第3話
その日は奇妙な夢をいくつか見た。死者の列に引きこまれそうになる悪夢もあったが、どういうわけか幼少期に行った旅行の思い出も混じっていた。
父さんと母さんと、三人でいった温泉旅行。昔はああやって家族で遠出もしたのだが、最近はめっきり無くなってしまった。夢の中で僕は、嬉しいやら寂しいやら、複雑な気分で過ごしていた。
目を覚ましたころには、周囲はまだ夜のままだったが、身体の疲れは幾分癒えていて、起きていた猫八に連れられて下に降りていく。店主が「朝食でも食べるかい?」と声をかけてくれ、軽く腹を満たしてから再び夜道へ出発することになった。いくら夜が続く世界でも、身体が朝と錯覚してくれるだけで生き返る思いだ。
外へ出ると、星も月もない空が広がり、街並みは静かな宵闇を保っていた。猫八は半纏の裾をひらりと揺らし、「今日は川を渡らなきゃならない。そこまで歩いて二時間くらいかな」と言いながら早足で先を行く。僕も追従しながら、辺りを観察した。ときおり路地から細い影が駆け出すのが目に映るが、近づくと風のように消えてしまう。闇が生きもののように脈打っている感覚があり、相変わらず心がそわそわ落ち着かない。
しばらく歩き続けると、風に湿り気が混じり始め、川の匂いが鼻を打った。遠方にはゆらめく水面が広がっているのが見え、その向こうには提灯に似た灯りが浮かんでいる。けれど、よく見るとそれは水面を漂う無数の小さな光だった。
「ここは伝統のある大きな川でね、昔から灯籠流しの風習があるんだ。橋はもう少し上流にあるけど、ちょっと見ていくかい?」
猫八が指し示すのは、川辺に人影らしきものが集まっている場所だ。近づくと、老人のような者が手に箱を抱え、行き交う人――いや、人に似た姿をした者たちに灯籠を売っている。まるで夏祭りの光景とも言えるが、よく見ると角を持つ者や耳が尖った者が混じり、それらがごく自然に川のほうへ歩いていく。
僕は唾を飲みこみながら、「どうして灯籠を流すの?」と問うと、猫八は「願いを灯籠に書いて流すと叶うと言われているのさ」と答えた。
群衆を縫うように進んでいくと、案の定、老人がこちらへ視線を向けてきた。人間の姿をしているが、目が赤く光っているのが妙だった。猫八と何か言葉を交わし、手にした小箱から紙製の灯籠を取り出して差し出す。猫八はそれにいくばくかの貨幣のようなものを渡し、灯籠を受け取って僕に手渡してきた。
「ほらよ。願いを書いて流すといい。死にたい奴に願いも何もないかもしれないが、ちょっと気晴らしにどうだ?」
その意地悪めいた言い草にも反論できず、僕は困惑して灯籠を眺めた。簡素な紙製の枠で、側面に書きこむ余白がある。
筆を借りて何を書くべきか思案してみるが、僕は本当に何も思いつかなかった。思えば、普段から自分の願い事などあまり持っていなかった。いや、持つことを許されなかった。僕に与えられたのは親の指示したものばかりで、自分で選んで何かを手にしたことなど、ほとんどなかった気がする。
頭を抱えていると、猫八は苦笑を浮かべて、「まだ思いつかないのか。それなら、何か好きな食べ物でも書いたらどうだ」と囁いた。その言葉で突然鮮明に思い出すのは、母さんが作ってくれたチキン南蛮の甘酸っぱい香りだ。最初に作ってくれたときに、幼かった僕が大喜びしたらしく、その後も何度か振る舞ってくれたのを覚えている。
もう二度と食べたくないと思った時期もあったが、今こうして思い返すと舌の奥が甘く疼き、気づけば筆を走らせていた。灯籠には拙い文字で「母さんのチキン南蛮が食べたい」と書き込む。書き終わると、妙な恥ずかしさと懐かしさが入り交じり、頬が染まるのを感じた。
「へえ、母さん親の料理か。そりゃいい願いだ。――ところでチキン南蛮ってなんだ?」
「え? えーとあれは鶏を揚げ焼きして、それで…」
不意な質問に、僕は言葉を詰まらせた。そう言えば、チキン南蛮の「南蛮」って一体何なのだろう。
僕らは川に近寄ると、流れてくる灯籠の列に合わせて自分の灯籠をそっと置いた。水面に浮かぶと、柔らかな光が揺らめいて、上流から順番に流れてくる他の灯籠の群れに溶けこんでいく。青や赤、白や金色など、様々な彩りの小さな光が川の真ん中へゆっくり向かい、連なって夜の奥へ漂っていく様は、ありきたりに言うなら幻想的だが、その言葉では足りない神秘を感じさせる。
