第5話

 荒れた坂道を登るたび、空気が異様に重みを増していった。七日前に家を出て、いや、もっと前から日が経ったのかもしれないが、僕にとってこの夜の旅は遥かに長い試練であり、同時にいくつもの神秘を見せつけられた体験だった。


 猫八が先導する形で、ひたすら夜道を追うだけの日々が続き、漠然とした疲労が骨の奥まで染みている。しかし、ここへきて世界が明確に変貌した――そう感じるのは、佇まいがまったく違うからだった。


 黄泉比良坂と呼ばれる場所へ差しかかったのがいつなのか、はっきりとは把握できない。闇が深いまま、けれど山肌のようなものが見え、その頂に大きな鳥居が屹立しているのが見える。道を固めるのは苔むした石段だが、同時にまわりに鬱蒼と生い茂る木々が幽かに光を反射して、神秘的なグラデーションを描いていた。空気は冷たく、肌を刺すほどの清澄さを帯びている。


 二人以外には、一切の人影が見当たらなかった。あの賑やかだった祭囃子の残響も、神々や妖怪、精霊たちの喧噪も、いまやまるで幻のように消え失せている。これまで歩いてきた空間とは明らかに異質で、辺りにはただ厳かで重みのある空気だけが満ちていた。夜の闇は静かで深く、風の一吹きさえ音を生まずに通り過ぎ、二人の足音すら微かにしか聞こえない。まるでこの場所こそが「あの世」なのではないかと思うほど、神聖な気配が一面を覆い尽くしていた。


 猫八が半纏の裾を翻して振り返った。「もうすぐ黄泉比良坂に到着するぞ。気を引き締めろ」その低い声に息を呑む。猫八が何も語らずとも、ここが決して油断してはいけない場所だということは、肌で感じ取ることができた。足元には、長い年月を経て苔むした石段が続いていて、踏みしめるたびに湿った苔の感触が伝わり、わずかに滑りやすくなったその道を慎重に進んでいく。


 傾斜は次第に急になり、ひんやりとした山の空気が肌にまとわりつくようだった。道中、いくつもの石造りの門が現れ、そのたびに僕らはくぐり抜けながら登っていく。門にはテルテル坊主にも似た奇妙な注連縄が巻かれ、風が吹くたびにゆらゆらと揺れ、不規則な動きを繰り返している。この山道の先に何があるのか――石段を踏みしめるごとに、知らず知らずのうちに緊張が高まっていくのを感じた。


「翔真、こっちだ」


 ふいに、猫八が鋭い声を上げた。思わず顔を上げると、彼は少し道の脇へ逸れつつも、体をこちらへ向け、じっと僕の後ろを見つめている。その視線に引き寄せられるように振り返ると、少し離れた場所に、無数のぼんやりとした光の玉が浮かんでいた。それらは静かに揺らめき、淡い光を放ちながら、ゆっくりと列を成して進んでいる。あれは、いつかの宿屋で垣間見たものと同じ――死者の魂の行列だ。


 猫八は立ち止まった僕の腕を素早くつかむと、何も言わずに強引に脇へと引っ張っていった。突然のことに足元がもつれ、土の地面に取られそうになるが、必死に踏ん張る。何とか体勢を立て直しながら、僕らは道のわきに広がる林の中へと身を潜めた。


 目の前を、無数の光の玉が静かに流れていく。その光は、以前川で見た灯籠流しの明かりにも似ていたが、どこか異様で、温かみのかけらもない。冷たい輝きを放ちながら、規則正しく列をなし、淡々と進んでいく。その無機質な光景に、背筋をぞくりと悪寒が走った。


 唖然として見つめていると、やがて光の周囲に、人の輪郭のようなものがぼんやりと浮かび上がる。目を凝らせば、それは老若男女さまざまな人影だった。皆、生気のない顔をまっすぐ前に向け、感情のない瞳をただ先へと向けたまま、何の迷いもなく坂を登っていく。誰一人として声を発することはなく、静寂の中、列だけが淡々と進み続けていた。


「おい、見るなって言っただろ。気づかれたらどうする」


 猫八が声を潜めながら、そっと僕を小突いた。その合図にハッとして、慌てて視線を逸らす。暗がりの中でぼんやりと浮かぶ猫八の顔が、微かに揺れる灯りに照らされ、幽かに光を帯びていた。


「どうして、こんなに死者の魂が……?」


「……黄泉比良坂って言う場所はな、この世とあの世の境目にある坂なんだ。生者と死者を分かつ境界線さ。神話にも出てくる、有名な場所だよ。イザナミが黄泉の国へ行っちまって、イザナギがあとを追いかけたって話、知っているか?」


