第1話 私の来し方を振り返って(私の原体験)

@tomikei

第1話 私の原体験

 1

 昭和20年、私は小学校1年生で宮崎県の生目村にある生目国民學校初等科に通っていました(昭和22年4月に”小学校”の名称になりました)。 生目村は父の郷里で、父も同校の卒業生でした。学校は私の家から4キロほど離れたところにありました。近隣の生徒は上級生に率いられて列になって学校へ通っていました。帰りはたいてい同級生と一緒でした。1年生の夏休み半ばまではまだ戦争が続いていて全員が手作りの防空頭巾を被っていました。

 遠く赤江の飛行場には何度も空襲がありました。生目村にはたまにしか空襲警報が鳴りませんでした。でも、引き揚げてゆく飛行機から、空の燃料タンクが投下される様子は村でも見られました。タンクがゆらゆらとらと横に不規則に揺れながら落ちてゆく様は子供心にも恐ろしいものでした。頭上に敵機の影が見えると、防空壕が遠くて間に合わない時はソレッとばかり物陰に隠れるか花盛りのレンゲ畑に臥せったりしました。顔の高さくらいのレンゲに囲まれてうつ伏せになるとレンゲの花粉の香りと緑のにおいがして空から丸見えであることも忘れてしまうほど良い心地でした。 自分では飛行機の姿が見えないので安心していたのです。親たちの心配をよそに呑気なものでした。


 2

 学校の帰り道に、キュウリの畑がありました。まっすぐなキュウリが目の前でおいでおいでをしているようでした。夏の暑い日にはキュウリ畑は日差しを避ける良い場所でしあ。 ただ休むだけならよかったのですが。ある日あたりに人もいないので恐る恐る手を伸ばしました。人の物だと分ってはいましたが1本くらいなら良いだろうと勝手に考えて取りました。でもなんとなくおちつかないきもちがしました。当時多くつくられていたのは”四葉すうよう”という白イボキュウリで表面にボツボツの突起が多数あるものでした。 かぶりつくと、果実の香りが口中に広がり、夢中になって食べました。家に帰ってこのことを父に話すと、「敬四郎、”天網恢恢てんもうかいかい疎にして漏らさず”という言葉があるぞ。悪いことをすると、たとえ人の目を逃れられても、お天道様はちゃんと見ておられて罰せられるという意味だ。気をつけろ。」と言われました。やはりあれは悪いことだったのだ。おまけに空から監視されていると聞いて驚き、急に恐ろしくなりました。

                                                                                       ! 人が見ていない時でも悪いことはもうしません。

 

 3

 昭和20年8月15日戦争は終わりました。大人たちは天皇陛下のラジオ放送(玉音放送)を聞いて泣く人も大勢いましたが、子供心に今日から防空頭巾を被らなくても良いと思い安心しました。

 一方、配給は十分でなく親父が延岡の診療所勤務の帰りに宮崎市の闇市で仕入れてくる食料を頼りにしていました。けれど、ある時には父が持ちかえったイカの塩辛のビンの中でウジ虫が動いていて、気持ちが悪くてすぐに捨てたこともありました。 蓋がしっかりしまっていなかったからでしょう。

 通学時には家で共に暮らしている吉松きちまつの作ってくれたわら草履をはきました。冬でも素足で通いました。まだ靴下や足袋をはいている子は稀でした。霜を踏んで歩くとほとんど足の感覚がなくなるほど凍えました。かかとのひび割れのいたさや足指先の霜焼けの痒さも応えました。しかしその一方で足の裏は厚くなって平気で小石の道を行ったり藪の中を突っ切ったりできました。そして「敬四郎は豪傑だ」と言われて喜んでいました。(今思うと体重がそれほどなかったためかとも思われます。)藪の中は虫や蛇もおり、木や竹の切り口など危ないものが一杯だったはずです。今振返れば無事で済んだのは先祖様が陰で守ってくださったお陰ではないでしょうか。


