第22話 アナザー・ペイシャント
産婦人科の研修を終え、本来先に回るはずだった一般外科――腹部外科の研修が始まった。
前に比べるとびっくりするくらい平和だ。
相変わらず見学が中心だが、内科研修で身につけた消化器内科の知識と共通する部分が多い。
腹腔鏡下手術の見学も以前より理解が進む。
シミュレーションを繰り返したせいだろうか。画像を見ていると時々ムズムズ――フラストレーションが溜まる事があるが、一つの勉強として見ることが出来る様になっていた。
一種の脳内シミュレーションだ。
術者が上手く出来ていないなら、自分ならどうするか考える。彗に教えられた様に、二手三手を予測するのだ。
お揃いのアイボリーのスクラブで、今日も麗美と一緒に手術室でモニタを眺めている。
進行次第によっては手を洗って滅菌ガウンを着け、閉創を手伝わせてもらう事になっている。
「退屈?」
「ううん」
「何だか星来、変わったね。ビクビクしなくなった」
麗美が感慨深げに言う。
「そう? やっぱり初対面の人と話すのは苦手だよ」
「でも、前は子犬だったのに、成犬……は言い過ぎか、大人の猫くらいになった気がする。お母さん、嬉しいわ」
「お、お母さんはないでしょ」
「それに、時折大人の顔をするようになった」
「大人?」
「ちょっと寂しそうな……切ない様な……これは、ケイセンセイ・ロスだな」
麗美が診断した。
「な、何それ?」
だが実際、あれから会えていない。
少なくともお礼が言いたいのだが、連絡先も知らない。メールアドレスくらいなら古市に聞けば教えてもらえそうなのだが、何となく気恥ずかしくて聞けない。
先端医学講座に机はまだあり、時々顔を出している。
定期的な手術の
このまま何もなく研修が過ぎていくのがいいような気もする反面、緊張に満ちた彗との濃密な指導の時間が懐かしくもある。
ほんの数週間前だが、甲斐美晴の手術が随分前のように思えた。
――確かに、また会いたい。
もっと教えを受けたい気持ちはある。
あの瞳の色を思い出すと、じんわり胸が暖かくなる。
そんな事を考えていると、PHSが鳴った。
「はい? 眞杉です……岸先生? ……えっと、それは?」
思いもよらぬ岸教授からの呼び出しだった。
手術も終盤に差し掛かっていたので、上級医に断って部屋を出る。
呼び出し先は統括診療部長室だった。
自分も呼び出された事にして、麗美もちゃっかりついて来ている。何か問題を起こしたとは思っていないが、それでも緊張する。
「……失礼します」
ドアを開けると、ソファに座る、やたら厳つい背中が見えた。
大きい。
ぐるりと振り向くと怖い顔が出てきた。思わず麗美の後ろに隠れる。
「むぅ……此奴が」
「ひゃっ」
整形外科の
鳥栖は身長百九十センチ近い長身で、元ラグビー部だという。顎には医学生体育大会の試合でついたという傷跡があり、ぱっと見は海賊か山賊、フランケンシュタインだ。
「こら、
岸教授の声がしたので星来はおずおず顔を出した。鳥栖教授の体に隠れて岸は全く見えなかったのだ。
「これは失礼、
「そんな怖い顔だと、
「それで、どちらが例の研修医ですか?」
鳥栖はぎろりと星来と麗美を見た。
「だから、威嚇するのを止めろ。全く……
鳥栖は引きつった様な笑顔を作り、ソファの席を勧めた。
勧められて座ったのは良いが、星来から見ると壁がそびえ立っているようだ。しかも分厚い胸板の上に乗った目が炯々と光っている。
「この小さい娘が……」
「こっちの長髪の方も覚えていないか? 見た目によらず優秀な学生だったが」
「入局の可能性がある者として、男子医学生しか見ていないので」
岸は苦笑した。
「さすが、骨と関節の大工に例えられる整形外科医だな。だが、今日び、女子医学生の数が増えているので、そんな事では困る」
岸が猛獣使いに見える。
ポカンとして見ている星来と麗美に説明した。
「鳥栖先生は私の妹の夫なのだ。こう見えて愛妻家の子煩悩だぞ」
「はっはっは、姉上には敵いませんな」
笑い声が大きいのでびっくりする。
「それで、何のご用ですか?」
家族の茶番に付き合っている暇は無い、とばかりに麗美がズバリと話題を切り出した。
