ボーンブロス或いは英国の古い怪談
神田 るふ
ボーンブロス或いは英国の古い怪談
ピンチです。
具体的に言うと、懐具合がピンチである。
先月、彼女と楽しいクリスマスイブを過ごそうと、シャンタンだのベルベルだのというお高いワインを買ったまでは良かった。
その後、年明け早々風邪に罹り、治ったと思ったらインフルエンザに罹患した。
病気は恐ろしい。何より、金がかかる。
社会人ならともかく、学生の身分では病気やケガという臨時出費はお財布を直撃する。
光熱費は服を着こんでやり過ごし、水道代も水は大学の水道で汲んで風呂も二日に一度にし……といろいろ方策を練ったが、問題は食費だ。
次のバイト代の入金まで、どう三食を過ごすか……。
夜遅く、外気温とさして変わらない部屋の中で白い息を吐きつつベッドの上で布団をかぶっていた俺の耳に、インターホンの音が入り込んできた。
無視だ、無視。
ここで動くと布団に冷気が入る。俺は今日からミノムシになるのだ。
インターホンのチャイムが数度鳴った後、ドアベルの音よりも聞きたくない、あの声がドアの外からしてきた。
「和多さーん!僕だよー!おーい!死んだのかー!死んでたら言ってくれー!良いエクソシストを知ってるから!」
生きとるわ!死んでたら返事できんだろ!つーか、人を悪魔や悪霊扱いするな!
ただでさえ寒いのに、あの悪魔めいた友人から冷笑を浴びるのはまっぴらごめんだ。
絶対に無視してやる。俺は今日から五年間地中に暮らすセミの幼虫になるのだ。
そんな俺の固い決意は、悪友の言葉でもろくも崩れ去った。
「腹が減っているだろー!?差し入れ持ってきたぞー!鍋にしよう!」
「で……だ」
「何だい、和多さん。僕は料理の準備で忙しいんだ」
俺の金剛仁王像のごとき憤怒の表情も部屋の寒さも意に介することなく、我が悪友、
「料理ってお前。これが料理か?」
水を張った鍋の中で、天津が差し入れてきた具材がゆらゆらと蠢いている。
骨だ。
どこからどう見ても、骨だ。
肉の一片すらついていない、薄白い物体が、ゆっくりと泡と一緒に踊り始めている。
「なあ、天津。俺は何時から犬になった?」
「人が自分を人と認識する根拠は何だい、和多さん。君が犬だと思うなら、君は犬だ」
「いや、そうじゃなくて!これが食い物か、天津!それとも、炊いていたら骨が食えるようになるのか!?」
天津の顔に、心底憐れむような苦笑が浮かんだ。
「骨が食えるわけないだろ。重要なのは、スープだよ、和多さん。これはボーンブロスと言うんだ。骨は煮込むと出汁が出る。滋養強壮に良いし、具材を入れてスープにするのも良い。さて」
天津は衣服同様、真っ黒なマフラーを巻きなおすと、曇った眼鏡をハンカチで拭いた。
「スープが出来上がるまで、待っていたまえ。僕は具材を買ってこよう。和多さん、吹きこぼれないよう、ちゃんと見張ってくれていたまえ」
そう言い残すと、天津は夜の闇の奥へ消えていった。
電気代の節約のためテレビもラジオも着けず、照明もひとつ暗くした薄暗く寂しい部屋の中で、骨が鍋にあたるカラカラという音だけが無駄に響き渡っている。
そもそも、この骨は何の骨なんだ?
食っていい骨なのか?いや、骨は食えないが。
そんなことを考えながら、どれくらい、骨を見つめていただろう。
天津のやつ、遅いな。
もう、そろそろ……。
「……ぞ」
ん?
今、何か聞こえなかったか?
音がするのは、鍋の中だけだ。
鍋の中の骨がカラカラと……。
「……の………ぞ」
……?
いや、待て。
何か聞こえる。
骨の音に混じって、何かが……。
「お……の……ね……ぞ」
……微かに、人の声がする。
明らかに、この骨の中から。
その声を聞き取ろうと、俺はゆっくりと鍋に耳を近づける。
「おれの……ね……ぞ」
俺の?
俺の、いったい、何なんだ?
骨が、かたりと、音を立てるのを止めた。
「おれのほねだぞ!!!」
うわあああああああああああああ!!!
耳元で突然響いた低い声に、俺は思わずこたつから飛び出した。
「あはははあはははは!和多さん、鍋をひっくり返さないでくれよ!」
口が耳まで裂けてしまいそうな、まるでキツネのような笑顔で天津が爆笑している。
「お、お前、何時からそこにいたんだよ!」
「何時からって、つい、さっき。和多さんが鍋の中に顔を突っ込みそうなくらい近づけていたから、注意してあげたのさ。え?この骨は何の骨かって?どう見てもスペアリブの骨じゃないか」
涼しい顔でそう言うと、天津がスーパーのレジ袋から肉やカット野菜を取り出していく。
「マジでびっくりしたわ。それにしても、俺の骨、ねえ……」
具材を入れ終えて蓋をし、天津はこたつの中で手をこすりながら、滔々と語り始めた。
「和多さん。これは英国の民話なんだけどね。かつて、ご馳走にありつけなかった英国の貧しい人たちは骨だけを鍋に入れ、骨の音を聞きながら肉を食べたと自分に言い聞かせていたらしい。酷い時代さ。さて、とある貧しい家のおかみさんが市場に骨を探しに行った時のことだが、あいにく、その日は骨すら市場には残っていなかった。そこで、おかみさんは墓場に入り、誰とも知らぬ骸骨の腕の骨を盗むと、それを鍋に投げ入れた。おかみさんが鍋をゆでていると、鍋の中から声がする。『……ぞ』『……のだぞ』『おれの……だぞ』。たまらなくなったおかみさんは、こう叫んだ。『おれの何なんだい!』」
おれのほねだぞ!!!
しん、と部屋が静まり返った。音を立てているのは、鍋だけだ。
だが、もうカラカラという骨の音はしなくなっていた。
「話の終わりに大声を出すという、怪談のひとつのテクニックさ。まあ、こんなに簡単にひっかかるとはねえ。流石は和多さんだ」
天津が鍋の蓋を開けると、もうもうと湯気が部屋の中に広がっていく。
湯気の奥の鍋の中に、生身の人の手が入っているように見えたのは気のせいだろうか。
先ほど、天津は言っていた。
人の認識はその人次第だと。
スペアリブの骨も、先ほどの英国の怪談を聞き、認識が変わってしまったら……。
人の骨になるのではないだろうか。
すっかり食欲を無くしてしまった俺の目の前で、天津は艶然とした面持ちで骨をしゃぶり上げた。
ボーンブロス或いは英国の古い怪談 神田 るふ @nekonoturugi
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