第3話 マスター・スレイブ

「いけないっ」


 こんなに大きな声が出るなんて。星来は自分でも驚いていた。

 さっきまで手術の様子を映し出していたモニタは真っ赤で何も見えない。

 破裂した心臓の壁から猛烈な勢いで血液が噴出している。


「吸引! 吸引!」

「心タンポナーデになるっ! 開胸準備だ!」

「輸血を追加で持って来い! 血液センターにも追加オーダーしてくれ!」


 手術室の中があわただしく動き始めた。麻酔科医がバタバタと手を動かし、看護師が走り回る。

 血圧が急速に下がっていた。

 心電図モニタのアラームがけたたましく鳴っている。

 ロボットアームが患者のもろくなっていた心臓の壁を突き破ってしまったのだ。

 猛烈な勢いで心嚢—―心臓を包む膜の中で出血が始まっている。血液が充満すれば心臓は収縮できない。即座に心停止—―死に直結する。

 小林が干井准教授に走り寄る。

 干井は胸を押さえてうずくまり、床に倒れたままだ。何か心臓の発作を起こしたらしいことは研修医の星来が見ても分かった。


「干井先生! 先生!」

「いかん、こちらも十二誘導急げ! それとルート確保だっ」

「救急部と麻酔科に緊急招集!」

涌井わくい教授は!?」

「学会出張中です!」


 教授不在のため干井が心臓血管外科の最高責任者なのである。小林の顔は真っ青だ。

 麻酔科医が怒鳴る。


「小林先生、甲斐かい先生を呼んできてください!!」

「甲斐先生は隣の手術中で……!」

「急いで手を下ろしてもらってください!」

「本来ガレノスには多重に安全システムが備わっている。内臓損傷が発生しそうな場合には動きを停止するはずなんですよ」

「原因究明は後だ! 早く開胸に切り替えてください!」

「しかし、しかし!」


 小林の手は震えていた。


「もともとこの人は心予備能が低かった……開胸手術を避けて安全だからロボットを」

「言っている場合じゃない!」


 患者の顔が星来の脳裏に浮かんだ。

 今朝回診した時、麗美と二人で担当させてもらう挨拶をしたのだ。

 気のいいお爺さんで、星来のことを孫の様だと言っていたのを思い出す。


 この人、死んでしまう……。


 頭から血の気が引いて、体と心が乖離してしまうような錯覚を覚えた。

 膝が震える。

 だが、妙に背中と頭が熱い。


「セイラっ!」


 麗美の声がした。

 気づけば麗美は干井のそばに座って静脈確保を始めていた。普段は能天気でいい加減な性格に見えるが、実はここ一番の度胸と行動力がある。

 助教の小林は立ちすくんでおろおろしているので、こう見るとどちらが研修医かわからない。


「私も……」


 採血か何かできることはないか。


 ――とにかく麗美を手伝わなきゃ。


 そう思って震える足を動かしたとき、麗美が叫んだ。


「違うっ! セイラっ! セイラは、セイラしかできないことをやれっ!」


 背中を電撃が走った。


「知ってる! あんたならできるでしょっ!」


 弾ける様に走っていた。

 干井の体を飛び越え、小林を突き飛ばして星来はサージョンコンソールにとりついた。

 干井が窮屈そうに座っていた椅子が清良には大きい。

 操縦桿—―マスターコントローラをつかみ、双眼の接眼部—―ステレオビューワを覗き込んだ。

 手術の帽子が邪魔だった。帽子をむしり取って赤みがかったショートヘアを掻き上げた。

 電子音がした。

 ヘッドイン。手術者の頭部を認識すると、ガレノスシステムは作動する。

 サンダルを放り脱ぎ、フットスイッチパネルに素足で触れる。

 学生時代に一度触ったし、基本動作は見れば覚えられた。


「おい、お前っ!」


 あまりに予想外の光景に小林がぽかんと口を開けた。

 専門医の資格どころか研修も終えていない医者のひよっこ――研修医が最高難度の手術を行う機械に手を突っ込んでいる。

