めのおじさん

有馬千年

黒闇に浮かぶ目

 マンホールの下にはいつも目があった。


 何をするでもなくただじっとこちらを見つめているだけだった。


 当時小学1年生だったぼくはいつもそのマンホール──家からほど近い4丁目3番地の空き家の前、心許なく老朽化してはいるがまだ頑丈さを残す電信柱から一歩離れたぐらいのところにあるマンホール──を学校の帰りに覗き込みに行くのが習慣だった。

 そこは通学路からは逸れた、寂れて人気のない一帯で、友達と遊ぶ際にそこを通ることはなく、そもそも認識すらされていないような場所だった。

 普通なら「ああいう所には近づいちゃいけない」と忠告するはずの親でさえ、空き家の前のあの静寂なエリアに関しては一言も言わなかった。

 存在からして知らなかったのだろう。

 けれど僕は、静謐(無論、当時のぼくにそういった高尚な感覚があったかは疑問だが)さえ身に迫ってくるようなあの場所を気に入っていた。


 なぜそこまでぼくがあそこを気に入っていたかは定かではない。

 空き家にこれといった曰くも聞かないし、別段特別な何かがあるわけでもなく、まして秘密基地にできそうな隠れ場所も設えていないのだ。

 それでも、ぼくはあの場所が好きだった。

 ほんの数メートル先の、上半分が赤く塗られた四角の石杭が斜めに刺さった辻を一度でも曲がればそこそこ往来のある、「この世の片隅にあるあの世」みたいな、そこだけが人から忘れ去られている内緒の胎嚢のように感じていたのだろうか。


 この場所を、ぼくは小学校に上がってすぐの頃に見つけた。

 引っ込み思案の性格ゆえになかなかすぐに親しい友達もできず、学校の帰り道を一人で無駄に散策することを日課としていたぼくは、ある日そこへ辿り着いた。

 人見知りのくせに冒険心だけは一人前で、やれ空き家の壁の穴だの道端の雑草についた虫の泡巣だのを中腰になったりかがみ込んだりしながら注意深く観察した。

 これらの行動自体は、小さい子どもなら誰しもやりうるある種自然な振る舞いだったかに思われる。


 空き家の壁穴、出張った玄関から数歩右へ進んだところ、ぼくの目線より少し下ぐらいの高さに空いていた拳大の朽ち跡からは仄かに中の様相が窺い知れたが、薄暗くてはっきり見えないのと興味をそそるほどの物もないがらんどうの室内だったため早々に離脱した。

 家主がいた頃は物置部屋ででもあったのだろうが、物のない物置部屋というのは遊具のない公園に等しかった。


 そうしてそのまま家の周りを何ともなしに巡回していたが、やがて視界に入った四角いマンホールの、一辺の中央に一つだけ空いていた親指ほどの大きさの穴に引き寄せられた。

 細かい砂利も厭わず地面に膝を立てると、大きな鍵穴めいた形をした異次元への穿ちを腹ばいになって覗き込んだ。

 穴から20センチほどの深さの、僕の視線の真正面にその目はあった。


 たった一つの、黒闇の裂け口のような目が、ただぼくを凝視していた。

 ギョロリとしてもいない、眠そうでもない。

 血走ってもいない、ぼんやりしてもいない。

 何か訴えてくるようでもない。

 悲しみ、怒り、嘲笑、威嚇、そういった感情めいたものは一切感じられず、かといって全く無機質でもなく、強いて言うなれば穏やかに、"ただ、その目はあった"。

 ぼくが覗き込んだことで元々わずかにしか穴に差し込んでいなかった西陽の光がほぼ完全に遮られたというのに、それは自ずから光を放っているかのようにはっきりと認めることができた。

 動物の目ではない。やや歪んだ曲線を描く横倒しになった紡錘型のそれは、間違いなく人間のものだった。


 恐怖感や驚きはなかった。

 先ほどの通りその目は何をするでもなくただそこにあったのであり、これが異常なことのようには低学年の小学生にはまだ思えなかった。

 それどころか、瞳に対して一種のあたたかさまで勝手に解釈した。

 その時ぼくが抱いたのはただ疑問と好奇心である。

 この人はなんでこんなところにいるんだろう?何をしているんだろう?

