私はアナタが死んでも泣かない

千園参

本編

 私、苑原夢乃そのはらゆめのが彼と出会ったのは高校生の時のことだった。

 自分で言うのも気恥ずかしいのだが、学級委員長を務めさせてもらえる程度には私は真面目な学生だった。トレードマークの眼鏡も相まって、あだ名もよくある「委員長」なんて付けられていたのかもしれない。

 私の人生において特記するようなやりたいことがあるわけではなかったけれど、かといって頑張らなければいざという時が来た時、成績が振るわなければ選ぶ権利すら与えられない現代社会であるが故に、私は勉強も常に学年一位であり続けた。

 ただ何のための努力なのかとため息を吐きたくなる。

 特に強くそう思うタイミングがある。

 それは家に帰った時だ。

 家に帰ると親たちは私をいないものだとして扱う。つまりはそこにいてはならないわけで、身体を交わらせる母親と見るからにガラの悪い彼氏に私の存在が気付かれてしまうと決まって私は暴力を振るわれた。性的な暴行でないことがせめてもの救いだろうか。

 そんなわけで、こんなわけで、私も馬鹿ではないので母親とその彼氏の愛の巣に帰る頻度を私は下げていった。

 結論から言うとアルバイトを始めたのだ。

 何をしたいわけでもない私だったが、何をするにも付き纏ってくるお金を稼ぐことにした。

 そこに難儀だという気持ちは一切なく、むしろ家に帰らずにお金が貯まるという私にはメリットしかない。

 問題は何のアルバイトをするかというところであるが、ここに来てやりたいことがないことが裏目に出るとも思わなかったけれど、それなら給料が高い方がのちのち良いのではとキャバクラを選択した。

 別に自身の容姿に自信があったわけではないけれど、お金がいいからという単純だが、しっかりとしたわかりやすい理由のもと、私は年齢を偽って働き始めた。



 キャバクラというだけあってキャバ嬢の人たちは煌びやかで艶やかで、その人たちが灯りそのもののようにお客様を照らし上げていた。

 真面目で通ってきた私には到底真似することのできない境地であった。

 私は美人というわけでもないため、化粧したとて綺麗になれるはずもなく、そんなはずもなく、私は水や氷の準備などの裏方業務に回ることになった。

 ただ少しだけ裏方に回れたことにホッとしたような安堵のような気持ちもあったのだ。

 キャバ嬢はやはりその見た目や容姿故にか触ろうとする酔っぱらい客も少なくない。あえて触らせて人気を得ている人もいるようだが、私はどこの誰とも知らない酔っぱらいのおじ様に身体を触られるなんてことは正直御免である。

 裏方に回れば直接客に関わることはなくなるため、そういった被害も避けられることに私は安心していたのだ。

 バイトを始めてからしばらくの月日が流れたある日のこと、いつものように数人の男性客が来店してきた。

「たまには俺らに付き合えよ!」

 そう言う男の顔には見覚えがあった。というよりも、彼は常連客の喜瀬という名前の男だ。よくこの店に来店してはお気に入りであるシオリ先輩を指名する。

「またアンタか」

 シオリ先輩が出迎える。

「会いたかったぜ、シオリちゃーん」

「不二子ちゃーんみたいに言うな」

 喜瀬は陽気なお客様で盛り上げ上手という風に分類される男なのだろう。シオリ先輩も面倒くさそうな態度を見せているものの、まんざらでもない顔を見ると内心では嬉しいのだろう。これは私の女としての感である。

 しかし、私はこの喜瀬のことがどうにも好きになれなかった。それは彼がヤクザだからというのも理由の一つに違いない。ヤクザに私自身なにかをされたというわけではないのだけれど、それでもヤクザというだけでも悪い印象は付いてしまうのではないだろうか。

