第30話 ファイア・アンド・アイス
切除した腫瘍の塊を助手に引き渡し、星来は大きなため息をついた。
「はあ、はあ……」
正直息が切れる。
すでに手術開始から六時間が経過した。予定よりも時間がかかっている。
彗にもらったチョコレートを口にしてから四時間。
飲まず食わずで、水一滴口にしていない。
体を激しく動かす訳では無いが、脳をフル回転させる必要がある。想像以上に消耗するのだ。
古市と八波が声をかけてきた。
「疲労困憊だな、セーラちゃん。今のうちに休憩したほうがいい」
「そうです。まだ手術は続く。私たちも交代で適当に休んでいます」
「……野田先生たちは?」
「先ほど病理検査部に組織を提出して、迅速病理検査の結果を待っています。結果が出次第、摘出した組織の処理が始まります。まだ一時間以上はかかるはずだ」
「わ、分かりました」
よろめきながらコクピットを降りる。
体が軋む様な音を立てた。
苦手な帽子とマスクを着けて、更衣室に戻る。
ロッカーを開けて水を飲んだ。自分でも驚くほど喉が渇いている。手術室は完全空調なので空気が乾燥しているのだ。
朝手術室に入って、すでに夕方になっている。だが、まだ手術は終わりではない。蓮の体は現在背骨が無く、筋肉と内臓だけで上半身と下半身が繋がった状態である。
「そうだ……」
星来は彗にもらったチョコレートの箱を開け、二個目のプラリネを噛んだ。コロリとした丸っこいハート形だ。チョコレートの殻が砕け、中からアーモンドチョコのクリームが出てきた。
甘さが体に沁みる。
――彗先生、ありがとう。
緊張が一気に解けた。
もしかしたら彗の事だ。こうなる事を見越してチョコレートをお土産に選んだのだろうか。
それにしても、可愛い過ぎるパッケージだ。多分既製品でなく、ショコラティエの手作りだと思う。
それにしても。
「彗先生はチョコレート・ショップで買い物をする時、どんな顔をしていたんだろう?」
口元がほころんだ。
「ふう……よし」
リラックスできた。
星来は少しだけ軽くなった足取りで第四手術室に戻った。
古市と八波も交代で休んできたらしい。
モニタの前で伸びをしている。
「余分な部分は切除した。今から液体窒素で椎体を処理するぞ」
モニタを見ると、鳥栖と野田が話し合いながら作業を進めている。
液体窒素で処理することにより、骨の中の悪性腫瘍の細胞は完全に死滅する。その代わり腫瘍細胞に含まれるタンパク質が残る。これをもう一度体内に残すことにより、腫瘍に対する免疫細胞が活性化する。潜在的な転移巣を攻撃する能力が高まるとされている。
大きいボウルの様な容器から白い湯気が立ち昇った。白い骨がさらに白くなって取り出される。取り出された骨は電動ノコギリで切断され、いくつかに切り分けられる。
「ボーン・ミルを持って来い」
ボーン・ミルのミルはコーヒー・ミルと同じ意味だ。
ガガガ、と凄まじいミキサーの音が聞こえた。摘出した骨を砕いてミンチ状にしているのだ。
「すげぇ」八波が唸る。
「ほんとに大工さんみたい」
「実に荒々しいですね。肉屋の様だ」
古市はいつも楽しそうだ。
「ケージを用意しろ。粉砕した骨を詰め込む」
ケージは円筒状の鳥かごのようなものだ。腫瘍を切除されたスペースに挿入すると、やがてこれを伝って骨ができ、無くなった椎体の上下で骨が癒合する。
鳥栖はスプーンの様な道具で金属の円柱――ケージに骨をギュウギュウと詰め込んでいる。野田は鳥栖の怪力に負けない様にケージを支えていた。
一般的に想像する手術からかけ離れた光景だ。
「そろそろセーラちゃんの出番だぜ」
「コクピットに入って下さい」
「はい」
程なくしてインカムから鳥栖の声がした。
「準備できたぞ。本当にできるんだろうな。」
「……はい」
「無理ならもう一度体をひっくり返して、脊髄を避けて背中から入れる」
「……それでは微調整ができませんし……脊髄損傷のリスクが」
「分かっておる! 俺を誰だと思っておる? 万が一、万が一の場合だ。できるのか、できんのか?!」
声の圧に圧倒される。
けれど、気持ちは負けない。