 猫八は少し間を置き、僕の反応を待つように目を細めた。どこかで聞いたことがあるような気もするが、はっきりと思い出せず、僕は静かに首を振る。


「イザナギは死んだ妻を連れ戻そうと黄泉の国へ行ったけど、そこで見たのは、もうこの世のものじゃなくなったイザナミの姿だった。慌てて逃げようとするイザナギを、怒ったイザナミは追いかけた。で、最後にこの黄泉比良坂で、二人は完全に決別したってわけだ」


 猫八は軽く肩をすくめ、坂の上の方へ視線を向けた。


「つまり、ここは"死者があの世へと旅立つ場所"ってことだ。これより先へ行けば、もう戻れない。生者が踏み入れるには、あまりにも危うい場所ってわけさ」


 夜風が吹き、猫八の半纏が揺れる。僕はごくりと息をのんだ。


「そうなんだ……。そんな場所に届け物があるなんて、ずいぶん厄介な話だね」


 僕が呟いた途端、猫八は微かに眉をひそめ、口元を歪めた。それは見慣れた飄々とした表情とはまるで違うもので、僕は得体の知れない不安を覚える。


「よし、あいつらはもう行ったみたいだ。次の御一行が来る前に、さっさと登ってしまおうぜ」


 猫八はゆっくりと立ち上がり、膝についた泥を手ではたいて払い落とした。ぱさり、と乾いた音が闇の中に微かに響く。


 僕らは再び石段を上り始めた。互いに言葉を交わすことはなく、ただ淡々と足を運ぶ。けれど、一段踏みしめるごとに、空気がわずかに重く、冷たくなっていくような気がした。まるで、目には見えない何かが、ここから先を拒むかのように。僕は息苦しさを覚えながらも、歩みを止めることなく石段を登り続けた。


 どれほど登ったのだろうか。どこまでも続くかのように思えた石段が、ふいに途切れた。足を踏み出した先には、開けた空間が広がっている――しかし、それは「広場」と呼ぶにはあまりにも荒れ果てた場所だった。


 大地はところどころ隆起し、根を張り巡らせた巨大な樹木がうねるように空を覆い尽くしている。その枝はまるで意思を持つかのように絡み合い、わずかに覗く空を歪ませていた。足元を見れば、見たこともない草花が不規則に点在し、不気味なほど鮮やかな色を放っている。風が吹けば、細長い葉がさざめき、奇妙な音を奏でる。


 さらに視線を巡らせると、その広場を囲うように大小さまざまな岩が取り囲んでいた。苔に覆われたそれらは、ただの自然の造形物には思えなかった。何かの結界のようにも見えるし、あるいは、ここに踏み入る者を監視しているかのようにも思えた。


「ここが、目的地?」


 僕の問いかけに、猫八は何も応えなかった。ただ足を止め、真剣な表情のまま、じっと一点を見つめている。そこにあったのは、この荒れ果てた広場の中でもひときわ異質な存在感を放つ、巨大な岩だった。まるで大地そのものがせり上がったようなその塊は、年月を経て風雨に削られながらも、不思議なほど整った輪郭を保っている。


 その岩の周囲には、白い注連縄がしっかりと巻かれている。古びた繊維がところどころほつれ、しかし、どこか異様な力を宿しているように見えた。幾重にも巡らされた紙垂が風に揺れ、かすかに擦れる音を立てる。


 猫八は依然として何も言わず、その岩を見つめたまま立ち尽くしている。僕はなぜか、声をかけることをためらった。――この岩は、ただの自然の産物ではない。そこに込められた何かが、空気を張り詰めさせているのを、肌で感じ取ることができた。


「これ……何?」


「……これは 千引の磐座ってやつさ。この世とあの世の、"境界"を封じるための岩だよ」


 猫八はちらりとこちらを見やるが、僕が黙っているのを確認すると、再び岩に視線を戻して言葉を続けた。


「さっきの神話には続きがあってな。イザナギは逃げる途中で、この坂を駆け上がった。だけど、黄泉の国の奴らはしつこく追ってきたんだ。そこで、"千人がかりで引いても動かせない巨大な岩" ――この千引の磐座を、この坂の入り口に置いて塞いだってわけさ」


 猫八は岩を指さして、わずかに口元を歪める。


「それ以来、この岩は '黄泉への門' として知られるようになった。さっきの死者の魂も、ここを通ってあの世へと行くらしい」


 僕は再び巨大な岩に目を向けた。白い注連縄が巻かれ、まるで封印の印のように紙垂が揺れている。それを眺めていると、なぜかわからないが、体の底からじわじわと不快感が滲み出し、ゆっくりと全身に広がっていくようだった。吐き気とも違う、胸の奥を締めつけられるような感覚。足元がふらつき、視界がぼんやりと滲む。


