第13話 マザー・アンド・ベイビー

「こんにちは、眞杉さん。一か月間よろしくね。産婦人科専攻医の屋島やしまです」


 岸教授に患者の概略を説明された後、上級医を紹介された。

 産婦人科研修の一か月間、星来の指導を行う直属の上司ということになる。

 専攻医とは二年間様々な診療科の初期研修を終え、将来進む科の専門研修を受けている医師の事だ。

 屋島は二つ年上だが物腰が柔らかく優しかった。包容力があるというのか、教授の岸が軍人の様な厳しい雰囲気をまとっているのとは対照的である。


「患者さんの前では避けたほうが良いけど、私のことは未來みらいって呼んでいいからね」

「未來さん……」


 おずおずと挨拶した。


 ……何だかお母さんみたいな人だな。


 星来は思ったが、まだ若い矢嶋にそんな事を言うのは失礼だと思って黙っていた。

 初対面の人は苦手なので会話が続けられない。無意識に緊張してしまうのだ。

 そんな様子を見てか、未來の方から会話を進めてくれる。


「ふふ……でも、眞杉さんで良かった」

「え……そう……ですか?」

「だって、安室さんだと振り回されそうじゃない。恰好があんなだから看護師長のあたりもきついし」

「私、でも、勉強苦手ですよ」

「そんなの研修医は当たり前じゃない」


 未來は終始笑っている。多分リラックスさせようとしてくれているのだ。


「さ、ここよ……こんにちは。失礼します、甲斐かいさん」


 矢嶋に連れられ、星来は四〇五号室に入った。

 少し広めの個室だが、ベッドの他には簡素なユニットバスがついているくらいだ。

 患者は甲斐美春かい みはる 四十一歳、初産婦—―今回が初めての妊娠である。長年の不妊治療の後、やっと授かった子供に問題が見つかった。

 脊髄髄膜瘤である。

 髄膜瘤は脊椎の発育不良による異常であるが、原因は特定されていない。遺伝子や、遺伝子を構成する栄養素である葉酸の不足などによって発生するとされている。

 多くの場合、生後は脚の運動と排尿・排便機能に問題を生じる。

 医師国家試験の後、急速に知識が消滅しつつある星来だが、さっきタブレットで教科書『今日の治療指針』をカンニングしたところである。

 美春はどんなに暗い表情をしているのかと思っていたが、案外表情は明るかった。


「岸教授から入院担当主治医を仰せつかりました、屋島です。外来でお会いした私のことは覚えていますか?」

「ええ、覚えていますよ。屋島先生、よろしくお願いします」

「こちらは今回私と一緒に担当させていただく研修医の眞杉です」

「……お、おねがいしましゅ……」


 頭を下げながらあいさつしたが、噛んでしまった。


「はい、おねがいします。眞杉先生」


 大学病院—―研究病院ということもあって若い医師が主治医になることも少なくない。患者の中には露骨に「実験材料ではない」「教材ではない」と嫌悪感を示す者もいるが、とりあえず時枝はそんな様子もなかった。特に幼く見られがちな星来にとって初見は第一の関門なのだが、まずはホッとする。


「体調は大丈夫ですか?」

「ええ」


 屋島がこれから数日に渡る検査の順番や手術前の準備について説明する。いずれも再確認が多いらしく、美春は素直にうなずいていた。


「赤ちゃんは大丈夫でしょうか? 動きが……少ないような気がします」

「モニタリングしていますので、大丈夫です。脚の動きがあまりない……のかもしれませんね。あんまり心配でしたら、また超音波検査エコーをしてみます」


 表情が一瞬曇ったが、美春はすぐにそれをかき消す様に笑顔を作って見せた。


「いえ、今はあれこれ考えても仕方がないですね。岸先生が最善の手だてを考えてくれるって言ってましたし」

「私たちもできるだけサポートします」


 美春は膨らんだ腹を愛しそうに撫でた。


「ごめんね……ママ、がんばるから」

「外来でお話ししたこと以外に何か聞きたいことはありませんか?」

「大体わかっているつもりです。麻酔は全身麻酔で、麻酔科のベテランの先生が子供にも負担をかけないようにしてくれる。それから、一度子宮を切るので出産のときも帝王切開の手術になる……」

「はい、自然分娩は子宮破裂のリスクになりますから。母体と赤ちゃんの安全のためです」

「二回も切るんだ……」


 星来は思わず声に出して言ってしまった。手術は子宮を損傷することになるので、圧力が加わればそこが裂けてしまう危険がある。考えてみれば当たり前なのだが、子供のために二回も手術を受ける覚悟をしているのだ。


「そうね、考えてみたらすごいことね」

「す、すみません。無神経なこと言っちゃいました……」

「いいえ、子供ができる前だったらとても考えられないことだわ。自分が病気でもないのに、二回も手術を受けるなんて」

「すごい、勇気ですね……」

「母は強し……ね。でも、それだけではないの。私たち夫婦はずっと子供を待っていて、やっとこの子が来てくれた。もちろん――この子を諦める選択肢もあったわ。でもね、もう二度と来てくれなかったらどうしようと思う気持ちや――それから」


 美春はごくりとつばを飲み込んだ。


「私のせいで、こんなことになったんじゃないかって……その気持ちだけはどうしても払拭できないの」

「それは違いますよ、美春さん」


 慌てて屋島が否定する。


「ええ、何度も説明を受けたわ。確率的な問題や遺伝子のこと、母親に特定の原因があるわけではないと……でも、どうしても。だから、この子のために頑張るのは……勇気というよりも、責任感とか、義務感なのかもしれない」

