れていた。

「うう。揺れるナァ……」

 サスガの背負ったナップザックの中で、コンチェルトは唸った。コンチェルトを連れたままではほとんどの店舗や施設に入ることができないので、サスガはまずナップザックを購入して、この措置をとったのだった。

「コンチェルト、大丈夫?」

 奏治に聞こえないように小声で、サスガはコンチェルトを案じた。

「まあ、なんとかネ」

「ごめんね。しばらく我慢しててね」

 しばらくというのは、あと何時間後なのだろうか?考えても仕方ないので、コンチェルトは覚悟を決めた。いざとなったら眠ってしまおう、とも。

 背後のそんなやりとりには気づかないまま、奏治はサスガに先行して歩いていた。奏治には、サスガの手を引くような甲斐性はない。

 奏治とサスガは、距離を空けて歩いていた。微妙な距離とかではなく、はっきりと間を空けているのだ。連れ立っているようには、全く見えない。そのくせ、奏治はしょっちゅう振り返ってはサスガの様子を窺う。奏治なりの気遣いなのだが、意味がないことおびただしい。

 しばらくして、とりあえずの目的地を前に奏治は足を止めた。

 そこは、ゲームセンターであった。まず映画館に行ってみたものの、次の上映時間までは小一時間あったのだ。

「えっと、流我さん。ここで時間を潰すってことで、いいですか?」

 奏治の問いに、サスガは渋面を返した。見るからに不服そうである。

「あの、嫌でしたか? それなら、別のところに……」

 慌てて歩きだそうとする奏治に、サスガは表情とは裏腹な明るい声で言った。

「あたしに敬語使うの止めようよ。それに、あたしのことは呼び捨てでいいよ」

 出会ってからずっと、奏治はサスガに馬鹿丁寧な態度をとっていた。有り体に言って、腰が低い。公園を出てからは、ずっとサスガの機嫌を伺う言動ばかりだった。ようやく得た誕生日に付き合ってくれる女性だから、慎重になっているのだろう。さらに女性が苦手とあっては、毅然とした態度など望むべくもない。

 だが、サスガはそんなふうに接されるのは好きではなかった。

 すぐには何を言われたのか理解できなかった奏治だったが、サスガが自分にどうするように言っているのか分かると、途端にうろたえた。普段、学校の級友の女子にでさえ、こんな調子で接している彼にとって、年上(多分)の女性にタメ口をきくなどという大胆不敵なマネは想像を絶する暴挙だ。しかも、呼び捨てにしろとは。

『これで、よく何人も女性を誘えたモンだヨ』 

 と、コンチェルトは半ば感心し、半ば呆れた。

「それは、でも……」

 躊躇する奏治に、サスガは畳み掛けた。

「その方が、楽しく過ごせるよ。お互い、初めて合った同士でどっちが偉いってこともないんだしさ。歳だって、あたしがちょっぴり上なだけだし」

 年齢がどうこうというくだりで、サスガの背負ったナップザックが揺れた。まるで、中身が転倒したかのように。サスガは、それを無視した。

「けど……」

「ほら、そしたら言い直し」

 サスガの勢いに押されて、奏治は生まれて初めて女性にタメ口で話した。

「……流我。ここで、いいで……いいかな?」

 たどたどしくあまり変化もなかったが、それでもちゃんと呼び捨てにしているし、敬語でもなくなっている。

 サスガは、にっこりと笑って頷いた。

「うん」

 意気揚揚と自動ドアをくぐるサスガに、奏治は苦笑しながら後に続いた。苦笑であっても、それは奏治が公園を出てからようやく浮かべた笑顔であった。

 店内に足を踏み入れると、喧騒が二人を出迎えた。店内に流れる有線放送の歌謡曲、ゲームの音楽と効果音。特に音ゲーとか呼ばれる類のゲームの音楽が、一際耳につく。

「うわぁ」

 その華やかな雰囲気に、サスガは感嘆の声を洩らした。

「こういう所は、初めて?」

「初めてじゃないけど、すっごく久しぶり。ずいぶんと変わったなと思って」

 サスガが以前に立ち寄ったことがあるのは、テーブルがゲームの筐体になっている喫茶店だった。それと比べれば、違っていて当たり前である。

 見たことのない楽しそうなゲームに囲まれて、サスガはいてもたってもいられなくなった。

「それじゃ、まずあれからやってみよう」

 奏治の手を引いて、手近な対戦格闘ゲームの台を選ぶ。

「あたしゲームのことよく知らないから、教えてね」

「それはいいけど……」

 せめて筐体に貼ってある基本操作くらい見てからにしたらどうかという、奏治のもっともな意見は、あいにく聞き入れてもらう暇がなかった。すでに、サスガは百円玉を投入してゲームを始めてしまっていたのだ。

