その魔、天に昇りて

ぴのこ

その魔、天に昇りて

「キミねえ、あと10日で死ぬよお」


 夕暮れに天使が舞い降りた。

 そう落合天見おちあい あまみが思った刹那、彼女は白い翼をはためかせながら悪戯気味に言った。


「ああ大丈夫大丈夫!キミほんと良い子だからさあ、このままならたぶん天界行きだって」


 “ローカ”と名乗った少女は、軽快な笑みを浮かべて天見の頭をぽんぽんと叩いた。小学校の帰り道で周りには児童の姿がちらほらとあったが、彼らにはローカが見えていない様子だった。道で立ち止まり、虚空を眺める女子児童に訝しげな視線を送っていた。

 天見から見て、ローカの容姿は10代前半ほどだった。今日10歳の誕生日を迎えたばかりの天見にとっては少しだけ年上のように見える。もっとも、実際の年齢はわからないが。

 ローカは驚くほど目鼻立ちの整った少女だ。鼻梁の線がすらりと高く、その上に備え付けられた大きな金の双眼が天見を見つめている。左腰に提げられた剣が、すらりと細い体に不釣り合いだ。上質な白のワンピースを身に纏い、雪のように白い髪を腰まで伸ばしている。まるで純白を擬人化させたような存在だ。

 だが天見はローカを人間と認識できなかった。それは彼女の現実離れした美しさの他にもう一つ、背中から生えた一対の翼のためだ。


「その翼は…なんですか?」


 非現実的な光景を目にしても、天見は平静を崩さなかった。ローカの翼を指差し、天見は静かに問いかけた。


「ん-?これ?これねえ、天界生まれ天界育ちの証!って言ってもボクだって元は人間界育ちで、天界に生まれ直しただけなんだけどねえ」


「はあ…それで、天界とやらの人がなんの用ですか。私があと10日で死ぬ?」


「キミ動じないねえ!普通の人間ならもっと動揺してるよ。でもいいねえ。そのくらいじゃないと天界には相応しくない」


 ローカは両手をぱっと広げ、細長い10本の指をぴんと伸ばして言った。これまでの軽快な調子からは、一段か二段ほどトーンが落ちた声だった。


「10の条件がある。天界の住民になるための条件だ」


 ひとつ、いたずらに生き物を殺さないこと。

 ひとつ、盗みを働かないこと。

 ひとつ、道に外れた関係を持たないこと。

 ひとつ、嘘をつかないこと。

 ひとつ、無意味な話をしないこと。

 ひとつ、暴言を吐かないこと。

 ひとつ、他者を仲違いさせないこと。

 ひとつ、間違った考えを持たないこと。

 ひとつ、強欲を持たないこと。

 ひとつ、激怒しないこと。


「10歳の誕生日までにこれに一つも違反しない子って実は貴重なんだよ。キミみたいに正しい子はねえ。そういう子は天界の住民になれるチャンスがあるんだけど」


 でも、と言葉を区切り、ローカは試すような表情を浮かべた。


「大人になるにつれて純粋さが失われちゃうかもしれない。天界に相応しくない人間に育つかもしれない。だから心が汚れないうちにストップさせちゃうんだ。キミがあと10日で死ぬの、天界のせいだって言ったら怒るかな?」


「べつに」


 天見は短く答えた。凪いだ声だった。


「どうでもいいです」


「ははっ、いいねえ。それで激怒するようじゃ失格だからねえ」


 ローカはひどく愉快げに笑い、天見の背中をぽんぽんと叩いた。


「この10日は、キミの最後の試験期間みたいなものなんだ。最後の最後まで10の条件をクリアできるか。ボクは天界の命令で、キミのお目付け役を任されたってわけ。あ、このことは誰にも言っちゃダメだよお」


「もしも、その試験に合格したら」


「ボクは死者の魂に羽をつける。合格なら、キミの魂に白い羽をつけてキミを天界に送るよお。白い羽っていうのは天界行きの資格を持つ証だからねえ」


「失格したら」


「ん-、キミの寿命はもう貰っちゃったからねえ。失格しても元には戻らず10日後に死ぬだけだねえ。魂には黒い羽をつけて、天界じゃない場所に落とすことになる。ま、合格すれば天界に行けるんだから大丈夫大丈夫!」