  ! 裸足で藪に入るなど、傲慢な行いでした。


 4

 私はお坊ちゃん育ちで、なんでも人の言うことには従うへきがありました。ある時母が夕食に備えて作っておいたサツマイモの粉の団子を見つけおやつ代わりに盗み食いしたことがあります。それが母に見つかり、危うくひっぱたかれるところを、裸足で庭に飛び降りて逃げ出しました。裸足ですから、下駄をはいてから追いかける母に勝ち目はありません。それでも母は追ってきました。杉林の入口まで逃げた私に「止まりなさい。もうにがさないからね!」と必死で母は叫びました。その剣幕に恐れをなしたのか今ははっきり覚えていませんが、私の足はぴたりと止まってしまいました。あるいは追い付けないと分りながらもそう叫んだ母が可哀想になったのでしょうか。どういうわけか母はこのことを覚えていて、私の成年後も何かあるといつも持ち出してきて閉口しました。

 

! あの時は逃げる一手だったです。


 5

 吉松きちまつは少しメンタルに問題を抱えた人でした。周りの大人たちは吉松きちまつ吉松きちまつと呼び捨てにしていたので私たち子供もそれにならっていました。子供のことですから決して差別意識は持っていませんでした。年は40歳くらいで、口数の少ない穏やかな人でした。

 彼は朝起きるとまず一服タバコを吸い、牛の朝食の草刈りと牛小屋の掃除をしました。日中はまき割りや家周りの用事をしました。時おり労働の代価としてお金をもらうと刻みタバコを買い、残りは財布にしまい大事に身に着けていました。お風呂に入る時には、「お仏壇の仏様に見ていてもらうからね、安心して入ってね」と言って母がいつも預かっていました。

 私や妹には吉松きちまつはとてもやさしくしてくれました。彼はぞうり作りがとてもとても上手でした。初めに稲わらを叩いて柔らかくし、その稲わらで縄をよりました。それを足の両親指にひっかけてぞうりの骨組みが出来ました。そこへわらを編みこんで行くのです。以後の手順は私達にはとても複雑に思え、ただ感心して見守りました。 こうして仕上げたぞうりを彼は私たちにも分けてくれました。


 吉松きちまつ 


 私と妹はその吉松きちまつにお礼にタバコを上げようと考えました。先ずトウモロコシのひげを集めてきました。見た目が煙草に似ているというだけの根拠からです!それを見よう見まねでコンサイス辞典の薄い紙で丸めて一応見た目には申し分ないタバコが出来ました。当時自宅でタバコを巻く器具が大抵のタバコのみの家にありました。これならきっと吉松の気に入るだろうと嬉しくなりました。いつもキセルに刻みタバコを入れてふかす吉松きちまつは上等の紙巻きたばこと思いそれを早速吸いました。でも、ご推察の如くこれはとても飲めたものではありませんでした。吉松はすまなそうにそれを捨てました。私と妹の思いは空回りどころかとんでもない結果に終わりました。無知からとはいへ吉松きちまつの信頼を裏切りました。


 吉松きちまつ


 6

 学校で算数の時間だったと思いますが、先生が3名の生徒に、廊下の幅を測る課題を出しました。私と普段から仲の良い中山健君と山下太郎君が指名されて30センチメートルの竹製の物差を使って測るよう指示されました。私は慎重に測っていましたが、山下君はすでに測り終えていて、傍に来ると「これは90.5㎝だからそう書けよ」と言いました。そこで気弱にもその言葉に従ってしまいました。ところが悪い結果がまっていました。先生の講評は「中山君、君の測定は91.5㎝で他の2人とは違っている。測りなおしなさい」だった。これを聞いた私は、中山君に悪いことをしたと悔やんだが時すでに遅かった。先生にズルしたことを話すべきだったがそれもしなかった。中山君は黙って測り直しました。80年ほど前の出来事ながら後悔の念と共にしっかりと記憶に残っています。


 ! 自分なりの考え方を持つことの大切さが未だ分からずにいました。


 いま思うと先生も難しい立場にありました。「人が行う測定には誤差を伴うので様々な結果が得られます」と教えることも出来たでしょうが、誤差の概念がはっきり分からぬ低学年の生徒にそれを説明することは困難だったでしょうから。

(終り)

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