胸が微かに震え、鼻の奥がツンとする。死にたいなどと嘆いた自分が、こうして母さんの料理を願っている。それは滑稽かもしれないが、。かすかな懐かしさが水面を渡る灯火に灯り、息をこらして見つめる僕に、猫八が隣で呟く。
「そろそろ橋へ回ろう。あんまり眺めすぎると、水の妖怪が出るかもしれないしね」
ほんの冗談めかして言うが、僕は思わず息を止める。昨夜見た死者の行列の例もあるし、この世界ではいつ何が起きてもおかしくないのだ。猫八に促されながら、川沿いの道をしばらく歩くと、大きめの橋が架かっているのが見えた。川の上にそびえるアーチ橋は、長い年月を刻んできた証のように、うっすらと錆びついた欄干を輝かせていた。
橋の上から見下ろせば、川面に漂う無数の光が、揺らめきながら静かに流れていく。流れに身を任せる灯籠たちは、まるで世界の果てに向かって揺蕩う旅人のようだった。
「生きるのが嫌だなんて言っていたくせに、ずいぶん旅を楽しんでいるじゃないか。やっぱり、翔真ってちょっと変わっているよ」
猫八のからかうような声が耳を打ち、僕は照れ隠しに「うるさいな」と返した。川のせせらぎが少しずつ遠ざかっていく。次に待ち受ける風景がどんなものなのか想像もつかない。けれど、あの灯籠が遠ざかる川面の煌めきは、苦しいほど美しく胸に焼きついていた。
***
灯籠流しの夜から、さらに幾晩を過ごした。朝という概念がほとんど存在しないこの世界では、日付を正確に数えるのも難しく、ただ夜の濃淡だけで時間を推し量るしかない。猫八と僕は、穏やかにも険しくもある夜道をひたすら歩き続けた。
途中で小さな宿や店らしき建物に立ち寄り、あるときは古びたベンチで仮眠をとりながら、旅路を重ねている。どこへ行っても、人らしき姿はまばらだったが、いくつかの人影は確かに見かけた。人かどうか判然としない怪しげな姿もいたが、僕の中には最早そこまでの恐れはなかった。
無明域を旅しているうち、僕は次第に夜の空気に馴染んでいった。家を出たころは死にたいという思いが胸を占めていたが、猫八と行動を共にするうち、それが少しずつ形を失っていくような気がする。もちろん、悩みが消えたわけではない。母さんや父さんの叱責、クラスでの孤立――そんな現実の苦しみはこの闇を歩いている最中も頭のどこかを刺してくる。けれど、神秘の光景を目のあたりにするたび、僕は無明域という異郷に心を奪われ、他の事に夢中になる時間が増えていった。
そしてある晩。白く霞む街並みの向こうを抜け、くぐもった風の音に耳をすましていると、ふいにはっきりとした人の声が聞こえてくる。「……たすけて……」「……来て……」掠れるように細く、今にも消え入りそうな声。その切実な響きに、僕は思わず足を止めた。猫八もすぐ気づいたらしく、僕をきっと睨むように振り返る。
「聞くな」
低く鋭い語調に、思わず背筋が伸びる。けれど、あまりに人弱々しい声に、助けるべきではと思ってしまう自分がいる。声のするほうを探ろうと顔を上げると、猫八がやや苛立ちを含んだ口ぶりで舌打ちした。
「聞くなって言っているだろう。あそこをよく見ろ」
言われるままに、視線を声の方向へ向けて細める。路地の隙間に広がる暗い水たまりが見えた。あちこちから汚水が流れこんでいるのか、まるで淀んだ沼のようにでこぼこした水面が広がっている。そこに、ぼんやりと光を帯びた液状の塊が蠢いているのが分かった。うっすら人間の顔を模したような輪郭がうねり、「たすけて……」と湿った声を発する。混濁した水が粘液じみて絡みつき、腕らしきものが伸びたり引っこんだりしているのが、不気味すぎて息を呑んだ。
「何、あれ……?」
「湖の精霊の成れの果てだ。昔は美しい姿だったって話だが、今はこのざまさ。邪念がありすぎると、あんなふうに崩れてしまうらしい。あれは声で人を誘っているんだ。もし近づいたら、水底へ引きずりこまれて二度と戻れないぞ」
猫八がこともなげに言い放つが、その目には警戒の光がある。それでも、僕にはあれがそこまで忌むべき存在には見えなかった。
「でも……助けを求めているようにも見える」
そう口を開くと、猫八は薄く笑って突き放す口調になる。
「それがあいつらのやり方さ。翔真みたいに優しい連中が、それで何人も引きずり込まれてきたのを俺は知っている。……まあ、もし本気で死にたいと思っているなら、好きにすればいいさ。あの声に身を委ねて、誘われるままに水底へ沈めばいい。望み通りだろう?」
