火星の暮らし

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 ──火星の暮らし



 七海たちはついに棺桶コフィンホテル暮らしから脱し、オポチュニティ地区にある貧困層向けのマンションの一室を借りた。李麗華のそれよりも広く、一応七海とアドラーは別々の個室を持つことができた。


 家賃は月300ノヴァ。今のところは問題なさそうだ。


「サイバーデッキまでは手が出なかったな」


「他の家具も買えないな」


 とは言え、部屋を借りただけで七海たちの財布が大打撃であり、マトリクスに潜るのに必要なサイバーデッキや他の家具類は未だ未購入である。


「さて、七海。BCI手術が受けられるクリニックを見つけておいた。李麗華も調べたが、問題のないクリニックのようだ。早速行くか?」


「ああ。受けて立つぜ」


 それも七海がBCI手術を受けるためだ。手術にはそれなりに金が必要になる。


 七海たちはマンションを出て、アドラーたちが調べておいたクリニックに向かう。クリニックはスラム街に等しいオポチュニティ地区にあるのだが、ちゃんとしたクリニックだそうだ。


「ここだ」


「おお。サオトメ・クリニック? 日本人がやってるの?」


「正確には日系人だ。同郷の方が何かと都合がいいだろう」


「確かにね」


 七海たちはそう言ってクリニックに入った。


 クリニックはそこまで大きくなく、小さな診療所という感じであった。だが、ここにはオポチュニティ地区の多くの病院に欠けているものが、ちゃんと存在している。


 それは衛生観念だ。クリニックは床も壁も綺麗な白色だ。


「ようこそ、サオトメ・クリニックへ。今日はどのようなご用件でしょうか?」


 そして七海が受付に向かうと接客用アンドロイドがそう尋ねてくる。


「BCI手術を受けに来たんだけど」


「BCI手術ですね。畏まりました。まずは問診票にご記入ください」


 そう言われて七海はタブレットを渡された。


「家族に電子ドラッグ中毒者がいるかとかも聞くんだな」


「ああ。その手の要素は遺伝子やすいと言われているからな」


「後は妊娠はしてないし、心臓疾患とかもないし。書いてるワクチンはどれも聞いたこともないし、当然打ってないけど、それでも手術は受けられるんだよな……?」


「受けられる。問題はない」


 七海が心肺症候性出血熱やゼータ・フォー・インフルエンザなど意味不明な病気のワクチンが羅列するのに首を傾げ、アドラーがそんな七海に助言した。


「後はナノマシンアレルギーはありませんかってやつだな。これはどうすれば?」


「分からなければ施術前に検査してくれるはずだ」


「オーケー。じゃあ、頼むとしよう」


 七海は問診票を書き上げて、受付の接客用アンドロイドに手渡した。


「それでは今度はこちらの同意書についてお読みくださり、同意いただけたらサインをいただけますか?」


「はいはい」


 七海は再び別のタブレットを受け取り、それに記されている同意事項を読む。


「“BCI手術はまれに中枢神経系を傷つける恐れがあり……”って……。これって大丈夫なのかよ?」


「よほどのヤブではない限り、今時BCI手術で医療ミスは起きないよ、七海」


「それならいいけど……」


「盲腸の手術をするようなものだと思っていればいい」


 アドラーにそう言われたものの、盲腸の手術と脳みその手術はやっぱり違うんじゃないかなと思う七海であった。


 そんな不安を抱きながらも、七海は同意書にサインし提出。


 そして、待合室で待つこと30分弱。


「七海さん、どうぞー」


 七海の名が呼ばれた。


「行ってくる」


「待ってるぞ」


 七海はアドラーにそう言って診察室に向かった。


「七海さんですね。どうぞ座って」


「こんにちは、先生」


 診察室にいたのは若い女医だった。くすんだブロンドの髪をしており、あまり背は高くないがスレンダーな体形。スクラブシャツとパンツの上から白衣を纏っており、恐らくは名前の通りにアジア系だ。


「私は早乙女ユーリア。BCI手術をご希望とのことですので、私が担当します」


「お願いします。こういうのは初めてなんですけど、何か注意事項とがある?」


 七海は優しそうな早乙女にそう尋ねる。


「そこまで大きな手術ではないので心配はいりませんよ。ですが、まれに拒絶反応がでることがありますので、経過観察のために半日ほど経過を観察する必要があります。ここで待つこともできますし、自宅で安静にされても結構です」


