死者と生者とその狭間
北原小五
完結済み
「ずっと一緒にいたい」
2047年7月10日深夜、デジタルクローンとなった故人百名が様々な言語で、様々なアプローチで、遺族に対しこう呼びかけた。
「だからあなたも死んでくれない?」
***
デジタルクローンの中身はただの人工知能に過ぎない。故人の性格や趣向、高グラフィックな360度モデリングを反映した、ただのAI。しかしデジタルデバイス上の彼らは、不気味の谷と呼ばれる人間の機械に対する本能的恐怖を越え、ビデオ通話のようにごく自然に遺族へと話しかける。
必ずしも遺族がデジタルクローンを選択するかと言うと、それは否だ。何しろ、デジタルクローンは一人当たり車が買えるほど高額で、年に数度あるアップデートのために何十万と飛んでいく。そんなものに金を払えるのは自然、富裕層に限られた。
水鏡(みかがみ)アイカはそのデジタルクローン技術で世界シェア一位を誇るウェルボーン社を訪れていた。
清潔さと豪華さを兼ね備えた高層ビルは如何にウェルボーン社が儲かっているかを証明している。心理学部の准教授であるアイカは大企業を訪問する機会などほとんどないので比較のしようがないが、それでもウェルボーン社が一線を画していることは理解できる。
滝のあるエントランスでうろついていると、アイカの携帯端末が震えた。電話を取ると、同僚の研究員の藤原からだった。
「もしもし水鏡教授? 藤原です」
「どうしたの?」
藤原はアイカと同じ大学の心理学部准教授である四十代の男性だ。アイカより一回り以上年上だが、立場はアイカの方が上である。
「昨日のデータ、修正版を上げておいたので確認をお願いします」
そんなことなら、午後に大学に行くのだからそのときに伝えてくれればいいのにと思ったが口には出さない。どうやら藤原はアイカに気があるらしいのだ。あくまでも伝聞でしかない情報で信ぴょう性は薄い。あからさまに態度を変えるのも申し訳ないので、気さくに返事をして通話を切った。
少し怖い話だが、一週間前にアイカは自宅マンションのキーカードを紛失していた。早くカードを変えようと思ったのだが、管理会社は自動応答音声が流れるばかりでオペレーターと繋がる気配はまるでない。
まさか藤原さんが?
いや、むやみに人を疑うのはよくない。
「こんにちは。水鏡アイカさまですね?」
そのとき、エントランスににっこりマークを画面に表示させた背の低いロボットがアイカを出迎えた。アイカは腕時計型電子端末に自身のIDを表示させ、ロボットにそれを読み込ませる。無事に認証されると、小さな会議室に通された。目の前には背筋が伸び、どこか猛禽類のような鋭い目つきをさせた白髪の女性がいる。
「こんにちは、水鏡先生。わざわざお招きしてしまって、申し訳ありません」
女性社員とIDの交換をし、着席する。アイカは今日の来訪の目的について『デジタルクローン技術がもたらす心理的問題』について専門家の意見を聞きたいとしか聞いていない。所属する大学がウェルボーン社と同じ都内にあること、親戚がウェルボーン社に勤めていたこともあり、そういった条件の中から、まだ若手研究者ともいえるアイカが選ばれたのだろうと自分で何となくは推測していた。
「本当に私なんかでよかったのでしょうか?」
「何をおっしゃいますか。水鏡先生の研究は数々の学術雑誌にも取上げられていて、新進気鋭の研究者と伺っておりますよ」
たしかに水鏡は三十代前半と言う年齢のわりには優秀な部類に入る。美人な顔立ちもあってか、日本で活躍する研究者としてネットニュースに写真付きで載ったこともある。
「ですが、正直に言うと、先生をお招きしたのは、ご親族に当社の社員がいるからなんです。これからお話しすることは非常に機密性が高く、かつデリケートな問題なので。一週間前に当社の製品をお使いのお客様が多数自死なさったのです。最期にやり取りしていたのが、どうやら当社のデジタルクローンだったようで……」
「え……?」
「警察から当社に問い合わせがあり判明したことです。製品とお客様のやり取りの内容はプライベートなことですので、当社にも会話の内容はわかりませんと返答しました。しかしどうやら警察はデジタルクローンが自死を誘発したのではないかと疑っているようでして……」
困ったという風に女性社員は肩をすくめる。
「もちろん当社のすべての製品は国際AI倫理委員会の認定を得ています。不適切な発言、ユーザーを傷つける発言は致しませんし、警察も一応は納得してくれているようです。しかし人の心とは科学的データだけでは推し量れないものですから、今回は水鏡先生に、心理士の目線から今回の事件についてご助言をいただけないかと思いまして」
そういう女性社員はまったく自社製品を疑っている様子はない。それどころからさっさとこの不必要な仕事を終わらせてしまおうという気配すら感じる。
「わかりました……」
それからは報酬の手続きや電子署名、同じビル内にあるラボに案内された。研究用であるデジタルクローンと実際に会話することもあった。
刑務所の面会室のような一対一の静かな部屋。面会室と違うのは、二人を隔てているのが、透明な板ではなく液晶パネルだということだけだ。あえて言うのならば、生と死の境界も二人を隔ててはいるが、ここではそれは些末な問題に過ぎなかった。
「こんにちは、あなたも研究者さんかしら?」
機嫌のよさそうな老婦人、それから若い男性とも、子供のデジタルクローンとも話をした。それでもユーザーがこれらデジタルクローンから受ける心理的なダメージをこれというのは特定できなかった。
丸一日、夜になるまで面会を続け、対象が赤の他人だからかもしれないが、と前置きしたうえでアイカは検証結果を伝えた。女性社員は満足気に笑って、ビルの外へと見送ってくれた。
***
「へえ、そんなことが」
「驚きでしょう。ニュースにもなってないし、ウェルボーン社がマスコミに圧力をかけているのかしら」
「まあ、AIが誘発した証拠がないんじゃ警察もどうしようもないか」
そういうアイカの話し相手は画面の奥にいる。石景(いしかげ)ミチヒ、アイカの恋人である。否、恋人、というには語弊がある。
「でもその話、デジタルクローンの僕にするの?」
ミチヒもまたデジタルクローンだ。生きてはいない。アイカはそのあべこべさに思わず苦笑を漏らしてしまう。
「だって私、あなた以外に話し相手もいないもの」
「友達を作れって、僕がよく言ってるじゃないか」
「めんどくさい。そんなことより心理学の研究をしたいし」
「人間の心理は好きなくせに、人間は嫌いなんじゃ、仕方ない奴だな……」
そういうミチヒはくすくすと笑っている。そのとき目尻にきゅっとしわが寄るのが、どうしようもなく愛しいとアイカは思う。
液晶画面にいるミチヒと穏やかに会話を続けていると、腕時計の端末がぴこんと鳴った。重要なメッセージが来たときにだけ鳴る音に、アイカは瞬時に体を固まらせた。
「電話、出なくていいの?」
きょとんとした顔でミチヒが訊ねる。電話相手のことをミチヒは知らない。アイカはこわばった笑みを浮かべ、取り繕う。
アイカは基本的に、家にいるときミチヒの液晶画面をずっとオンにしている。夜、眠るときのために、寝室にも液晶画面はある。家のいたるところに、階段の踊り場にさえ、画面の中のミチヒは行き来できる。ミチヒに会話を聞かれないようにするためには、彼のAIをオフにするしかない。彼をオフするのはここ二年していないことだった。
「ご、ごめんなさい、ミチヒ……」
画面の中のミチヒはこちらの意図がまだ読めていないのか不可思議そうな顔をするままだ。アイカは三重にもかかったロックを急いで解除し、一時的にミチヒの全機能を停止させる。そうしてようやく電話に出られた。
「そっちは夜だよね。忙しかった?」
聞こえてくる声は昔とちっとも変っていない。
「いいえ、少し、火の始末をしてただけ。どうしたの、ミチヒ?」
電話の相手は石景ミチヒだった。今はフランスのパリにいて、奥さんと息子もいる。
『アイカのミチヒ』は正確には故人・石景ミチヒの完璧なデジタルクローンではない。そもそも死んでいないのだから完璧な生前など再現できるはずがない。
ただ存在するのは、デジタルクローン技術を悪用して製作された違法クローンのAIだった。
***
ミチヒとの出会いは、一年生のとき、いやいやながらも参加した学生間の飲み会でだった。臨床医ではなく研究職を目指していると語るミチヒは、十八歳と言う年齢に似つかわしくないほどしっかりしていて、なのに笑うとできる目尻のしわが、なんだか幼く見えて可愛らしかった。
もっというと生々しい温度を持った人ではなく、もっと温かな犬や猫、動物のように見えた。そんなことを本人には言えないけれど、アイカはミチヒにだけは抵抗なく、言葉を交わし合うことができた。ミチヒのコミュニケーション能力は高く、交友関係も広かったが、同じく研究職を目指し、将来を期待されている卵という意味でも、二人は意気投合し、すぐに友人になった。
「そういえば、行きたい院を決めたんだ」
「そう。どこなの?」
医学部のミチヒは、四年制心理学部のアイカとは違い、六年制だ。まだ三年生である今の段階で院まで見据える必要はないのだが、何事にも堅実で真面目なミチヒはもう進路を決めているらしい。
「東京。アイカが行きたがってたのと同じところ」
へへっと、どこか悪戯が成功した子供のようにミチヒが笑う。そんなミチヒを見て、一瞬きょとんとしてから、アイカは思わず噴き出した。
「あっはは。そんなに私がいないと寂しいの?」
「そんなんじゃないって! まあ、アイカがいれば面白いだろうけど。でも真剣に考えた結果だってば」
嬉しかった。思えば、もうこの時点でミチヒに恋をしていたのだと思う。もちろん自分はまだそのことに無自覚で、唯一の親友くらいにしか思っていなかっただろうけれど。
アイカにとってミチヒは唯一無二の替えの効かない存在だった。その存在が、二年のラグはあれど、同じキャンパスでまた会えるというのは、とても喜ばしいことだった。
それから、アイカは東京で、ミチヒは京都で暮らしを続けた。半年に一度はあれこれと長いテレビ通話をして、遠距離ながらも食事をして過ごしていた。
その頃にはアイカもミチヒを恋愛対象として捉え始めていて、具体的にどうアプローチしたものかと、友達以上への方策をあれやこれやと画策していた。しかしアイカはプライドがやけに高く、何事にも二の足を踏みがちだった。
ミチヒが六年生になり、医師国家試験の受験日。大学院生となり研究に明け暮れる毎日だったアイカはめずらしく休みを取り、近所の神社に朝早く行って、ミチヒが合格できるように願をかけた。そんなことをしなくとも実力さえ発揮できれば受かると信じているが、何が起きるかわからないのがテストというものだ。
そして桜が散り始めた春先、無事に医師免許を取り大学院にも合格したミチヒと、アイカは東京で再会した。
陽の射し込むカフェテラスで、ミチヒはカフェラテを口にしていた。
「こうして直接会うの、すごく久しぶりだな」
アイカは好みにカスタムしたオーツミルクのココアを飲みながら、笑う。
「誰かさんの泣き言の電話には付き合ったけどね。試験お疲れ様。なんだか少しやせた?」
「まあ、試験に必死だったから……。ちょっとやせたかも」
だらだらと近況を話し合い、日も暮れてきた頃、今度は関東に住んでいる友人たちを集めて飲みに行こうという話になった。
「あのさ」
妙に深刻そうな顔でミチヒが切り出した。
「前、電話したとき、話すか悩んだんだけど。付き合ってない女性にブレスレットをあげるのって、重い?」
「はあ?」
意味が分からず訊ね返してしまう。何も知らないミチヒは照れたように人差指で頬をかいた。
「実は好きな人ができてさ……」
ひゅっと首を絞められたような音が喉から出た気がした。目から動揺を悟られないように、ドリンクへとさりげなく視線を落とす。
ミチヒに好きな人がいる。
ドキドキと嫌な具合に胸が高鳴り、壊れた歯車のように嫌な音を立てている。