不機嫌そうな猫八の後ろ姿を、僕は何も言わずに追いかけた。確かに、どうやって死ぬかなんて考えたことはなかった。でも、あの場所へ引きずり込まれることは、どうしても気が進まなかった。理由はわからない。胸の奥に得体の知れない抵抗感が広がるのを感じながら、僕は黙って足を動かした。
水たまりからの声がいっそう湿り気を帯び、低く響いてくる。「ここにおいで……」女の声とも、男の声とも区別がつかない響きだが、悲しげでありながら妖しい呼びかけでもあった。それはまるで耳に焼き付くように、遠くへ離れてもなお微かに響き続けていた。
「さっきの、やっぱり怪物なんだよね?」
しばらくしてから震える声で問うと、猫八は気怠げに「そうだ」とだけ答える。
「でも……昔は美しかったんだろ? それが何故あんな……」
「世の中のことなんて、案外ちょっとしたことで変わっちまうもんさ。あの精霊だって、きっと人間たちに汚され、壊され、それでおかしくなっちまったんだろう」
そう語る猫八の横顔には薄い影が落ちている。旅の途中で見た桜の神秘や灯籠流しの温かさとは対照的に、無明域にはこういう歪んだ存在が棲みついているのも事実らしい。恐怖と憐れみが入り混じる僕の心中を見透かすように、猫八は微かな溜息をついて言った。
「人間だって同じだ。はじめは純粋な愛や善意に満ちていても、時の流れとともに、いつしかそれは歪み、濁り、まるで別のものへと変わってしまうことがある」
「……そう、なのかな」
僕は視線を足元に落とし、つま先をじっと見つめながら歩いた。言葉にしようとするたびに、考えが渦を巻いてまとまらない。何をどう言えばいいのか、もどかしさだけが募る。それでも、沈黙を破るように、どうにかして口を開いた。
「でも、何とか元に戻す方法はないかな?」
猫八が「戻す?」と目を丸くする。
「そんなこと、考えたこともなかった。どうしてそんなことを言うんだ?」
僕は頭の中を手探りしながら、絡まった思考の糸をほどくように、言葉をひとつずつ紡ぎ出す。
「僕の父さんと母さんも、昔は優しかったんだ。笑顔で僕の話を聞いてくれて、些細なことでも褒めてくれた。だけど、いつの間にか二人は変わってしまった。最初は小さな注意だったのが、だんだん厳しくなっていって、気づけば僕に向けられる言葉のほとんどが怒りや失望を滲ませたものになっていた。僕はずっと、昔の優しい二人に戻ってほしいと願っていた。でも、どれだけ待っても、二人の態度は変わらなかった。まるで、もう手の届かない遠い場所へ行ってしまったみたいに」
猫八は相槌ひとつ打たず、ただじっと僕の顔を見つめている。
「だから、あの精霊も、何とか元に戻せないのかなって思ったんだ。確かに、一度歪んでしまったものを元に戻すのは簡単じゃない。でも、だからといって、絶対に不可能なわけじゃないとも思う。間違えたり、道を踏み外したりしても、誰かの言葉や、小さなきっかけひとつで変わることがある。だったら、あの精霊だって、何かの拍子に、ほんの少しでも、かつての姿に戻れるんじゃないかって……そう信じずにはいられないんだ」
言い終わった瞬間、僕はふっと息を吐いた。今の言葉は、あの精霊や両親だけでなく、実は自分自身にも言い聞かせたかったのかもしれない。こんなだめな自分でも、まだ変わることができる――そう思いたい気持ちが、胸の奥でわずかに燻っていた。
「簡単なことじゃないと思うけどな。」猫八は視線を前へと逸らした。
「翔真の親御さんのことは置いといて――あの精霊を元に戻そうとするのは、骨が折れるぜ。一度崩れたものは、仮に形を取り戻せたとしても、ひび割れた傷跡は残る。何もなかった頃のように、すべてが元通りになるなんてことは、まずありえない。……まあ、不可能とは言わないけどな」
耳に届いた言葉を、そっと胸の奥に刻む。父さんと母さんは、そして僕は――あの頃 のように、もう一度戻ることができるのだろうか。
「不可能じゃない、よね」
僕がぽつりと言うと、少しして返事が返ってくる。
「お前さん次第じゃないか」
猫八が軽く背伸びするように腕を上げる。その動作に合わせて、半纏がゆらめき、淡い影を引いた。
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