「あら? 今日は珍しいお友達を連れているのね」

 シオリ先輩が喜瀬が肩を組んでいる隣の男に目を向けた。

「ああ、コイツ? うちの舎弟頭」

「舎弟頭さんってことは凄く偉い人なんじゃないの?」

「そうなんだよ! コイツ俺と同じで27なのにもう出世してやんの。噂では時期若頭なんて言われてるしよ」

「やめろ、僕たちは胸を張れる仕事じゃないんだ。あまり大きな声で騒ぐな」

 喜瀬に肩を組まれているとても落ち着いた雰囲気のヤクザなんて知らなければどこも私たちカタギの人間と相違ない見た目をした男性がようやく口を開いた。

「うるせぇっ、同い年のくせに説教垂れてんじゃねぇよ。お前、俺よりも貰ったんだし、立場も上なんだから奢れよな」

「やっぱりそうなるのか」

「ったりめぇだ! おい、お前ら今日は湊が奢ってくれるからじゃんじゃん飲めよ!」

 喜瀬がそう言うと喜瀬と湊と呼ばれた男性の後ろからついてきていた若衆が「うおおお! やったぜぇええ!」と、盛大な盛り上がりを見せた。



 席につき、早速接待が始まる。

「お兄さん、今日初めてだよね?」

 尋ねつつ湊におしぼりを手渡すカオリ先輩。

「ああ、コイツこう見えて奥手なんだよ。可愛がってやってくれ」

 喜瀬が横槍を入れるように湊の代わりに答える。

「ちょっとアンタに聞いてないんだけど」

「おー、こわいこわい。てか、カオリちゃん俺に当たりキツくない?」

「そんなことないですよ」

「そうか? どう思う、シオリ?」

「そうね、カオリはそういう子だから」

「答えになってねぇっての」

 湊といういつもとは違うお客様が来店したものの、雰囲気がいつもと変わることもなく、いつも通り喜瀬の独壇場になっていた。

 私も迷惑をかけると何をされるかわかったものではないので、迷惑にならないようにと必死に裏方業務をこなしていく。

 私が新しい氷をテーブルに置き、空き容器を回収していると、突然腕を捕まれる。

「!?」

 私はまさかそんなことになるとは思っていなかったので、驚いて声が漏れ出てしまった。

「お客様、どうかされましたか?」

 シオリ先輩が驚いた私を気遣い、それまでの楽しそうだった雰囲気から一転して真面目な声を出した。

 シオリ先輩が目を向けた先、私の手を掴んでいたのは湊だった。

 湊は私の腕を離すことなく、私の顔をじっと見る。

「君……どこかで」

 湊はそう呟くと我に返ったのか周りの空気を察して、慌てて私の腕を離した。

「ごめん」

 湊は私に謝った。

「いえ、大丈夫です」

 私もそう返す。

 すると、それを見ていたシオリ先輩が何やらよからぬことを考えていることが目に見えた顔で私を見ると、

「そうだ、夢乃ちゃん。彼、夢乃ちゃんのことが気になるみたいだし、夢乃ちゃんが湊さんを接待してあげたら?」

 と、胸の前でナイスアイデアと言わんばかりに手を軽く合わせた。

「え!? 私ですか!?」

「そうそう」

「でも、私、裏方ですし、それに先輩たちみたいなドレスもないし」

「ドレスとかはいいから、お酒を作ってお話しすればいいのよ。ほら、あそこに空きのテーブルがあるから」

 シオリ先輩が空いたテーブル席を指差す。

「でも、他にお客様が来たら」

「大丈夫、来たら退けばいいんだから」

 私の言葉を遮り、強引に私と湊を空いたテーブルに二人きりにした。

「さて、お邪魔虫たちはこっちで続けるわよ!」

 喜瀬に茶化されるかとも思ったが、喜瀬は他の先輩やシオリ先輩に夢中でそれどころではなかったようだ。




 重苦しい空気が私たちのテーブルを包む。

 沈黙を破ったのは湊からだった。

「さっきはごめん。少し気になったことがあったから」

「い、いえ、私も突然のことで驚いただけなんで、心配しないでください」

「そっか、ごめん。せっかくだから、何か奢らせて」

「いえいえ、悪いですよ」

「いいんだ、僕がそうしたいんだから」

 押し切られた私は烏龍茶を注文した。

 無言で彼はウイスキーのロックグラスを上げ、乾杯なのだと私は自分のグラスをからのグラスにカチンと当てた。

「君、未成年だよね」

 お酒を軽く口に含んでそう言う。

 図星を突かれた私は烏龍茶を詰まらせ、むせ返る。

「どうしてそう思うんですか?」

「僕もこの業界が長くなってしまってね、未成年と関わることもそれなりにあるんだ。だから、一目見ればわかるさ」

「あの!」

 お店には言わないでくださいという言葉を口から出そうとしたその時、

「大丈夫、店には黙っておくから」

 彼の方からその言葉を出してくれた。

「ど、どうして?」

「どうしてって、君はそうしたいんじゃないの?」

「いえ、そうなんですが、黙っておくメリットもないのかなって」

「まぁメリットもないけど、君がここで真面目に働いているならデメリットもないだろう? それにきっと年齢を偽ってまで働くのには誰しも意味がある。ましてや、君のように明らかな顔をしているとね。ただ、大人として言わせてもらうと、お酒は二十歳になってからだ」