 耐えきれず、縋るように猫八に声をかけた。


「ねえ、早く届け物を終わらせて、さっさと帰ろうよ」


 猫八はまたしても答えなかった。ただ、無言のまま肩にかけていた鞄を外すと、おもむろに逆さまにひっくり返す。重力に従って、鞄の中身が次々と地面に散らばった。見覚えのある、小さな巾着袋――猫八がよく取り出していた、財布のようなもの。それ以外にも、筆記具や手鏡、何かの紐の束など、生活用品らしき小物がばらばらと転がる。猫八は、空になった鞄をもう一度揺らしてみた。しかし、中からは何も落ちてこない。散らばった荷物を見渡すが、どこにも届け物らしきものは見当たらなかった。


「……どういうこと?」


「……届け物ってのはな、翔真。お前のことだよ」


 一瞬、何を言われたのかわからなかった。いや、言葉は理解できる。でも、意味がわからない。胸の奥がざわつき、喉が詰まったような息苦しさに襲われる。冗談だろう? そう問いただしたかったが、猫八の表情を見た瞬間、その言葉は飲み込まれた。彼は微笑みさえ浮かべず、ただ静かに、こちらを見つめている。まるで、最初からこの結末を知っていたかのような、決して揺るがない眼差しで。


「……悪く思わないでくれよな」


 猫八の声は低く、どこかためらいが混じっていた。


「掟なんだ。無明域に現世の人間が迷い込んだら、すぐに帰すか、それが無理なら黄泉比良坂まで連れてこなきゃならない。それが決まりなんだよ。最初に見つけたのが俺だったから、翔真をここまで連れてこなきゃならなかった。それだけのことさ」


 猫八は少し息をつき、遠くを見るような目をした。静寂がさらに押し寄せたかのよ うに、空気が一層重く沈み込む。


「それは……僕を、あの世へ連れて行くためか……?」


 ようやく絞り出した言葉は、自分でも情けなくなるほど震えていた。喉が引きつり、声にならない恐怖が胸の奥で膨れ上がっていく。


 楽しかった旅の記憶が脳裏を駆け巡っていた。猫八と歩いた夜の道、幻想的な桜並木、無数の灯籠が流れる川、祭囃子の響く広場、得体の知れない菓子を口にしたときの不思議な甘さ――どれも夢のように鮮やかで、どこか遠いものに思えた。けれど、今目の前にいる猫八は、そのどの思い出とも違う、真剣な表情を浮かべていた。


「違う、そうじゃない」


 猫八の声が静かに響いた。


「ここで選ばせるんだよ。生きるか、死ぬかをな。最初に言っただろ? 無明域に迷い込むのは、みんな"死にたがっている"人間だけだって。すぐに現世へ戻れるなら、それで済む。でも、戻る道がない者、戻る気がない者もいる。そんなときは、この黄泉比良坂で、全てを決める必要があるんだ」


 猫八は一歩、千引の磐座へと近づき、その表面を指先でなぞる。


「ここに"冥路"があるって話は、嘘じゃないぜ。黄泉比良坂は、現世との境界でもあるんだよ。生と死を分かつ、最後の分かれ道。その気になれば、どちらにだって行ける」


 猫八はふわりと半纏を翻し、こちらへと向き直った。


「ここで決めるんだ。現世に戻って生きるのか、それとも、死を選び、あの世へ行くのか。今ここで、翔真自身が決めるんだよ。」


 言葉が頭の中をぐるぐると巡る。最初から、僕に生きるか死ぬかを選ばせるため――それが、この旅の本当の目的だったというのか。猫八は、そのためだけに、こんなにも長い道のりを共に歩いてきたというのか。


「どうしてそんなことを……?」


 僕は息を詰まらせながら、か細い声で問いかけた。猫八は、感情の読めない瞳でじっとこちらを見つめながら、ゆっくりと口を開く。


「死にたいと思い続けることは、静かに心と体を蝕んでいく毒のようなものなんだよ。一度染み込めば、それはじわじわと広がり、本人の生きる力を奪っていく。苦しみは膨れ上がり、やがて周囲にまで影を落とす。長く続けば続くほど、その絶望は日常を浸食し、まるで腐った根が広がるように、周りの人間の心さえも歪ませてしまう」