「確かに。お互い忙しい身だ。話を進めよう。眞杉に執刀を頼みたい症例が来た」
「せ、整形外科で、……ですか?」
どうにも鳥栖に見下ろされている様で気になる。麗美の様にはいかず、言葉が尻すぼみになった。
整形外科はマスコミのせいで美容外科と勘違いされる事があるが、手足と脊椎を対象にする診療科だ。骨折などの外傷や、人工関節をイメージすれば分かりやすいかもしれない。
手術に電気ノコギリやドリル、ハンマーやネジやプレート、はてはペンチを使うので、医師の間でも大工の様なイメージを持たれている。
手術中に脚一本を抱えて持っていなければならないことなど、かなり体力勝負の操作が多いため、男性医師の割合が圧倒的に多い科である。
「でも、整形外科で、手術用ロボットなんて使いましたっけ?」
「あるにはある。ガレノスの様な内視鏡支援ロボットではないが。人工関節手術などで適切な骨の形や量を切除するために使う、ナビゲーション・システムだ。でかい筐体にドリルやボーン・ソーがついていて、一定の量骨を削ると停止するという様な」
「ドリルと骨ノコギリ……」
鳥栖の上腕二頭筋は白衣の中ではちきれんばかりだ。星来は妙に納得した。
「内視鏡っていっても、膝や肩は関節鏡ですよね? あれも体の深いところじゃないから人力でできるでしょう?」
「うむ、脊椎内視鏡もあるが、確かにロボットの出番はない。……姉上、この派手な娘はなかなか優秀ですな?」
「派手って……」
「娘とか言うな、コンプラ的に今はヤバいのだ」
「あ……あの、た、確か腕神経叢の手術で試用された事があったとか……聞いた気がします」
彗に教えてもらった事を星来も思い出した。
「おお、さすが、見た目によらず、その道のエキスパートという事か? 手外科領域だな。だが、経済効率が全く上がらず、臨床からは撤退して研究だけが続いていると聞く」
ぐわははは、と鳥栖は豪快に笑った。
「ロボットと経済効率の問題は頭が痛い。ロボット支援手術の加算料金では維持費にもならないのだから」
「うちの科は人工関節手術で病院の売り上げに貢献しているが、ロボットなど使わない方が、結局速くて、それに術後成績も良い。いずれはそれも変わるかもしれんが」
「それで、そのロボット否定論者がなぜ?」
「うむ、これを見てくれ」
そう言って鳥栖はテーブルの上に置いてあったラップトップ・パソコンを開いた。
ラップトップと言っても、病棟ではワゴンに載せて運ぶ電子カルテの端末だ。本来持ち歩く事を想定された重さの物ではない。鳥栖は小脇に抱えて持って来たらしい。
「十七歳の少年だ。診断は、第三腰椎の骨肉腫」
「骨肉腫……骨のガン……」
「有病率は百万人に一人くらい、好発年齢は十代。若年発生例は進行が速くて肺転移する。治療は広範切除術と化学療法でしたっけ。五年生存率は六、七割でしたよね」
「うむ。ただ、私が医師になったばかりの頃はまだ二十パーセント前後だった。今でも治療は容易ではない」
鳥栖は麗美の答えに満足そうに頷いた。
「脊椎なんてどうやって切除するんですか? 悪性腫瘍に侵されたところをえぐり取るだけでは当然無理ですよね?」
「腫瘍の占拠範囲を囲むように、骨や筋膜で包まれた状態で切除する必要がある。特に脊椎は、TES――トータル・エンブロック・スポンディレクトミーといって、日本人が開発した手術方法がある。スポン、と椎体をまるごと切除して、長いチタンのフレームとケージ……鳥かごみたいなチタンの金属材料で置換するのだ」
スポン、のところで笑いが取りたかったらしいが、女医三人が無反応だったので鳥栖は少しつまらなそうな顔をした。
「でも、それのどこに星来の出番があるんですか?」
「TESは基本的に腫瘍が椎体内に限局している症例が対象になる。……問題は、これだ」
鳥栖はCTとMRIの画像を並べて見せた。
「脊椎の前側――
「人体最大の静脈だな。どうだ、眞杉、できそうか?」
岸が腕組みして星来を見た。
それよりも星来の目は、患者の名前とプロフィールに釘付けになっていた。
――神場
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます