第27話 メディクス・クーラト
不思議なことに、胃の痛みはほとんど感じなくなっていた。
コーヒーの香りがするアイスクリームを食べると、滋養が体に沁み込んでいくような気がする。
結局、溶けたアイスクリームとコーヒーの混ざった最後の一滴まできれいに飲んでしまった。
「ありがとうございます。おいしかったです」
彗はデミタス・カップに入ったエスプレッソコーヒーを静かに飲んでいた。
他に座るところが無いので、二人掛けのソファに横並びで座っている。
いつもほとんど向かい合って指導を受けているので、なんだか変な気分だ。
「それ、苦そうですね」
「ああ、本当はイタリア人もエスプレッソには砂糖を入れて飲むんだ」
「苦いのに……どうして飲むんですか?」
「さあな……俺にもわからん」
ぶっきらぼうな彗の声が聴けるのが嬉しかった。
麗美の「ケイセンセイ・ロス」という言葉がちらりと頭に浮かんだ。
「胎児手術の経過は良いと聞いたが、その後知っているか?」
「はい、エコーで足の動きが分かるようになりました。……尿の排泄も改善した可能性が高いらしくって、水頭症も発生していないとか」
「そうか……良かったな」
「……先生のおかげです」
言っていて何だか照れた。
「練習は続けているか?」
「はい、結紮は特に……やるようにしています」
絆創膏だらけの指を握りしめた。
「続けることが一番大事だ」
「はい」
アイスクリームを食べて少し落ち着くと、恥ずかしくなってきた。
なるべく離れて座るようにしているが、所詮2人掛けのソファだ。いつもよりずっと距離が近い。体温が空気越しに伝わってくる。
麗美に焚きつけられた勢いでそうしてしまったものの、何でこんなデートみたいな恰好で来てしまったのだろう。仕事の話をしにきたのに、どうにも場違いな気がする。
「それで、相談とは? 安室君がやたら長いメールを送ってきたが」
「れ、麗美が?」
「あまりに長かったのと、文体が特殊でな」
「特殊?」
「顔文字のような記号がたくさん過ぎて、きちんと読めなかった」
「な、なるほど……」
「というわけで、お前の口から直接教えてほしい」
「はい……」
星来はまず、蓮の病状について説明した。
「なるほど、それでお前のプランは?」
続いて考え抜いた手術の方法を話す。
人に物を話すのは得意でない。時々たどたどしくなる星来の話を、彗は相槌を打ちながら静かに聞いていた。
「よく考えたな」
「はい……考えて、考えて……」
ゴクリと唾を飲み込んだ。
なのに、指に鉛の糸が絡まったように重い。
「手が動かなくなったか」
「どうして、それが……分かるんですか?」
「俺にも経験がある」
「先生にも? それで、そんな時には、どうしたんですか? どうすればいいんですか?」
「手術のことを考え抜いて、ありとあらゆる計画を立てて……そして最後にそれを手放す」
「手放す? ……そんな、そんなことしたら」
「昔……自分がトップとして執刀医を務めるようになってしばらくの頃、手術の直前まで一週間、ありとあらゆる論文を読んで、勉強して、考え抜いて、シミュレーションを繰り返して手術に挑んだ。同期の誰よりも勉強したし、人よりかなり器用な方だという自負もあったと思う。手術の手順を忘れないように紙に書いて、設計図を作り、手術室の壁に貼って挑んだ。だが……」
「だが?」
「手術室で患者の体を開けてから、手が止まった」
「どうしたんですか……?」
「画像検査の結果と実際の所見が違ったんだ」
「あ……」
「それでも、手術前のこだわりが捨てられない。人間というものは、自分が積み上げたものに意味を見出そうとする。違った状態にもかかわらず、設計図に無理やり当てはめようとする」
「でも、それじゃ……うまくいかない」
「その通りだ。できるはずがない。だが、誰も教えてくれないし、助けてくれない。俺がその場のトップなのだから。……全てを投げ出して、手術室の床に座り込みたくなったよ。手術は止まり、麻酔器の換気音と心電図の音がやたら大きく聞こえた」
彗は目を細めた。
――自分だったらどうするだろう。
星来は胸を押さえた。
想像するだけでぞっとする。動悸が早まり、胸が痛くなる。
蓮の手術で思い悩んでいる今、他人事ではない。
「それで……それで……どうしたんですか?」
「捨てた」
「え?」
「手術室に持ってきたプランを捨てて、真逆の方向から患部に侵入したのさ。すると、あっという間に終わった」
「良かった……」
いつの間にか身を乗り出して聞いていた。星来はがっくりとソファのひじ掛けに身を預けた。