 冷静な口調だったが、その言葉のひとつひとつが鋭い刃のように胸に突き刺さる。


「だからこそ、その思いを抱えたまま、ただ曖昧に生き続けるんじゃなく、どこかで死ぬか"死ぬことを諦める"決断をしなければならない。それが、毒の循環を断ち切る唯一の方法だ。自ら死を選ぶのか、あるいはは死を乗り越えることで、その呪いから抜け出す。そうしなければ、負の連鎖は永遠に続き、どこまでも広がっていくんだ」


 二人が黙り込むと、あたりには再び荘厳な静寂が広がった。思考がぐるぐると絡まり、頭がどうにかなりそうだった。


 猫八の言葉は、冷静に振り返れば振り返るほど、痛いほど的を射ていた。僕は、無明域に来る前、物事を何一つ楽しめなかった。笑うことも、喜ぶこともなく、ただ時間を消費するように過ごす日々。目の前の出来事に意味を見出すことができず、感情はまるで凍りついたように鈍く、心は少しずつ乾いていった。


 それでも、前を向こうと足掻いたつもりだった。でも、その努力はことごとく空回りし、焦れば焦るほど、目の前にはより深い闇が広がるばかりだった。どこに進めばいいのかわからない。何をしたら、この感覚から抜け出せるのかもわからない。やがて、誰かに助けを求めることすら億劫になり、言葉を交わす相手も少しずつ減っていく。そうしていると、孤独はさらに沈み込むばかりだ。周囲との距離はさらに広がり、心はますます閉じていく。まるで見えない泥の中に引きずり込まれるように、気づけば自分の状況は悪化の一途を辿っていた。


 ――あのとき、僕はもう、生きているのか死んでいるのかわからない状態だったのかもしれない。


「……どうする、翔真? もし、本当に死にたいのなら、俺は止めない。ここなら、苦しむことなく黄泉へ行ける。何の痛みも、何の迷いもなく、死ぬことができるさ」


 一拍の間。猫八は僕の顔をじっと見つめる。


「でも、生きたいと思うなら――その道もある。冥路を通れば、現世に戻ることもできる。ただし、それを選ぶのはお前自身だ」


 冷たい風が頬を撫でる。じんわりと涙がにじみ、こぼれ落ちるのを堪えようと、僕は天を仰いだ。


 黒々とした木々の間から覗く空は、わずかに白み始めていた。夜の終わりが、静かに訪れようとしている。どれほどの時間が流れたのか――数秒か、あるいは数十秒か。すべてが静止したような感覚の中で、そっと目を閉じる。深く息を吸い込み、肺の奥まで新鮮な空気を送り込む。長い時間をかけて吐き出した僕は、まっすぐな瞳で猫八に向き合った。


「……猫八と一緒に旅をして、ようやくわかったんだ。僕は本当は、死にたかったんじゃない。ただ、誰かに話を聞いてほしかったんだ。ずっと、心の奥底に閉じ込めていたものを、誰かに受け止めてほしかっただけだったんだ」


 静かに、ぽつりぽつりと言葉が零れ落ちる。胸の奥にあった想いが、ようやく形になり、静寂の中に溶けていく。


「ずっと、苦しかったんだ。誰からも必要とされていない気がして……みんなの期待に応えられなくて……何をやってもダメで……。そんな自分が、生きていていいはずがないと思った。だから……死にたいって思ったんだ」


 言葉を口にするたびに、心の奥に絡みついていた何かが和らいでいくような気がした。


「でも、猫八と一緒に旅をして、気づいたんだ。辛いのは、僕だけじゃない。誰もが、それぞれの苦しみを抱えて、それでも前に進もうとしている。父さんや母さんも、クラスの友達たちも、猫八も――みんな、傷つきながらも、逃げずに立ち向かい、乗り越えようとしているんだ」


 一度、深く息を吸う。


「でも僕は、それをしなかった。ただ、何もしないまま諦めて、それを美化して、抗うことすら放棄していた。何もしたくないから、楽になりたくて……"死にたい"って言葉に逃げていたんだと思う」


 吐く息が、夜の冷たさに紛れてすぐに消えた。僕は足元の小石を無意識に踏みながら、次の言葉を探す。


「もっと、ちゃんと父さんと母さんと向き合うべきだった」


 猫八はほんのわずかに目を細め、静かに耳を傾けていた。その表情には、僕の言葉のひとつひとつを逃すまいとする気配が滲んでいる。


「本当は、勉強なんかやりたくなかった。ピアノを続けたかったし、周りのみんなと一緒に遊びたかった。昔みたいに、家族で旅行に行って、心から笑い合いたかった。でも、僕はそれを伝えなかった。どうせ言っても無駄だと決めつけて、何も言わないまま、ただ一人で諦めてしまった。だから――こんなところまで来てしまったんだ」