「負けちゃった」

 案の定、一面でサスガは敗北した。レバーとボタンをガチャガチャやってるだけでは、無理もなかった。奏治は基本中の基本から説明したのだが、いかんせん時間が足りなかった。

「だから、ちゃんと操作方法を覚えてからじゃないと」

「うん、大体分かった。それじゃ、次はこれね」

「って、それ全然違うジャンルじゃないか」

 こんな調子で、サスガは片っ端からプレイした。

 ゲーム初心者のサスガに説明をするため、奏治は自分がゲームをする余裕もなかった。ほとんどは始めてすぐに終わるのだが、次から次へとプレイするものだから、休むことさえできやしない。

 ようやくサスガが満足したのは、店内のゲームの八割方を制覇(クリアしたのではなくプレイしただけだが)してからだった。

「あー、楽しかった」

「ここに来て、正解だったね」

 サスガのヘボプレイに付き合っただけだったが、それでも奏治はこれまでゲームセンターでこんなに楽しんだことはなかった。感情の共有とでもいうのだろうか、サスガがあまりにも楽しそうにしていたので、奏治もそれにつられたのだろう。

 もし、入店前にサスガに対等に接するように言われていなければ、ずっと気を遣っていてこんなふうにはならなかったに違いない。

『その方が楽しく過ごせるよ、か。確かに、その通りだな。変に気を遣われても、彼女だって面白くないだろうし』

 と、奏治が意を新たにしたところで、

「ねえ、あれはどういうゲームなの?」

 サスガが、他とは一風変わった機体を指差した。

「え? ああ、あれはプリントシールを作る機械だよ。その場で顔写真をとって、それを小さいシールにするんだ。たいてい、二人から四人くらいで撮るのが普通かな」

 適当に、知っていることを説明する。男である奏治には、このプリントシールを作る機械はどうでもいいものだった。彼女がいるわけでもなし、一緒にゲームセンターに通うような女友達もいはしない。男一人でこれを利用するような、イタイ趣味は奏治にはない。 奏治にとって特にどうでもいいその機械だが、サスガにとってはこれも面白そうなものの一つだった。

「あれやろうよ」

「は?」

 その提案は、奏治にも一緒に写るようにというものだった。サスガに説明している間にも『自分には縁のないものだな』などと考えていたので、これには奏治は戸惑いを隠せなかった。

 なにしろ、この機械は奏治にとって女専用のものであって、そうでもなければ異性との交流が容易な社交性の高い一部の男のものだ。自分にそんな社交性が備わることなどなく、使用する機会などあるはずはないと思っていた。

『いいのか? 僕なんかが、禁断の地に足を踏み入れてしまって。いや、まてよ。サスガはボランティアで付き合ってくれてるだけじゃないか。そう、ひいき目に見てもただの友達でしかない。でも、ひょっとすると他人から見ると恋人同士に見えたりするんだろうか? だとしたら……。いや、しかし……。それに、初めての相手は……』

 ばかばかしい思索に耽る奏治。

「あれ? ねえ、どうしたの奏治?」

 尋ねても、返事はなかった。

 奏治の内心を見透かせるわけでもないが、サスガは奏治が躊躇する理由におおよその見当をつけた。そういうことなら、仕方がない。

 敬語とさんづけは止めたものの、このお人好しの少年には、女性からの申し出を拒否するといのはいささか困難だろう。サスガは、自分から折れることにした。

「やっぱりいいや。行こ」

 推測が当たっているのかどうかも確かめず、サスガは奏治の手を引いてゲームセンターを後にした。

「あれ?」

 長い思索の果てに『男には冒険しなくちゃならない時もあるよな』などという、当人以外には理解不能な結論に達していた。そうして心の準備をしていた奏治は、今度はすでに自分たちがゲームセンターを出ているという事態に困惑した。