 ヤクザのセリフとは思えないあまりにも真面目なセリフに拍子抜けした私は思わず笑いがこぼれてしまった。

「何笑ってんだよ?」

「ごめんなさい、でも、おかしくて」

「何が?」

「喜瀬さんもその道の方だから、きっと貴方もそうですよね。なのに、あまりにも真面目だからつい」

 私の言葉を聞いた湊はやれやれと言ったように呆れた声で言う。

「よく言われるよ。お前はヤクザっぽくないって」

「でも、なんかヤクザって貴方みたいな真面目な人もいるんだって少し嬉しい気がします」

「嬉しい?」

「嬉しいっていうのもなんか違う気がしますが、今はそんな言葉しか思い付きませんから」

「そうか」

 彼もほころんだ顔を見せた。

「差し支えなければ、どうしてここで働いているのか聞かせてもらってもいいかな?」

「まぁそんなに入り組んだ話でもないんですけど」

「構わないさ」

 私は母親と彼氏のこと、そしてやりたいことが特になくお金を稼ぐために働いていること、家に帰りづらいことを伝えた。

「家とは帰るところだ」

「え?」

「家は人が安心して帰ることのできる唯一の場所なんだと僕は思っている。その家に帰ることができないのは問題であり、解決しなければならない問題なんだ」

「は、はあ」

「僕がその彼氏とやらを懲らしめてやる」

「い、いえ! そんな! ダメです!」

「なぜ断る?」

「これは私個人の問題です。知り合って間もない人に解決してもらうようなことではありません」

「借りを作るのが嫌と思っているのなら無用な心配だ」

「どうしてですか?」

「僕も貸し借りは嫌いでね。ただの親切心だ」

「そっちの方がもっと信用できないです」

「それもそうだな。なら、やはり貸し借りにするか」

「………その条件はなんですか?」

「そうだな、報酬は後で考えることにしよう。まずはその男を撃退するのが先決だ」

「はい、あの、そういえばまだ名前を聞いてなかったですよね」

「僕は蒼嶋湊あおしまみなと

「私は苑原夢乃です」

 そんな話をする私たちに喜瀬とシオリ先輩は微笑ましい目線をこちらに送るのだった。




 それから後日、私は学校終わりに湊と待ち合わせた。

「お待たせしました」

「いや、待っていないよ。僕も今来たところだ」

 シラフの彼に会うのは初めてであったけれど、彼はお酒が入っていようといまいと何も変わらないようであった。

「それじゃあ、案内してくれ君の家に」

「はい」

 私の人生において彼氏ができたことなどなく、男性を自分の家に招き入れる日が来るとは夢にも思っていなかった。

「ここです。ここが私の家です」

「そうか」

 何の変哲もないアパートの一室、その玄関の前で私はゾクリと恐怖心が走り抜けた。

 震える私を見て彼は、

「大丈夫? まぁ無理もないか相手は何度も君に暴力を振るった男だからな。それも今日で終わりにしよう。家は誰もが安心して帰れる場所だから。君の家を守ろう」

「はい」

 私は玄関の鍵を開け、部屋に入った。

「ただいま」