 僕の声は、静まり返った空気を切り裂くように、この場に響き渡る。猫八はふっと肩をすくめ、落ち着いた声で言った。


「そんなに気負うなよ、翔真。みんなが頑張っているからって、お前まで無理をする必要なんてないさ。誰かの期待に応えられなくたって、嫌なことから逃げたって、それを責める資格のあるやつなんていない。嵐の中で無理に飛ぶ鳥はいないんだ。風が止むまで羽を休めるのも、生き抜くための術ってやつさ」


 猫八は空を仰ぎ、何かを思い出すように静かに息を吐いた。


「でも、死にたいって思うのはちょっと早すぎたな。こっちの世界でも、軽々しくそんなことを口にする奴はいるけど、たいていの場合、本当のところはただ"少し楽になりたい"とか"何も考えずに休みたい"ってだけの話なんだ。でも、人は追い込まれると、どうしても視野が狭くなって、極端な答えに飛びついてしまう。本当は、その手前にもっといい抜け道があるのに、一人きりだとそれに気づけなくなるんだよな」


 唇の端をわずかに持ち上がり、どこか意味ありげに微笑む。


「こんな、半分あの世みたいな場所に住んでいて言うのも変な話だけどさ。やっぱり、生きてこそなんだよ。生きていなきゃ、何も始まらない。もし歩みを止めてしまえば、それまでの悲しみや苦しみは、そのまま凍りついてしまう。だけど、生きていれば、その痛みを塗り替えるような喜びに出会う可能性だってある。もちろん、そんな未来が必ず待っているとは限らないけどさ……それは誰にもわからないことだろ?」


 猫八の言葉が、痛いほど胸に響いた。きっと、旅に出る前の僕なら、どんなに同じことを言われても、心の奥には届かなかっただろう。ただの慰めのように聞こえて、どこか他人事のように受け流していたに違いない。


 でも、今は違った。この旅の中で、僕はずっと押し込めていた思いを言葉にし、心の奥に絡みついていた重いものを少しずつ吐き出していった。猫八と過ごした日々の中で、笑って、迷って、それでも歩き続けるうちに、自分の中にある気持ちが少しずつ整理されていった。そして今、ようやく本当の気持ちを言葉にできた僕は、肩の荷が降りたような、どこか軽やかな気持ちになっていた。まるで乾いた大地が雨を受け入れるように、あるいは長い眠りから覚めた身体が新しい朝の光を浴びるように。


「僕……帰るよ。もう一度、頑張ってみることにする」


「そう言うと、思ったぜ。さあ、行こう。冥路はすぐそこさ」


 うーんと大きく伸びをした猫八は、いつものように微笑んだ。


***


 坂の上の広場から少し下った先に、それはあった。かつて僕が通ったものと同じ、白い木で作られた鳥居。ただ、以前見たものよりも堂々としていて、まるで長い年月を超えて根を張ったかのように、威厳すら感じさせる佇まいだった。


「そこをくぐれば現世だ。最初に会ったところから随分遠くまで来てしまったから、帰るのは大変だろうけど、それはまあ、うまくやってくれ」


 猫八は、今は僕の背中側から声をかけている。


「猫八は……来られないんだよね?」


「ああ、残念ながらここまでだ。俺は一生、ここで呑気に暮らしていくよ」


 自嘲気味に笑う猫八の背後、夜の闇を宿す坂の上空に、火の粉のような光がふわりと通り過ぎた。火の鳥かもしれないが定かではない。ただ、風が坂道を撫でるように強まり、空の端からゆっくりと淡い光が滲み出した。朝だ。七日ぶりの眩しさに、僕は目を細める。


「……また会えるよね?」


 そう問うと、猫八はゆったりと両手を広げた。その動きに合わせて半纏がふわりと舞う。それは夜と朝の境目で淡く照らされ、瑠璃色に輝いて見えた。


「会えるさ。翔真が本当にあの世へ旅立つ、そのときにな」


 猫八の瞳は、まるで濡れたビー玉のようにきらきらと揺れていた。それはきっと、僕も同じだと思う。


「……まあ、この一週間嫌になるほど一緒にいたからな。正直、しばらくは顔も見たくないくらいだよ。だから、次に会うのは、ずーっと先の未来で頼むよ」


 猫八がいたずらっぽく微笑む。その無邪気な表情につられ、口元が自然と綻んだ。


「ありがとう」


 静かに振り返り、大きな鳥居へと向き直る。一瞬、もう一度背後を見たくなる衝動が胸をよぎるが、ぐっと堪えた。深く息を吸い込み、わずかに指先を握りしめる。そして、もう迷うことはなく、力強く前へと足を踏み出した。

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