「馬鹿だネェ」

 事の成り行きを傍観していたコンチェルトは、サスガの鈍さと奏治の優柔不断さに、ただただ呆れるだけだった。

 こうして、ややすれ違いはあったものの、それなりに楽しい時間を過ごしたのだった。


 それから、二人は予定していた恋愛映画を観賞した。

 クリスマス・イブに出会って交際を始めた男女が翌年のクリスマス・イヴにささいな出来事から別れ、その後もすれ違いを続けるがさらに翌年のクリスマス・イヴに互いの正直な気持ちを伝え合い、再び結ばれるというストーリーだった。

 だが、はっきり言ってつまらない映画だった。それというのも、演出に多大な問題があったからだ。『男女双方の視点から互いの想いをつぶさに描いた野心作』という歌い文句通りに、物語はところどころで主人公の視点からヒロインの視点へと移り変わる演出がなされていた。これが、すこぶる悪いタイミングでしかも頻繁に行なわれるものだから、ストーリーを追うどころか、今の場面が何なのかさえ分からなくなる。

 奏治は途中で、実は恋愛系ではなくミステリー系を観ているんじゃないか、と錯覚したほどだった。この場合、謎は犯人やトリックではなく、ストーリー構成なのだが。

 それでも、奏治は主人公とヒロインがいさかいを起こしたきっかけやよりを戻した経緯を理解しているだけマシだった。サスガはストーリーなぞ気にせずただ画面を眺めていただけだし、コンチェルトに至っては上映開始から三十分もしないうちに寝てしまった。

 そんな内容であっても、主演男優と女優が一流だということで、客の入りは上々であった。そのため、奏治は退館の際の人混みの熱気には蒸し暑さすら覚えた。

 映画館を出た奏治とサスガは、互いに顔を見合わせた。

「つまらない映画だったね」

「うん」

 二人とも、同時に吹き出す。

 それだけで、不思議と損をしたという気分にはならなかった。楽しめた気さえする。

「次はどこ行こっか?」

 その時、サスガの声をかき消すように風が吹いた。この時期のものだけあって、人混みの熱気で火照った体もいっぺんに冷えてしまった。

 そこで、ようやく奏治はサスガのいでたちに注目した。

 奏治は着ていたジャンパーを脱ぐと、それをサスガに差し出す。

「そんな格好じゃあ寒いだろ、僕は平気だから。これでも、寒さには強いんだ」

 その言葉は、奥歯がかちかちと打ち合わされていたため、やや不明瞭だった。

 奏治の言うように、サスガはこの時期には相応しくない服装である。人形であるサスガには何ら不都合はないのだが、奏治はそんなことは知らない。

 こういう時にどうすればいいのか、サスガは承知していた。人の優しさに触れるのは、もう数えきれないくらいだ。

「ありがとう」

 サスガは、奏治のジャンパーを受け取って一旦ナップザックを下ろしてそれを着た。奏治の肌の温もりが残っているが、サスガにはそれを感じることはできない。

「次だけど、絵画展なんかどうかな?」

「奏治の好きな絵とかあるの?」

「僕の一番好きなイラストレーターの絵画展なんだ」

「んじゃ、それ行こ」

 歩きだした奏治の肩は寒さに震えていた。それでも、肩を抱いたりポケットに手を入れたりといったことはしようとしない。サスガの手前、寒がることはできないという意地であった。

「おっとこのコだねえ」

 ことさらにゆっくりと歩く奏治の歩調に合わせて、サスガは奏治と並んで歩いた。


 絵画展では、奏治は水を得た魚のように活き活きとしていた。

 一枚一枚の絵について、嬉々として解説した。技法や画材などの蘊蓄だけだったなら、絵画に疎いサスガにはたまったものではなかっただろうが、奏治はその絵に作者のどんな思いが込められているかといったことや奏治自身はその絵のどんな点がいいと感じたかなどについて話したので、サスガにも理解でき退屈ではなかった。