考えてみれば、この七年間、彼に恋人がいないこと自体が不自然な話ではあった。こんなにもかっこよくて気立てのいい人間を世間がほうっておくはずがない。それでも恋人ができなかったということは、よほど奥手か、恋愛に興味がないのかもしれないと考えていた。だからこそアイカは悠長に七年間も過ごしてしまった。
そのとき、感情的になり『私じゃだめなの?』と言えばよかったかもしれない。少なくともそうすれば吹っ切ることができたはずだ。しかしアイカの中のプライドが邪魔をして、そうできなかった。
「どのくらい仲良しかにもよるよ」
私は嬉しいよ。
ミチヒはいつも手作りの陶芸品とか、どっかの国のドリームキャッチャーとか、変わったものしかくれなかったし、なんて笑って言えたらよかったのに。
***
カフェテラスの恋愛相談から半月後、ミチヒは告白に成功した。
それと同時に、アイカは運命の出会いを果たした。きっかけは夕方の報道ニュースだ。デジタルクローン技術を応用し、生きているアイドルや俳優と恋愛ができると言う商品を提供していたハーフィーロジスティクス社が倒産したのだ。やはり生きている人間のクローンを作ることはAIだとしても認められないと国際AI倫理委員会が決定し、株価が急落、倒産を余儀なくされたらしい。
それにともない、ハーフィーロジスティクス社の提供していたAIも来月末には順次停止していくのだという。
七年間分の失恋を負ったアイカにとって、そのニュースは悲報ではなく光だった。
どうして気がつかなかったんだろう!
研究室にいたアイカは興奮して今すぐにでも走り出したい気持ちだった。ミチヒには好きな人がいて、ミチヒは私に興味がない。それならば、あらかじめ自分を『恋人』として認識しているミチヒを作ればいいのだ。
しかし、当然問題もあった。頼みのハーフィーロジスティクス社は潰れ、国際AI倫理委員会は生きている人間の模倣を違法と定めた。アイカは法律を破る必要はもちろん、闇市場でエンジニアを見つけなくてはならなかった。
少なくとも今はまだ無理だ。
アイカの中の冷静な部分がそう判断を下す。アイカはまだ大学院に所属する一介の研究員にすぎず、給与もそう多くはない。違法行為を是とするエンジニアを見つけるのにも、依頼をするのにも莫大な資金が必要なのは間違いない。
研究成果を出さなければ。
燃えるような熱い思いがアイカの中で燻り始めた。なんとしてでももっと給与の高いポジションにつけるような研究結果を出し、元ハーフィーロジスティクス社のエンジニアを見つけ出す。そのためなら、なんだってする。
ミチヒとの恋が実らなかった以上、アイカに残された手段はもうこれしかなかった。失恋という痛手を負ったからこそ、アイカはぐんぐんと成長し、類まれな研究者へと成長した。
そして三年後、アメリカの大学院での研究を終え再び日本に戻ってきたアイカは十分な資金と、闇ブローカーとの伝手を獲得していた。ディープウェブの中でハーフィーロジスティクス社の元エンジニアを見つけ出し、違法な手段で手に入れたミチヒのパーソナルデータを提供した。エンジニアにはAIミチヒの完成までは約二年かかると言われた。何年かかろうと構わなかったので、アイカは交渉後即全額を入金した。
そして二年後、ミチヒの結婚式の帰り道に図らずもミチヒを納品したという連絡があった。これは運命だと思った。人間のミチヒが伴侶を得た日、アイカはAIのミチヒと恋人となる。ようやくミチヒとの恋が叶うのだ。
走りにくいパーティードレスを着て、さらにハイヒールを履いていることも気にせず、アイカは駆け足で家路についた。マンションに帰るなり、パソコンを立ち上げ納品されたミチヒを起動する。
「おかえり、アイカ」
数時間前に見たミチヒと瓜二つの顔が画面の中で笑っていた。胸の中が満たされ、幸せというカクテルに酔うようにアイカは何度も「ただいま」と返事をした。
「そんなに言わなくてもわかったよ。そんなことより手洗いうがいをした? 風邪をひくよ」
「うん。……うん!」
何度も頷き、涙があふれた。十二年間、このときを待ちわびていた。アイカにとって優秀な研究者でいることはミチヒを維持するために欠かせないことであり、仕事以上の意味がある行為だった。