「じゃあ、ここで待ちよ。いざってときに医者が近くにいた方が安心なんで」


「分かりました。そのように伝えておきます」


 七海が頼むのに、早乙女が応じる。


「ところで、先生は日系人?」


「ええ。日系の移民ですよ。移民2世になります」


「へえ。日系人とか日本人って火星じゃ珍しくないの?」


「珍しくないといえば珍しくないですね。とは言え、取り立てて他の国より多いわけでもないと思います。火星移住は国籍に可能な限り多様性を持たせるように努力したと聞いていますので」


「なるほどね。火星は開かれた移住先というわけだ」


「少なくともそういう理想は当初あったようですよ」


 火星への移住は様々な国で募集され、国籍が偏らないようにされたそうだ。


「まあ、火星への移住を望んだのは当初は専門的な技術者たちでしたが、それからは貧困層が口減らしに送られたと聞いています。火星にあまり裕福でない人が多いのは、そのためでもあるのでしょう」


「ふうむ」


 早乙女からそのような事情を七海は聞いた。


「さて、BCI手術そのものはシンプルです。当クリニックでは全身麻酔を使いますので、麻酔から目覚めるまでを含めても1時間程度で終わります」


「オーケー。よろしく頼むよ。で、それからナノマシンアレルギーがどうかが分からないんだけど……」


「ええ。手術前に各種検査を行いますので、検査室へどうぞ」


「どうも」


 それから七海は検査室で採血などを行い、BCI手術に備えた。


「それでは手術室へ」


 そして、七海はついにBCI手術を受けることに。


 と言っても、麻酔が効いているので、七海が寝ている間に全部終わってしまった。七海が目覚めるとベッドの上で、彼はまだ麻酔でぼんやりする頭のまま周囲を見渡す。


「目覚めたか、七海」


「ああ、アドラー。終わったのか?」


「手術はな。ただ拒絶反応が起きないかどうかの経過観察はまだだ」


「了解。先に帰ってていいぜ。終わったら連絡する」


「分かった。何事もないことを祈る、相棒」


 七海はベッドの上からそう言い、アドラーは先に帰った。


 その後、拒絶反応が起きるようなことは特になく、七海は手術代7000ノヴァを払うとアドラーに連絡した。アドラーは無人タクシーで七海を迎えに来てくれた。


「おお。本当にBCIポートができてる」


 七海はタクシーのバックミラーで首の後ろのBCIポートを確認。


「どうだ? その年齢でBCI手術を受ける人間は珍しいが」


「早くマトリクスってのに繋いでみたいよ」


「そうか。元気そうでよかった。だが、1日は待たないとナノマシンが脳の神経系に定着しないだろう?」


「そう聞いてる。少しの間は待つさ」


 アドラーが確認するのに七海が肩をすくめながらも頷いた。


「それからマトリクスに繋ぐ前に李麗華のところでアイスを組んでもらおう。それがないとマトリクスはそれなりに危険な場所だからな」


「ああ。そうだった。いきなり脳みそを焼き切られたら困るからな。そこら辺はしっかりしておかないと」


「早速、李麗華のところに向かうか?」


「そうしよう。でも、このままだとマトリクスには繋げないんだよな?」


 七海は疑問に思っていたことを尋ねる。


 昔はインターネットに接続するにはプロバイダとか、そういうところと契約し、そして工事などを行って初めて繋げた。それにBCI手術は脳とコンピューターを接続可能にするだけだと聞いている。


「それは外付けのサイバーデッキを経由するか、さらなる手術でワイヤレスサイバーデッキを埋め込むかだな。流石に今回の手術だけでワイヤレスサイバーデッキまでは買えなかったから、後者は不可能だが」


「サイバーデッキってのはパソコンみたいなものか」


「お前に時代に合わせて言うならばそうだな。優先の基本的なサイバーデッキから、ワイヤレスのサイバーデッキまで様々だ」


「安いのはいくらくらいだ?」


「安くても800ノヴァ程度はするだろう」


「何かと金がかかるな……」


「しかし、仕事ビズには必須だ。後で購入しておこう」


 七海が出費に次ぐ出費に少しうんざりするのにアドラーはそう言う。


「ああ。仕事ビズのための必要経費と割り切ろう」


 そう言葉を交わし、七海たちは李麗華のマンションを目指した。


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