 一枚のパンフレットを顔を突き合わせながら読む二人を、今日出会ったばかりの赤の他人だなどと思う者などいはしないだろう。まるで、数年来の友人か、恋人のようだった。

                  4


 二人は、最初の公園に戻って来ていた。

 あれから、クリスマスセールで賑わうショッピングモールを冷やかしたり、ストリートバンドのライブを聴いたりして、大いに楽しんだ。

 その後、特に行くアテもなくなり、自然にこの場所に足が向いたのだった。

 すでに日は沈み、周囲を照らすのは所々に設置されている電灯の明かりだけ。

 昼と変わらず、人気はなかった。まるで、ここだけ街の喧騒から切り離されているかのようだった。

 奏治とサスガは、数時間前と同じベンチに腰を降ろした。

「楽しかった?」

「ああ、最高の誕生日だったよ」

「そう。良かった」

 それきり、二人は押し黙った。どちらも、口を開こうとしない。

 楽しい時は、終わりを迎えようとしている。次に発する言葉は、それを告げる別れの挨拶になるだろう。それを知っているから、二人とも喋ろうとしないのだった。

 だが、いつまでもこうしてはいられない。

 サスガは、自らの手でこの時にピリオドを打とうと決意した。このまま無為に時間を浪費することは、自分はともかく奏治にはさせるわけにはいかない。

「あのさ……」

 サスガが終わりの言葉を紡ごうとした時、奏治がその機先を制するように声を上げた。

「この後だけど、一緒に食事なんかどうかな? イヴだし、予約もしてないから大した所には行けないけど」

 まだ終わらせなくない。奏治の気持ちは、サスガには痛いほどに分かった。サスガも、同じだから。いや、サスガのそれは奏治以上だった。

 別れたくないけれど、そうはいかない。人形であるサスガには、人と同じ刻は過ごせない。必ず、別れの時がくる。もう、これで何度目だろうか。

 サスガは腰を上げて、奏治の正面に立った。そして、真っすぐに奏治の瞳を見つめて言った。

「それは、ダメ」

「どうして?」

 奏治も立ち上がって、必死に食い下がった。サスガの決意が、揺らぐ。

 サスガは気持ちを落ち着けて、静かな声音で告げた。

「奏治が今日を一緒に過ごしたいのは、あたしじゃないでしょ」

「そんなこと……」

「最初にあたしが付き合うって言った時に、誰のことを考えたの? プリントシールを一緒に撮りたかったのは、誰? 今日ずっと考えてたのは、誰のこと?」

 まさしく、サスガの言うとおりだった。

 奏治はサスガと一緒にいる間、しばしばある女性のことを考えていた。サスガと楽しい思いをすればするほど、彼女のことが頭に浮かんでしまった。

 やはり、と奏治は思う。自分が今日この日を共に過ごしたいと願うのは、サスガではなく彼女なのだ。

「……ごめん……」

 奏治は、顔を俯けた。罪悪感から、サスガの顔を直視できない。

「謝ることなんかないよ」

 それでも、奏治の顔は俯いたまま。

「まったく……。どうせ、その人には声を掛けてないんでしょ」

「他の誰に断られても平気だけど、あいつにだけは……」

「奏治」

 サスガの手が奏治の両頬を挟み、顔を上げさせる。

「自信もちなよ。奏治が振られてたのは、そうやってオドオドしてたから。でも、見ず知らずのあたしと一緒にいて、普通に話して一緒にいられたでしょ。今の奏治なら、ゼッタイ大丈夫。あたしが保障してあげる」

 借りていたジャンパーを脱いでそれを返すと、サスガは奏治の背中を押した。

「まだ、バースデイ・ディナーには間に合うよ。ほら、急いで」

 もう一度、サスガは奏治の背中を押した。

 躊躇いがちに数歩進んだところで、奏治は立ち止まって振り返った。

「流我……」

 万感の思いを込めて、奏治は言った。

「ありがとう!」

 言い終える頃には、奏治はサスガに背を向けて走りだしていた。

「奏治ー! 誕生日、オメデトー!」

 サスガの祝辞に、奏治は片手を振って応えた。

 そして、奏治の後ろ姿は夜闇にまぎれて見えなくなった。

 これまで数えきれないくらいの別れの挨拶を送ってきたが、今度のそれは初めてのものだった。また一つ、別離の言葉が増えた。多分、もう使うことはないだろうけど。

「さってと」

 サスガは、奏治が走って行った逆の方向へ踏み出した。

 それまでナップザックの中でじっとしていたコンチェルトは、ナップザックから出て、いつものようにサスガの足元に並んで歩いた。

「行こっか、コンチェルト」

「そだネ」

 数歩進んだところで、サスガは少しだけ振り返ると残念そうに呟いた。

「プリントシール、撮ってみたかったな」

 そうしていたら、ハンドバッグの中に新たな思い出の欠片-宝物が増えていただろう。サスガと人との道が交わった、確かな証が

「いつか、きっとまたその機会があるヨ」

「うん」

 人間の少年と人形の少女は、別々の方向へと歩んで行った。両者の道が再び交わることは、もうないだろう。


                  5


 十二月二十四日、深夜。人気のない自然公園に、一組の年若い男女の姿があった。

 二人は夕食を伴にした帰りであった。今日はそうした男女の姿が多くのレストランなどで見かけられるが、この二人は世間一般のそれとはやや違った意味合いでだった。

 あらかじめ予約をとっていたわけではなかったので、喫茶店に毛の生えたような店で値段のわりに味はいま一つだったが、それでも二人は満足だった。

「やっと、誘ってくれたね。何年も待ってたんだぞ。このまま、オバサンになっちゃうんじゃないかって、心配したんだから」

 少女は、隣を歩く幼なじみの少年の手を握った。てっきり慌てて振りほどかれるかと思っていたのだが、少年も少女の手を握り返した。

「なんだか、男らしくなったね」

 少女の知っている彼は、異性にはてんで弱い小心者だった。小さい頃からの付き合いの自分とさえ、堂々と接することができないような。

 しかし、今日の彼は違った。自分を異性だと意識する前のように、ごく自然に振る舞っている。どことなく、自信に溢れているようでさえあった。

「男の子って、いつの間にか成長してるんだね」

 少女は、自分と少年の背を見比べた。昔は自分の方が高かったのに、今では少年の顔を見上げている。

「あ」

 少年の顔を見上げていた少女は、空からゆっくりと降ってくる雪に気がついた。

「素敵。ホワイト・クリスマス……ううん、ホワイト・バースデーだね」

 雪の一欠片が、少女の手に乗った。淡い粉雪は、すぐに溶けてなくなってしまう。

 きっと、あと何時間もしないうちに雪は止み、明日にはその痕跡も残ってはいないだろう。

 それでも、この日この時だけでかまわない。

「天からの、プレゼントだね」

 少女へのクリスマスプレゼントであり、少年へのバースデイプレゼント。それとも、臆病だった少年が勇気を振り絞って一つ成長したことへの、ご褒美だろうか。

「……クシュン」

 冬の夜の寒さに、少女の口からくしゃみが漏れた。あまりにも突然の誘いだったため、じっくり身仕度する暇がなかったからでもある。

「あ」

 震える少女の身体に、少年は自らの上着を羽織らせた。

「キザなことしちゃって。女のコにこんなふうにしたら喜ばれるって、誰かに入れ知恵でもされたの?」

 少年は、頭を振った。

「教えてもらったのはもっと単純で、大切なこと」

 この場にいない誰か。少年の瞳は、その誰かを見ていた。それが、少女には少し悔しかった。その人が、彼を成長させてくれたのだろう。それは自分の役目だと思っていた。そして、その誰かに感謝する。きっと、自分では彼に一歩を踏み出させるにはもっと多くの時を必要としただろうから。

 少女は、毎年この日に少年に送り、一度も少年に届かなかった言葉を贈った。今年こそは届く。彼は、すぐ傍らにいるのだから。

「誕生日おめでとう、奏治」

「ありがとう」


                  6


 サスガとコンチェルトは、この辺り一帯で最も高い建造物の屋上から、夜の街を見下ろしていた。今夜のイルミネーションは、この日のために趣向が懲らされている。ちらほら舞い降りる雪の白が、いいアクセントになっていた。

「綺麗だね、コンチェルト」

「そだネ」

 クリスマスイルミネーション。二千年も前の聖者の誕生を祝うためではなく、今日この日に生まれた者を祝うためでもない。

 今日という日を楽しもうとする人によって、

 今日という日を楽しもうとする人のために、

 夜というキャンバスに描かれた祝辞。

 サスガの右の眼に、人工の灯りが躍る。

「左目、見えなくなったんダ……」

「うん」

 本来なら、今日この地に雪が降ることなどありえなかった。奇跡でもなければ、それは起こらない。

 だから、サスガは奇跡を願った。

 サスガから、この日をかけがえのない時とする人々への、贈り物として。

 サスガを創った魔法使いは、サスガに一つの能力を与えた。それは、願うことで奇跡を呼ぶ能力。代償として、自身の一部を失うことで。

「どうしテ! こんなことにわざわざ使ったのサ? 自分を大切にするようにって、あれほど言ってるのニ!」

 今日この日に雪が降ったからといって、それがどうだというのか。コンチェルトにとって、そんなことなど何の意味もありはしない。サスガが無駄に自分の一部を捨ててしまったとしか思えない。