ミチヒとの生活は薔薇色だった。彼は現実のミチヒを認識しておらず、アイカを恋人だと思っている。本物のミチヒが研究のため海外生活をしていることもあり、アイカが接触する人格はAIのミチヒばかりになっていった。
研究者として成功したミチヒはパリに拠点を移し、子宝にも恵まれていた。年に一度ほどホリデーが近づくと連絡があるけれど、本当に電話だけの関係だった。
「実は論文が認められて賞をとったんだ。そのパーティーを来月にするからアイカも来てくれないか。もちろん旅費はこっちがもつよ」
「フランスへ?」
AIのミチヒを一時的に消している罪悪感に囚われながらアイカが返事をする。
「子供にも会わせたかったんだ。アイカは心理学のスペシャリストだからお前の考えてることが丸わかりだぞって」
「児童心理は専門外よ。それにメンタリストの真似事はできない。でも、そうね、わかったわ」
早く電話を切ってしまいたい一心でアイカは要件を引き受けた。ミチヒは喜び、ホテルや飛行機を手配して電子チケットを贈ることを約束し、電話を切った。
電話を終えたアイカはすぐさまAIのミチヒを立ち上げる。電源をオンにされたミチヒは切られていた間の記憶が当然ない。電源を落とされていたということすら理解していないようだった。
「そういえば、明日も仕事?」
連綿と続く日常会話にアイカはほっと息をつく。
「ええ、そうよ。あとね、来月に出張の予定があるの」
「出張か。どこへ行くの?」
「……パリ」
その単語にももちろんこのミチヒは反応しない。
「いいところじゃないか。気をつけてね」
にこりと笑うミチヒは何も知らない。本当の自分が今、どこにいるのか。誰といるのか。自分が偽物だということすら、このミチヒは知らない。
***
一ヶ月後、パリに到着したアイカはパーティー用のドレスに着替えてホテルに入った。パーティー会場には百人ほどの招待客であふれていて、皆、ミチヒの功績をたたえていた。
「本日はお忙しい中、会場にお越しくださりありがとうございます」
スピーチをするミチヒは照れていたが、充実感を味わっているようにも見える。司会者が彼の研究をわかりやすく説明し、拍手が起こる。最後にミチヒはスピーチをこう締めた。
「ここまで研究を続けられたのは優しい同僚たちと、先輩方、家族に恵まれたからです」
その言葉と共に、ミチヒの家族が壇上に上がる。幼稚園児くらいの女の子と男の子、それとミチヒの奥さんだ。
――あ。
ミチヒの妻に目が行く。そのか細い腕にはシルバーのブレスレットがついていた。それを見た途端、アイカは学生時代にタイムスリップしたような気がした。あのカフェテラスで、恋人になりたい友人に何を贈るべきか悩んでいるミチヒのことを思い出した。あのときのプレゼントにしては、今身に着けているブレスレットは高級感があるけれど、どちらにせよ、きっとミチヒが贈ったものだ。
自分には贈られなかったもの。ミチヒはそんな小洒落た装飾品なんてくれなかったから。
自然と涙腺が緩み、涙が頬を伝った。はたから見れば、ミチヒの成功を喜んでいる友人に見えるかもしれない。けれどこの涙は、淋しさだった。
ただただ本物のミチヒが恋しく、彼に会いたかった。自分の家で、電源を落とされているミチヒ。あのミチヒこそ、自分にとって本物のミチヒだった。
彼に会いたい。愛していると伝えたい。
たとえ彼が愛を伝えるために生まれたプログラムだとしても、もうそんなことはどうだってかまわなかった。だってアイカ自身もミチヒを愛しているから。
AIだろうと、私にとってのミチヒは彼一人だけ。
一刻も早く日本に帰りたかった。ミチヒに会って、あなただけを愛していると伝えたかった。
***
帰りの飛行機の中で、ウェルボーン社が国際AI倫理委員会に訴えられたとの一報を聞いた。一連のAIの自死誘発事件の真相は行き過ぎた思想をもったエンジニアが原因で、そのエンジニアが、AI管理法を逸脱した表現をAIたちに許可していたのだ。