「…その天界っていうのは、どういうところなんですか」


「天界はねえ、なーんでもあるよ!幸せに満ちてる!この世界で最高の、素晴らしい場所なんだ!……だからね、本当に適した人間にしか天界の門をくぐらせちゃいけない」


 ローカの目を無感動に見つめる天見に、ローカは静かに告げた。


「キミが天界に来られることを、願ってるよ」





 自身の寿命が残り少ないと聞かされても、天見の生活は変わらなかった。その日の晩も、その翌日も普段通りに過ごした。

 ただ一点、気に掛けたことがあった。


「心海、何か…最近困ってることは無い?」


 ローカと出会った翌日の夕方、学校を終えて児童養護施設“誠栄せいえい学園”に戻った天見は、天羽心海あもう ここみに問いかけた。その日は心海の誕生日だった。天見はプレゼントを渡しながら、それとなく困り事を聞こうとした。

 心海は天見の同級生で、天見は心海に誰よりも親しみを感じていた。だからこそ、自分がこの世を去った後の心海のことが気になったのだ。


 誠栄学園で暮らす子どもたちは、程度の差こそあれ皆辛い過去を背負っているものだ。心海もまた、事故で両親と姉を失っている。そのような過去がありながら、心海は何事も無かったかのように明るく他者に接している。心海は表面上は元気だが、努めて明るく振舞っているのだろうと施設の誰もが感じていた。


 心海の境遇は、天見とよく似ていた。

 天見もかつては両親と姉と暮らしていたが、早くに父が病死してしまった。加えて去年に1歳上の姉を突然死で失い、女手ひとつで天見たち姉妹を育ててくれていた母はそのショックで命を絶った。結果、身寄りの無い天見はこの誠栄学園に引き取られることとなったのだ。

 天見が姉の思い出話を心海に語ると、心海もまたぽつぽつと自身の姉について語る。そんな時間が天見は好きだった。大好きだった姉が、心の中に蘇ってくるような感覚を抱けるからだ。


「困ってることって、天見ちゃん?急にどうしたの?なんにもないよ」


 心海はきょとんとした声で答えた。


「…そう、無いならいいんだ」


「変な天見ちゃん。わたしは生まれてからずーっと平和に生きてるよ!」


「そんなことは無いでしょ」


 天見は無表情に言葉を返した。表情こそ氷のように固まっているが、その内心には心配があった。心海は間違いなく大変な目に遭ってきたはずだ。心には傷を負っているはずなのに、空元気を出しているのではないかという心配を天見は抱いていた。


「ほんとだって。風邪もひいたことないし!元気!」


 冷たい表情を浮かべる天見に臆することもなく、心海は笑いかけた。

 感情を表に出すことが、天見は苦手だ。受け取る者によっては、天見の態度は不愛想に感じるだろう。

 しかし心海は、天見に愛想が無いことなど一切気に留めなかった。それが天見には心地良かった。会話のために気力を割かずとも良い気軽さ。天見は心海と話しながら、心海のように心の綺麗な子こそが天界に迎え入れられるべきだと強く思った。