「……やってみせます」
「ふん、よかろう!」
「では、ケージを下さい」
「ほれ、受け取るがいい! 最終決戦はこれからだぞ」
円筒形なので、縦にまっすぐ挿入すれば、小さな傷から体内に入る。
洞窟のような視野の中に、金属の筒が下りてきた。
星来は鉗子で受け取ると、中に詰め込まれた骨をこぼさないように体内で慎重に向きを変えた。
そんなに大きな空間はない。
その中で修復した静脈を避けて体内に設置しなければならない。
人工血管に引っ掛かりそうだ。ひっかけて破れば、大出血を起こす。そしてまたやり直しになる。
シミュレーションで考えていた経路が使えない。思ったより空間が狭いのだ。
彗の言葉を反芻する。
「こんな時は――捨てる。自由な心で」
一度瞬きすると、最も正しい経路が目の中に現れた。
一旦左側を下げてまっすぐに戻し、腰椎に接触した時点で右手を回転して脊椎の方向と平行にする。
かっと頭が熱くなったので、一回深呼吸する。
頭が冷えてきた。
心の熱は炎のように。頭は氷のように冷たく。
「背骨の端に届いた! このまま押し込みます!ハッパさん、古市先生、出力を二倍にして下さい」
金属部品を骨の間にねじ込む。星来がこの方法を選択した理由の一つがこれだ。
小さな道具の先端に正確に強い力を加える操作は、人間の手よりロボットの方が優れている。しかも、非力な星来でも巨漢の鳥栖以上の力が出せるのだ。
「了解!」
「サイコムのパワーアシストは伊達じゃありません!」
「行けぇ!」
この鉗子は、武骨な機械の腕だけれど――天使の手。
彗先生の失った腕と、私の手。二人分の手なんだ。
もう一度、あの言葉を思い出せ。
医師は治す――そう、ただ精いっぱい治すだけ。
癒すのは神の業。
この手に、天使よ、宿れ。
「ふう……」
体内でチタンのケージが鈍く光った。
ピッタリ理想の場所に金属の材料が納まっている。その近くには星来が縫い付けた人工血管があり、さらに向こう側で動脈が拍動しているのが見える。
「確認お願いします。あとは周囲の骨膜や筋肉をできるだけ修復します」
「見事だっ! 実に見事であるっ!」
耳元で鳥栖教授の大声が響いた。
「ひゃあ……びっくりした」
再び手を動かし始めた。
ゆっくり呼吸するように手は動き、壊れた体を修復していた。
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手術が終わった。
星来は大きな息を吐きだし、嫌いな帽子とサンダルを身に着けた。
「セイラちゃん?」
「おや、眞杉君?」
「ちょっと、第三手術室に行ってきます」
隣の部屋に入った。
万が一のためのバックアップ・スタッフが去り、教授の鳥栖も自室に引き上げている。
主治医の野田が静かに小さく拍手の真似をした。
抜管—―気管に挿入された呼吸チューブが抜去され、蓮はまだ半覚醒状態である。
「蓮くん? 分かる?」
麻酔科医が声をかけるとうっすら目を開けた。
野田が声をかける。
「足が動かせるか?」
半覚醒なので弱弱しいが、足首をパタパタと動かした。
「膝は立てられるかい?」
ゆっくり、ゆるゆると膝が立つ。
脊髄神経の損傷は、現時点では無い。
野田と星来は顔を合わせて頷いた。思わず笑顔になる。
「どう?」
「うーん、痛い……」
「アセリオ追加で入れて」
麻酔科医が痛み止めを追加している。
星来は話しかけた。
「蓮くん、私だよ。分かる?」
「ん……星来ねーちゃん、ここ、天国? 俺……天使を見たよ」
「ここは手術室だよ。まだ天国に行っちゃだめだよ」
「違うよ……ねーちゃんの顔した天使が来て」
「え?」
「俺の体、治して行った……」
それだけ言うと、蓮はいびきをかいてまた眠り始めた。
麻酔科医が頷く。
「大丈夫の様ですね、病室に帰しましょう」
そんなことはあり得ないけれど、まるで自分が執刀したことを知っているようだ。
星来は眠る蓮の手を軽く握った後、そっと手術室を出た。
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