「で、でも、それでも、すごいと思います」


 コンコン。

 ノックの音がして、コート型の白衣を着た、ひょろりとした医者が入って来た。眠そうな目が星来を見つけて、一瞬大きく見開かれた。

 どこかで会った事がある。


「あなた、今、屋島先生と研修医さんが来てくれたところよ」

「あ……ああ」


 甲斐はぶっきらぼうに頭を下げた。

 心臓血管外科の准教授だ。この前手術室でカンカンに叱られたのを思い出した。


「お、お、お世話になってます」


 トンチンカンな挨拶が口から出た。


「は? お世話になってるのはうちの嫁だろうが」

 何だか調子が狂う、と甲斐はボリボリ頭を搔いた。


「そんなに研修医さんを怖がらせないでよ」

「あ、ああ」

「甲斐先生、若輩者が奥様の担当でご心配をおかけします。岸教授とは十分密に連絡を取りながら治療に当たらせて頂きますので、いろいろとご不満のことがございましたら何卒ご教示のほどよろしくお願いいたします」


 屋島は丁寧に挨拶すると、一礼した。


「眞杉先生、行きましょう」


 甲斐は怪訝な顔で星来に視線を送り続けている。ドアを閉めてようやく逃れることができた。


「ふう」

「美晴さん、いい人よね。赤ちゃんのトラブルが分かると、ピリピリして周りに不安や不快な感情をぶつける人もいるんだけど」

「甲斐先生、怖い……」

「そうね、どちらかというと旦那さんの甲斐先生の方がピリピリしているわね。まあ、あの先生はいつもちょっと神経質で皮肉屋だから――あっ、これは心臓血管外科専攻の同級生からの情報だけど」


 それだけではない気がした。

 星来が美晴を執刀することは、どれだけ知られているのだろう。産婦人科の中でも教授の岸他数名しか知らされていないようだ。たった数歳上の専攻医でしかない屋島も当然知らない。

 この前さんざんな問題を起こして研修を中止した心臓血管外科の甲斐にまでその情報が伝わっているとは思えない。甲斐はさっき自分の姿を見て初めて、今回の計画に感づいたのではないだろうか。


「未來さん、お母さんの勇気って、すごいですね」

「でも、自分でも言っていたけれど、本当は色々な不安や悩みがあるんだと思う。もちろん勉強は大事だけど、あなたたち研修医は知識がない分、患者さんに寄り添ってあげることを覚えてね」


 屋島は優しく笑った。


「は、はい」


 でも、それだけじゃダメなんだ。

 あの優しく膨らんだ丸いお腹の中に、自分が操る機械の手が入っていく。

 想像すると急に怖くなってきた。


「さ、とりあえずこの後は詰所ナースステーションでカルテのまとめをしてみて。後で私がチェックするから」

「未來さんは?」

「私は他の患者さんのところに行かなくちゃ」


 未來と別れ、詰所に行くと看護師たちが忙しそうに仕事をしている。

 隅っこに一台だけ端末ノートパソコンが空いていたので、外来カルテを読みながら電子カルテのテンプレート入力作業を始めた。美晴が病院を初診したときまでさかのぼりながらデータをまとめていく。

 研修医は看護師よりもずっと立場が弱いので、邪魔にならないようにするのが鉄則だ。病棟の向こう側から麗美の笑い声が聞こえるような気がするが、あんなのは例外中の例外である。


「すみません……」


 詰所の空気が変わった。

 星来が端末から顔を上げて振り返ると、気まずい顔をした甲斐が詰所の入り口に立っている。


「どうかしましたか?」


 他科とはいえ准教授なので、看護師たちの対応も丁寧だ。


「あそこの研修医—―眞杉先生に用事があるんだが、ちょっと借りて行っていいかね」


 甲斐の猫背を見ながら、星来は病棟の隅にあるカンファレンスルームについていった。

 甲斐は後ろ手にドアを閉めると、椅子に座るよう促した。


「うちの嫁を岸教授が直接執刀するって聞いたから、まさかとは思ったが……こういうことかよ」

「は……は、何のことでしょう」

「とぼけるなよ。お前が執刀医だと? 」

「……岸先生にそうするように言われたので……」

「くそっ……本当にそうなのか。先天性心疾患だったら俺が自分で何とかしてやるのに……」


 甲斐は悔しそうに拳を握り締めた。


「あの……私、できるだけのこと、頑張ります……」


 甲斐の顔が怖くて見られない。顔を伏せたまま星来は答えた。自分の声が震えていて、尻すぼみに小さくなっているのが分かる。


「 ふざけるな。俺達が執刀医になるまでに、どれだけ上にヘコヘコ頭を下げて研鑽を積んだと思ってるんだ! お前みたいなポッと出の、自分で自分の責任も負えないやつに何ができるんだ。お前のメスは――軽いんだよ!」


 甲斐が勢い良く立ち上がったので、椅子がひっくり返って倒れた。

 その音に叩かれたような気がして星来の体は震えた。


「すいません……こちらに星来ちゃん……眞杉先生はいますか?」


 ドアを開けて覗いてきたのは屋島だった。


「ああ、ああ……ちょっと眞杉先生に話を聞いていたんだ」


 甲斐は居心地悪そうにそのままいそいそと部屋を出て行った。


「星来ちゃん……顔色が真っ青よ。大丈夫?」

「は……はい」


 屋島の優しい声がする。

 それでも星来はうなだれたまま、顔を上げることができなかった。

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