「プレゼント。この国だと、誕生日もクリスマスもプレゼントを贈る習慣があるでしょ。だから」

 コンチェルトには無意味と写る行為だが、サスガにはそれをする理由がある。

 これまでも、サスガはこの能力で奇跡を起こしてきた。

 事故で視力を失った少女は、再び光を取り戻した。

 ひたむきに夢を追っていた青年は、夢を叶える機会を手に入れた。

 他にも、幾人かの奇跡を享受した者がいる。皆、サスガが出会った優しい人々。

 その度にサスガは右耳を聾じ、左の薬指と小指を動かせなくなった。サスガの身体は、創られたばかりの頃に比べ、いくつもの不都合がある。

 それでも、サスガは人と接することを止めようとはしない。サスガが奇跡を願うのは人のためだけで、人との関わりを断てばもうこれ以上、自分を失うことはなくなるというのに。

 今日のように人の成長を促したこともあれば、人の悲しみを癒したこともある。そうすることが、人形の役割だからと。

 だが、サスガが人と伴にあり続けるのは、それが人形の為すべきことだからというだけではない。サスガにとって、人の優しさに触れることこそが無上の喜び。

「人間って、優しい生きものでしょ」

「あの坊やは、単なる小心者だったって気もするけどネ」

 今日出会い別れた少年は、自分が震えながらサスガに上着を譲ってくれた。

 彼のような者がいるから、サスガは人との出会いを求める。

 そして、文字通り自らの身を削り奇跡を贈る。

 悲しいことに、世の中は優しい人が報われるとは限らない。むしろ、その逆があまりにも多い。だからこそ、サスガは出会った優しさを持つ人々のために能力を行使する。それはサスガからの、これからも優しさを失わないで下さいという言葉のないメッセージ。

 そんなサスガの想いは、コンチェルトとて知らないわけではない。だが、コンチェルトが案じなければ誰がサスガを省みるだろう。

 人々からサスガが得るものに対して、サスガが人々のために失うものはあまりにも大きい。せめて自分だけでも思い遣らなければ、サスガが不憫に過ぎる。だから、コンチェルトは聞き入れられないと知りつつも、サスガに自愛を説く。

「サスガ、幸福の王子って童話知ってル?」

「自分の体の宝石とかを、貧しい人に分ける銅像の話でしょ」

 きょとんとするサスガに、コンチェルトはしばし口ごもった。自分のこととなると、どうしてこんなにも疎いのだろう。

「あの話の銅像は、あげられるものを全部あげて最後はただの汚い銅像になるんダ。ボクは、サスガにそんなふうにはなって欲しくなイ。目が見えなくなって、耳が聞こえなくなって、喋ることも動くこともできなくなって、考えることもできなくなル。そうなったらサスガは本当にただの人形になっちゃうんだヨ? だから……」

「コンチェルト」

 サスガの腕が、コンチェルトを優しく抱く。

「そうなった時、きっと……ううん、絶対にあたしは幸せでいっぱいだよ。だって、最後の最後まで、ずっと人の優しさに触れられていたってことだから」

「サスガ……」

 朝になれば、煌びやかなイルミネーションは消え、雪も溶けて無くなっているだろう。しかし、最初から存在しなかったことにはならない。それを見た者がいる、憶えている者がいる。

 いつかサスガが自分を全て喪失してただの人形になったとしても、サスガが過ごした時は幻ではなく確かにあったこととして、サスガが出会った人々の胸に残る。コンチェルトも、憶えてくれているだろう。それだけで、サスガには充分だった。

 人形の少女と黒猫は、今夜限りの景色を眺め続けた。

 瞳に映る世界に、人形の少女は想う。

 世界は、サスガが生まれてからもその姿を少しずつ、しかし確実に変じてきた。それでも、変わっていないこともある。

 人が、泣いたり笑ったり怒ったり喜んだりしながら、生活を営んでいるということ。

 世界中に、人々が生きている。

 だから、

「世界は優しさで一杯だよ」

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