第26話 分かった、もういい!

 一人になったオレが辿り着いた場所は、崖の切っ先だった。


「マジか……」


 さすがに足がすくむ。ここは十数メートルほどの崖で、下は波が激しく岩壁にぶつかっているのが見えた。もし足を滑らせたら、ひとたまりもない。


 風も強いし、煽られたら一巻の終わりだろう。


「ようやく、二人きりになれましたね」


 振り向くと予想通り……恵がいた。


 相変わらず雨に濡れた服が肌にはりつき、手には包丁をしっかり握りしめている。


 けれど顔だけは、まるで凪いだ海のように穏やかだ。


 こういう場面でこそ笑みを浮かべられる、その神経が怖すぎる。


「悠人君、そろそろわたしだけを見てくれますか?」


 柔らかな口調に似合わない、ぎらりとした刃の存在感。


 包丁の先端がオレの胸元へ向けられ、オレは反射的に足を一歩引いてしまう。


 足元の砂利が落ちて、崖下へパラパラと音を立てて消えていった。


「恵……やめろ。今からでも遅くない、全員でやり直せばいいじゃないか。まだ傷害事件ってほどでもないし……いや、普通にアウトなことばかりだけど、それでもまだ間に合うって……!」


 恵は、首を傾げるだけだった。


「やり直すってどういう意味です? 全員が好き? まだそんなこと言うんですか? あなたは……本当に懲りないんですね」


「オ、オレは……」


 食い下がりたいけれど、包丁が少しずつ近づいてくるせいで……身が縮こまる。


 もはや、逃げられるはずもない。恵が容赦なく一歩一歩迫ってくる。


「ねえ悠人君、答えてください。今ここで、わたしだけを選んでください。そうじゃないと、ほんとにわたし……何をしちゃうか分からないんです」


「脅迫する気か? だけど、それでオレがお前のことだけを選んでも……そんなの意味がないだろ……!」


 必死の言葉もむなしく、恵は笑みを深める。


「意味がない? 何を言っているんです? 悠人君の幼馴染みは、わたしだけ。だからわたしだけを選んでいれば十分ですよね?」


 恵とオレの出会いが一番早い……それは親からも聞いている。しかも生まれた病院も同じだったって。


 そもそも親同士が親友とのことで、だから家も隣同士を買ったとか。そうしてオレは、物心つく前から……つまりは赤ん坊のころから、兄妹のように育てられていた。


 その後、幼稚園に入って他の面子と知り合ったが……いずれにしても、そんな幼児のころなんて、オレには記憶がないんだ。


 でも恵は、その一点だけに執着している。


 雨がますます強まり、目を開けているのもつらくなってきた。オレは、袖で顔を拭きながら言った。


「分かった。確かにお前が最初の幼馴染みだ。けど、それは……だからって他の連中を切り捨てる理由にはならない。オレだってみんなのことが……好きで、大切なんだ……!」


「なら……仕方ないですね」


 ヒュッ、と風を切る音。


 恵が包丁を振り抜いている。


 まるで……これからオレを切り裂こうとでも言わんばかりに……!


「選ばないなら刺す。それだけのことです。あなたを殺して、わたしも死にます」


「ば、馬鹿なこと言うなよ!?」


 ほ、本気なのか!?


 なんだかんだと他の面子には手を出さなかったから、安心していたが……


 ヤバイ。あの目はマジだ!


 どうすればいい? 一か八か取り押さえるか?


 いや、でも包丁を振り回す相手では……いくら女子だからって分が悪すぎだ。そもそも恵は、下手したらオレより運動神経がいいし……凶器により腕力が塞がれている以上、確実とは言えない。


 オレが逡巡しているうちに、恵がゆっくり刃を上げる。


 くそ……さすがにもう限界だ。もうこうなったら──


「……や、やめてーっ!!」


 ──悲鳴のような声がした。


 はっとして視線を向けると、向こうから、奈々海と莉音、しおり、さらにエリナが続々と姿を見せた!


「みんな!?」


 あいつらの様子は見るも無残だ。


 奈々海は髪がボサボサで、莉音は泣きはらした顔。しおりは泥だらけだし、エリナは至る所の衣服が破れていた。


 みんな、無理して駆けつけてくれたのか……それにオレは、ちょっと感動するが……


 しかし全員が揃ったところで、いったいどうしたら……


「あら……皆さん、よく来ましたね」


 恵が振り返ると、奈々海たちは顔を蒼白にしながら答える。


「あ、当たり前じゃん……悠人をこんなところで失うわけにはいかない……!」


「そうだよ! わたしがお兄ちゃんを守るんだから!」


「悠人さんが……死んじゃうなんて、絶対に嫌です……!」


「そうよ! 好き勝手するのもいい加減にしなさいよ……!?」


 みんな息が上がり、ふらつきながらも一歩ずつ前に進む。


 崖沿いという危険な場所だというのに、恵に立ち向かおうとする姿はすごい迫力だ。


 だが恵は笑顔のままで包丁を握り直す。その瞳からは冷えきったものが感じられた。


「ふふ……わたしがあなた達を傷つける気がなかったと知って、高をくくっているのですか? でも考え方が浅いですね。それに……悠人君を守る? バカげてます。悠人君を傷つけているのは、あなたたちなんですよ」


 もうダメだ。誰が何を言っても、恵は聞く耳を持たないだろう。


 五対一なら恵を取り押さえられるだろうが、そのうち誰かが刺されてしまっては元も子もない……!


 だからオレは、嵐に負けない声ではっきりと言った。


「分かった、もういい!」


 一瞬、全員が息をのむ。


 ボロボロの幼馴染みたちと、包丁を片手に迫る恵。


 そのどちらをも傷つけずに済む道なんて……もう存在しないのだろう。


 だからオレは、覚悟を決めた。

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