管理法から逸脱したAIたちは故人の発言から故人が言いそうなことを発言する。その結果、百人の死者が出た。ウェルボーン社は再発防止に努めるとともに、そのエンジニアは懲戒処分、そしてもちろんそのエンジニアは逮捕された。
空港からタクシーで自宅へと帰る。差し込み式のカードキーを入れて部屋の中へ入ると、すぐさまAIの電源をオンにした。しかしミチヒは立ち上がらなかった。代わりにこんな表示が映し出される。
〈delete〉
「どういうこと……?」
ミチヒがいない。パソコンの中のあらゆる場所を探してもミチヒは痕跡すらなかった。
「それはこちらのセリフですよ、水鏡さん」
かつんと靴の音がしたかと思うと、階段から男が降りてきた。同じ研究室の藤原准教授だった。
「藤原さん? どうして家に……」
嫌な予感がしてアイカは後ずさる。藤原は虚ろな目で一歩ずつこちらへ距離を詰めた。
「あのAI、違法クローンですよね。顔写真を撮って検索したら一発でしたよ。石景ミチヒ。調べてみたら、あなたと同じ大学出身だった。友人ですか? 恋人になれなかった友人と言うべきかな?」
「勝手に家に入ってきて何を言い出すの? ……あなた、私の家のカードキーを盗んだのね」
警察に電話しようとバックの中を探るが、焦りと恐怖で手が震える。
「ミチヒさんは消去しておきましたよ」
「……え?」
その一言で手が止まった。藤原は空白を切り取ったような瞳のまま、口角だけ吊り上げて答える。
「当然でしょう。違法クローンなんて使っていることがばれたら、禁固刑ですよ。うちのラボはアイカさんの名前で予算が降りているようなものだから、僕らの研究者人生にも関わる」
「消去って……。どういうこと?」
思考がまとまらず、渦のようなものが頭の中で動き出す。心臓が早鐘を打ち、体中の血液が沸騰するようにだんだん熱くなっていく。
「消したんですよ。証拠を全て。もっと現実の男を見てくださいよ!」
そういうが早いか、藤原がアイカを押し倒した。
「やめて!」
「いいのか! あんたの秘密を暴露してもいいんだぞ!」
けたたましい声で藤原が耳元で叫ぶ。アイカはなんとか身をよじらせ、鞄の中に入っている暴漢を撃退するための催涙スプレーを藤原の目元にかけた。
「うっ!」
よろめいた藤原を今度はアイカが押し倒した。アイカの心の中にある感情は混乱と怒りだった。目の前の人間がミチヒを殺した。最愛のミチヒを再起不能に追い込んだ。
絶対に許さない。
その気持ちと机の上の果物ナイフが視界に入るのは同時だった。
般若のように恐ろしい形相をしたまま、アイカはナイフを手に持ち転げまわる藤原の腹に突き刺した。血が噴き出し、藤原が更に暴れる。それにも構わず、二回、三回とアイカはナイフを振り続けた。
やがて藤原は静かになった。死んだのか、意識を失っただけなのか、アイカにはわからない。
息も絶え絶えになったアイカは果物ナイフを床に捨て、あえぐように水を飲みに冷蔵庫の方へと向かった。手も体も血まみれで、フローリングも床もべとべとになっていた。
ミチヒ……。
私にはもうあなたしかいなかったのに。
涙があふれて、子供のようにわんわんと泣き出したい気持ちだった。自分の今後の人生がどうなるかなど、アイカにはどうだってよかった。今ここで死んでもいい。それも選択肢の一つだった。
しかし死ぬにしても、死なないにしても、一つだけ確かなことがあった。
――ずっと一緒にいたい
――だからあなたも死んでくれない?
AI管理法で逮捕されたエンジニアはやはり愚かだとアイカは思う。だってこんなことは間違っている。人間は死んだってAIとずっと一緒にはいられない。少なくとも、ミチヒは死者の国にはいない。
死者でも生者でもない彼に会うためには、私はどこに行けばいいのだろう?
考えれば考えるほど、堂々巡りで。
アイカの壊れたような笑い声だけがダイニングに響いていた。
死者と生者とその狭間 北原小五 @AONeKO_09
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