 死んでいるのだろうか?いや、それなら瞼は開いていないし(人は死ぬと眠ったように目を閉じると以前母から聞いていた)、何よりこいつは時々まばたきするのだ。


 もっとはっきり見てみようと日の光を迎え入れるようにして僅かに顔を離し、斜めからそれを観察した。

 だが、くっきり浮き上がった白目と黒目の他には一向何も見えないのである。

 斜めからでは目自体の様子がよく観察できないため、再び顔を近づけ、右頬をマンホール面にぴたっと付けてその目とぼくの右目を相対させた。

 目はやはり光ったように鮮やかにある。

 しばらく、それが何分だったのかは覚えがないが、ぼくはその目と見つめ合った。

 互いの焦点が撓むことなく一本糸として対象を結んだ。


 目は黙っていた。ぼくも黙っていた。

 普通の人間なら必ずする、視線の移動のために外眼筋を使って目をクリっクリっと動かす様子がなく、子供心にもその不自然さが際立ったことのように思われた。

 ようやくこの時点で初めて違和感を感じ取ったのである。


 ぼくはついに声をかけた。

「あなただれですかあー?」大人が聞いたら随分素頓狂に響いたものだろう。

 事実、僕は恐怖を感じていなかったから、ごくあっけらかんと純粋な疑問として投げかけたのだった。

「どうしてそこにいるんですかあー?せまくないですかあー?そこ」立て続けに質問したが、答えはなかった。

 これまでと変わらず、時おり瞬きをしながらこちらに確かな意思で視線を投げかけている。

 めげずにいくつかの言葉を穴の真下へと落としたが、目は何も言ってくれない。


 痺れを切らして顔を上げた僕は、そこでようやく夕陽が沈み始めたものと知って、家に帰ることにした。

 既に飽きかけていたぼくは、最後、マンホールの穴に吸い付くように唇を付け、「るりょるりょるりょるりょ」と、舌をめちゃくちゃに動かしながら奇声を出した。

 そうして立ち上がると、碌に服の砂埃を払いもせずに帰路へと着いた。


 帰宅しても、両親にも姉にもこのことは話さなかった。秘密にしたかったと言うより、報告するほど特異なものでもないと考えていたのだ。

「今日は何かあった?」ととりわけ聞かれれば答えたかもしれない。

 それほど、世の中の平常をまだ学んでいない子どもは異常も知らないのだ。

 かと言って、すぐに忘れてしまうほど変哲のないものとして片付けるには、本能としてはあまりにもったいなかった。

 食事も風呂も済ませ、早々に寝床に入ったぼくは「明日もまた様子を見に行こう」と寝入り端にぼんやり考えながらまどろみの国へ飛ぶのだった。


 翌日、授業を終えたぼくはいつもの通学路を外れ、昨日初めて見つけた不思議な磁場に再び足を踏み入れた。

 茶黒く廃れた空き家、家の周りに肩の高さまで伸び茂った名も知らぬ草、風化が進みながらも倒れる気配のない電柱。

 夕暮れを控えて燦々と照った午後。

 昨日と何も変わりはない。

 そして、赤錆たような色でチャコールグレーのアスファルトの中に母斑のように馴染みつつ浮かぶマンホール。その中の黒色腫。

 それらも、全く同じように佇みを見せていた。

 唯一違っていたのはぼくの心構えだ。

 昨日は純粋な好奇心から、今日は謎の解明を求める探究心から、穴自体の吸引力に身を委ねるようにして覗き込んだ。


 いた。


 やはり、全く変わらず、そいつは凝視していた。

 虚空ではなく、確実にその目はぼくの右目を捉えていた。

「ねえ、きみ、まだそこにいるの」返事はないと分かって声をかけた。

 やはり、返事はなかった。

 どうすればこいつの正体を見破れるのだろう。

 せめて、何か他のアクションを取らせられないだろうか。

 ぼくは思い立ったように腰を上げ、穴の縁に指を掛けた。

「うぅ〜ん、うん、」マンホールの外側に立ち、両股開きをしたカエルの体勢で踏ん張りながら蓋を引っ張る。

 だが渾身の力をもってしても蓋は微動だにしない。

 幾度か勢いをつけて持ち上げを試みるけれども、小学生の腕力と体力はすぐに限界を迎えた。

 人差し指がジンジンと痛む。第一関節と第二関節の間に新しい関節が生まれたようだった。

 息を切らしながら再び穴を覗くと、先ほどと一寸違わず目はそこにいる。

 じわじわと悔しさやもどかしさや、名状しがたい感情がもたげてきた。

 ぼくはやけくそに任せて、近くに生えていた雑草をブチブチと引き抜きその穴の中に一本ずつ投げ込んでやった。

 それだけでは収まり足らず、両手でアスファルトの砂をこんもりかき集めると、同じところに注ぎ落とした。

 これでこいつも少しは根を上げるだろう。

 ほのかな優越感に浸りながら再び覗く。

 変わらず目はそこにいる。

 細い草の葉も砂埃も、浴びた形跡が全くない。

 そうして呑気に瞬きを続けている。

 なんなんだ、なんなんだこいつは。

 ぼくはいらだち紛れに穴下へ唾を吐き入れた。

 近くに落ちていたドアストッパーみたいな鉄くずでカンカンカンとけたたましく蓋を叩いた。

 それでも、目は同じだった。


 *


「今日も、めのおじさんのとこへ行かなくちゃ。」

 あれから何度も、いや正確には毎日のように不思議な目へ会いに通っていた。

 どんな些細な変化でもほしくて色々と試したけれど、目が目であるという情報以外は掴めなかった。

 だが幾度か見るうちに、それは男の目のような気がした。

 年の頃はずっと上のように感じられた。

 ぼくはその目を、否、その目を持つ存在を「めのおじさん」と名付けて覗き続けた。

 飽きっぽいぼくが何の変化ももたらさない謎の恒常物に執着しているのは自分でも意外だった。

 けれどもそれは、「魅せられている」という理由なき理由の他に、「いつか明らかになるかもしれない」という淡い期待も多分にあるのかもしれなかった。

 成長せず、感情表現もしない、物言わぬデジタルペットをチェックしに行く意気で、ぼくは毎日を放課後までそわそわしながら過ごすことになったのである。

 友達もおらず習い事もしていない、他に行く所のないぼくは、その穴の目と見つめ合っていると時間の流れをも忘れた。

 たまには話しかけたり、例の鉄くずで蓋を鳴らしたりもした。

 反応されたことはない。

 そうして日が暮れたのに後から気付いて急いで帰ることの繰り返しだった。

 晩御飯の直前に帰ってきて、日に日に濃くなってゆくマンホール蓋の幾何学模様の跡を右の頬に拵えるぼくを親や姉は初めのほうこそ怪しんでいたものの、友達とヤンチャに遊んでいたという口実をすんなり信じ、あまり遅くならないようにと釘を刺すに留まった。

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