「…いや」


 天見はかすかに目を細め、心海の頭に手を置いた。


「心海は、長生きするんだよ」


「うーん、できる限りね」


 あまりにも現実的な返答に、天見は心の中で笑みを零した。

 家族を失ったために人生に対してどうでもよくなっていたが、心海と別れるのは寂しいかもしれない。少しだけ、天見はそう考えた。




「さ、今日で最後だねえ!これまでの振る舞いは完璧だったよお。えらいえらい!」


 最後の10日間を、天見は何事も無く過ごした。途中、これは天界による試しではないかと思われる場面もあったが、天見が惑わされることは無かった。

 そんな天見に、ローカは大きな拍手を送った。


「あとちょっとで寿命が尽きるけど、大丈夫かな?心配事とかは?」


「死ぬ時に痛くないかどうかが心配です」


「ははっ、大丈夫大丈夫。苦痛は無いよお」


 ローカは口に手を当てて笑い、出会った時のように天見の頭を撫でた。


「いやあ、本当に頑張ったねえ。家族をみーんな失ったのに、正しい人間であり続けたのは本当えらいよお」


「…別に、私は自分が正しい人間なんて思いませんけど。人当たりも良くないし…」


「そんなのどうでもいいんだよお。正しい人間の基準なんて、天界が定める基準をクリアできてれば良いんだからねえ」


 そこでローカは一度、言葉を切った。再び発された声は、低い響きを帯びていた。


「…お母さんの死は、お姉ちゃんが亡くなったのが原因だったね。かわいそうに。お姉ちゃん、急に死んじゃったからねえ。でも思わなかった?」


「なんで元気な子どもが突然死んだのか」


 天見の心臓がどくりと跳ねた。その一言で、ローカの言葉が指す意味を悟ることができてしまった。

 天界は10歳の子どもの寿命を奪う。1歳上の姉は10歳の時に死んだ。

 …まさか。まさか。


「お姉ちゃんは、失格だったなあ」


 天見は弾かれたように動くと、渾身の体当たりでローカを地面に倒れ込ませた。流れるようにローカの腰の剣を抜き、涙の雫をこぼしながら剣を振り上げた。


「お前のせいで…お前らのせいで!!」


 激情を叩きつけるかのごとく、天見は絶叫とともにローカの胸に剣を突き立てた。

 剣に胸の奥深くまで抉られたローカは、しかし一切の痛痒を感じない様子でじっと天見を見つめていた。胸からは血の一滴も染み出してはいなかった。


「残念」


 ぞっとするほど冷酷な響きだった。

 のっそりと上体を起こしたローカは、一切の感情を排した能面のような表情を浮かべていた。


「あ…なた…」


「大丈夫だよ。ボクたちは天界の住民としての寿命を迎えない限り死なない。“いたずらに生き物を殺さないこと”には抵触しない。だけど」


 がしりと、ローカは右腕で天見の顔面を強く掴んだ。


「激怒したね」


 天見は呻き声を上げながら抵抗していたが、ローカの腕を引き剥がすことはできなかった。ローカの力は細腕とは思えぬほど強かった。


「キミも駄目だった。この程度で心動かされるようじゃ天界には相応しくない」


「や…め…」


 ローカは一瞬だけ天見の顔面から手を離すと、天見の口を強く塞いだ。ローカの手のひらの下から、声にならない声がくぐもって響く。


「ボクだってこんなことはしたくないんだけど。悪いね」


 ローカの手が、勢い良く天見の口から離された。その手には、鈍い光を放つ球体が握られていた。

 天見の魂だ。

 ローカは自身の胸から剣を引き抜き、剣の切っ先で魂に切れ目を入れた。その瞬間、切れ目からは黒い羽がばさりと広がり、よろよろと低く飛んだ後に地面へと潜っていった。

 後には天見の抜け殻と、ローカだけが残された。


「命令なんだ」




「キミも今日で寿命が尽きるねえ。何か気になることは?」


 天見の魂を抜いた翌日の晩、ローカは軽快な調子で問いかけた。


「うーん、わたしが死ぬ時に痛かったらイヤだなってくらい」


 その返答に、ローカはぷっと吹き出した。


「んー?変かなあ」


 首をこてんと傾けた心海に、ローカは小さく手を振って詫びた。


「ごめんごめん。いやあ、天見ちゃんもキミと同じこと言ってたものだからさあ」


「あ、そっかあ」


 天見の名を聞いても、心海は平然とした様子だった。訝しげな顔を浮かべるローカに、にこにこと微笑みかけていた。


「あれっ、驚かないの?怒ったりしないんだ?天見ちゃん、キミとおんなじように天界に試されてねえ、失格になって死んじゃったんだけど」


「うん。だと思ってた。だって昨日、急に死んじゃうんだもん」


 心海の平静は、なおも揺らがなかった。


「でも、どうでもよくない?」


 心海はさらりと言い放った。心の底から、天見の死を何とも思っていないような口ぶりだった。


「人のことなんて別にどうでもいいよ。人がどうなっても、わたしが無事なら良いじゃん。怒ったり悲しんだりするほどのことかなあ。自分が平和に生きられて幸せなら、それでいいじゃん」


「…キミは家族を失ってるけど、幸せだって思うかな?」


「幸せだよ。わたしはケガも病気もしないで平和に生きられて、天界に行けるって言われて、すごく幸せ」


 心海がローカを見つめる目には、一点の曇りも無かった。その言葉に嘘は含まれておらず、心からの本音であるのだとローカにはわかった。


「ふっ…あはははははは!キミいいねえ!キミみたいな子なら、天界の門をくぐる資格がある」


 ローカは心海の口から魂を取り出すと、剣で魂に切れ目を入れた。切れ目から生えた純白の羽は、ローカの翼と同じ色をしていた。

 羽の生えた魂はむくむくと膨れ上がり、やがて元の心海に似た姿を取っていた。


「さあ、行こうか」


 ローカは心海の手を取った。

 その晩、天使に似たモノが二つ、空高く飛び立っていった。

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