10.哀悼(静寂と招かれざる客)

 雨の日の、決まって朝だけ音楽室に現れた。演目はいつもリスト、死の舞踏。学生服の胸ポケットに不格好に刺さった白百合は手の動きに合わせて小さく揺れている。彩度を失った室内に一層深く染みこむようなグランドピアノと、それを操る黒い背中、細長く白い指。彼は死んでいて、日が差すと消えてしまうということは何度か観察していてわかったことだ。

「柏森さん」

 彼にはこちらの声は聞こえず、彼が弾くピアノの音もこちらには聞こえない。背後に回り込んで確認した楽譜と手の動きは一致しておらず、何を弾いているのか特定するのに時間を要した。

「今日も死の舞踏なんだね」

 胸ポケットには緑色の名札が縫い留められていて、柏森と書かれている。ので、彼のことは暫定的に柏森さんと呼んでいる。年代も何も手掛かりなしで膨大な卒業生名簿を調べる気にはなれなくて、というか卒業前に亡くなったのだとしたら卒業生名簿には載っていない可能性が高い。

「誰かを待っているの?」

 音が伝わっていないのと同様に、彼には私の姿が見えていないのだろうと思う。視線の先にたたずんだり、鍵盤の端で別の曲を弾いても気にしていないようだった。

「いつから待っているの?」

 手は躊躇いなく流れ、約十五分の演奏が終焉を迎えた。私には彼の姿が見えるだけで、どうすることもできない。本当は見えるべきでもなかった。彼が待っていたのは私ではなかったし、私が待っていたのも彼ではなかったから。それでも、彼がほんとうに消えてしまうまで。彼が同じ曲を弾き続けるから、私も同じ質問を繰り返す。

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ワードパレット3 硝水 @yata3desu

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