 緑のスクラブこそ着ているが、星来の見た目はほとんど少女である。


「馬鹿野郎、こんな時に遊んでいる場合じゃないんだぞっ!」

「いけっ!! セイラ!」


 干井の静脈点滴ラインを確保し、さらに動脈血採血をしながら麗美が怒鳴る。

 視界は血液で真っ赤で何も見えない。出血した血液の吸引が行われているが全く追いついていないのだ。

 だが、すべての構造物の場所と配置が頭の中にあった。

 どこに心臓の壁があって、どこに血管があるか。

 心嚢しんのうの中の奥行。縦郭じゅうかくの広さ。

 赤一色のモニタの中に、白い升目のラインで描かれているように見える。

 コンソールを動かした。

 指先の動きは五分の一に縮小される。スケールさえ知っていれば、あとは手元のコントロールだけだ。

 ガレノスシステムには力感や触覚がないのだが、星来には鉗子の先に物体が触れているのが指先に伝わるように感じる。


 ――これなら難しくない。動かせる!


 糸のついた縫合針が心臓に触れると思った瞬間、それを微妙に調整した。

 針を引き抜き、縫合糸で壊れた壁に糸をかけた。

 二つのアーム―—鉗子で次々と結紮けっさつし、連続縫合で壁を修復していく。

 吹き出す血液の根元が見え始め、それが見る見るうちに小さくなった。

 ミシンで塗ったような美しい縫い目が次々に出現する。

 星来が操る二つの鉗子に一切の無駄な動きはない。

 まっすぐ素早く目的のものに到達しては、すさまじい速さで動いていく。


「行きます!」


 フットスイッチを踏む。

 凝固モードに切り替えたモノポーラーで止血する。

 視野が見えてきた。

 騒がしかった手術室が急激に静かになってきた気がする。

 極度に集中すると音が聞こえなくなるが、それとは違う静けさが戻ってきたのを肌で感じる。


 ついでに――「あれも!」


 動脈がぶらりと天井からぶら下がっている。

 星来の操る鉗子は一度の動きで正確にとらえた。

 心臓の壁が拍動しているが、振動していても関係ない。

 手の震えは機械が手振れ防止機能で補正してくれるからだ。

 直径1.5ミリから2ミリ。

 血管吻合は三点の連続縫合だ。まず三か所を縫い、その間を先ほどと同じ連続した縫合でふさいでいく。

 十分あれば縫える、そう思った。

 鉗子はロボットの手なので、人間の手と違って百八十度回転できる。

 動脈硬化のせいで血管の壁が少しだけ硬い。

 それは視覚でそう感じるだけというが――指先にコントローラーの抵抗を感じながら星来は動かした。

 モニタに映し出される鉗子の動きはほとんど工業機械の物に近かった。や遊び、無駄が全くない。


「これはこう…こう!」


 星来は悟った。

 一昨日見た動画や干井の手術はのだ。動きに無駄が多すぎる。

 なぜ、裏にあるあの血管の場所がわからないのか。なぜ鉗子の先が揺らめくように物を探るのか。

 ムズムズする。

 理解できない。ただそこにあるものを、こうすればいいのに。


「こんなふうに!」


 すさまじい速さ――星来にとって速さで鉗子の先が動くと、正確に0.2ミリ幅で血管と血管が縫い合わされる。まるで元からそうなっていたかのように動脈バイパスが完成していく。


「通った!」


 動脈を挟んでいたクランプを外すと縫合した部分が膨らみ、心臓の壁に新鮮な血液が送り込まれ始めた。縫合部から血液の漏れはない。

 力強い拍動が見える。

 あとは……心筋シートっていうのを縫合するんだったか。

 星来は大きなため息をついて手を止めた。


「何だこれはっ! 一体これはどういうことだ!?」


 星来はゆっくり振り向いた。

 心臓血管外科のもう一人の准教授、甲斐が顔を真っ赤に染めて立っていた。

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