「手術後にもう一度論文を読み直してみた。そうしたら、一篇だけその方法が書いてある論文があった。元々がごく稀な症例で、前例が少ない。だが、同じことを考えていたやつが世界にいたんだ」
「そんなことがあるんですね……」
「それがあってから、きっちりした設計図を作るのは止めた。特に、絵で描くのは止めた」
「設計図は作らない……」
「イメージがどうしてもそれに引っ張られてしまう。人の体が、医者が考える設計図通りであるはずがない。人の体は自然の理に沿うべきものだ。自分の知識と手技を極限まで高めたら、最後に必要なのは、臨機応変――自由な心だ。自分の執着から自由になることだ」
「でも、でも!」
星来は思わず立ち上がった。
「マニュアルが無ければ、私はどうやっていいか分かりません。私には先生みたいな経験だってありません」
目に涙が滲む。
「だって、蓮くんは絶対に助けなくっちゃ。どうしたって、助けなくっちゃいけないんです。だって、お父さんは救えなかった。もう、身近な人を救えないのは、嫌。今度こそは、絶対に、絶対に……」
気づけば、大きな声で叫んでいた。
緑色がかった瞳で、彗はそれを静かに見つめている。
ふと、我に返る。
「ごめんなさい、本当に……どうも、失礼しました……」
乱れた髪を整え、星来は頭を下げながらそっとソファに戻った。
教えを請いに来たはずなのに、情けなくなって彗の顔を見ることができなかった。
「メディクス・クーラト。 ナートゥーラ・サーナト」
しばらく腕を組んで黙っていた彗が、ポツリと口を開いた。
まるで呪文だ。
「……それは?」
「ラテン語だ。—―我、包帯を巻く。神、癒やしたまう」
「包帯?」
「十六世紀の外科医、アンブロワーズ・パレが信条とした言葉だ。正確には、『医師、治し、自然、これを癒す』」
「パレ……?」
「理髪外科医というのはわかるか? 近代になるまで、内科に対して外科医はワンランク低く考えられていた。髪を切る理容師が体を切る外科医の仕事を兼ねていたのさ。言ってみれば卑しい仕事だ。」
「あ……散髪屋さんの赤と青と白の看板は、それがルーツって聞いたことがあります」
「包帯と動脈と静脈の色だな。パレは一介の理髪外科医から身を起こし、フランス国王の侍医になった男だ。痛みの少ない愛護的な治療をたくさん発明した。現在普通に行われる血管結紮による止血法も彼の発明だ」
「じゃあ、それまでは?」
「煮えたぎる油を傷にかけて、焼き
「……痛そう。それじゃ、そうなりますよね……」
「彼は軟膏による処置や義足も開発した。国王に他の患者よりも良い治療を求められた時、それを断ったという」
「王様にですか?」
「自分のやっている治療はどんな貧しい者に対しても最良なので、それをするのみだとな。……彼は『優しい外科医』とも呼ばれる」
「優しい外科医……」
「お前が動かすのは機械の手だが、優しい手でありたいものだな」
彗は星来の目を見た。目の中に自分が映っている。
険しかった自分の表情が、瞳の中で徐々に柔らかくなっていく。
「……はい」
「優しい手で人体に働きかけた時に、人体――自然は最もその治癒力を発揮する。外科医は謙虚で、かつ勇敢でならなければならないと俺は思う。俺の手術を神の手だとか、天使の手だとか言う奴が昔はいた。だが、その頃の俺は思い上がっていたかもしれん」
彗は手術痕の残る右手を見ている。星来もその傷だらけの手を見た。
詳しい事情は教えてもらっていないが、彗が病気でメスを握れなくなったことは察している。
外科技術の頂点を極めながら、それを失った手。
失った時はどれほどの絶望だったのだろう。
堕ちた天使の手。
その彼が、どれだけの想いで自分に語り掛けてくれているのか。
胸に暖かい灯がともる。
「機械仕掛けの医師――メディクス・エクス・マキナ――星来、お前は機械の手に天使の心を宿せ」
「私が……?」
心の灯がゆっくりと全身に広がり、体全体を包み込むような気がする。
「俺の弟子だ。お前なら出来る」
「そう……でしょうか……」
彗の優しい声を聴いていると、いつの間にか眠くなってきた。
この二週間ほど、毎日二時間しか眠っていなかったのだ。
心地よい温もりに
「そして、いつか……こぼれ落ちる生命もその手で救え」
「は……い」
どうして……その言葉を?
もう目を開けていられない。
「少し休め」
ソファから彗が立ち上がった。体が沈み、自然に横になっていく。
暖かい毛布が体にかけられた。
星来はゆっくりと安らかな眠りに落ちていった。
「もう雪の日に、一人で泣くことはないな」
遠くでそんな声がした様な気がした。
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