 いつもならそんなことは言わない。

 言えば存在に気付かれてしまう、気付かれてしまうということは暴力を振るわれるということだから。いつもの私なら言わない。

 けれど、今回は違った私は自らの存在をアピールし誘き出すためにわざと大きな声で、聞こえる声で、帰宅を知らせる。

「しばらく消えたと思ってたがよ、のこのこ姿見せやがって! ぶっ殺してやるよ!!」

 怒号が部屋の奥から聞こえてきた。

 私の罠にまんまと引っかかった彼氏が玄関まで鬼のような形相で駆け寄ってきた。

 すると、湊は庇うようにして私の前に立った。

「君か? 彼氏とかっていうのは?」

「だ、誰だお前」

 湊を見て母の彼氏は怯んだ様子で後退りする。

 流石にこの展開は予想できなかったようだ。私が彼の立場でも予想できないだろう。まさかヤクザの、それも幹部を連れてくるなんて。少し同情する。

「僕は彼女の、夢乃さんの友人です」

「友人? 友人が何のようだ? まさか夢乃とやろうってか? へへっ、悪いがやるならよそでやりな」

「違う。君は根本的な勘違いをしている。用事があるのは貴方だ」

「はあ? 友人が俺に何のようだ」

「夢乃さんが明らかに様子がおかしいもので、訳を尋ねたら貴方が家に居座って帰るに帰れないと困っていたんだ。これは友人として放っては置けない。友人なら当然だろ?」

「それはそうだ」

 母の彼氏が謎に湊の言葉に賛同する。

 前から馬鹿だとは思っていたが本当に馬鹿であった。

「わかってもらえたか。なら、早急にこの家から立ち去れ」

「なんでそうなんだよ!」

 やはりこの男は馬鹿である。

 母はどうしてこのような男に惹かれたのだろうか。この男のどこに惚れる要素があったのだろうか。いささか疑問である。

「迷惑だから消えろと言っているんだ」

「ざけんな、ここは俺の家だ」

「ふざけているのは貴方だ。籍も入っていないのだろう。なら、貴方はただの部外者だ。部外者が我が物顔で娘を虐げていいわけがないだろう」

「さっきから人を馬鹿にしたようなこと言いやがって。殺してやる」

 彼氏はズボンのポケットからナイフを取り出した。

「何やってのよ?」

 彼氏がナイフを取り出し湊に襲い掛かろうかというところで私の母が姿を現した。

 そしてナイフを目にすると、母はわかりやすく取り乱した。

「ちょっと何やってんのよ!?」

「うるせぇ! コイツらを殺す! ぶっ殺してやる!」

 彼氏がナイフを湊に向けて一直線に突撃すると、湊は手元を正確に蹴りナイフを弾き飛ばす。呆気に取られた彼氏はその場で固まると湊の二撃目の蹴りが顔面に炸裂した。

 私は彼氏を蹴る瞬間の湊の顔を見逃さなかった。私は彼がとても優しいヤクザとは名ばかりでそれらとは縁遠い人だと思っていた。けれど、その考えは間違いだった気付く。

 彼氏を倒した時の彼の顔はヤクザのそれだった。

 一言で言い表すならば、怖かったのだ。想像していた何倍も彼は怖かった。


 湊は倒れた彼の髪の毛を容赦なく鷲掴みにして無理矢理に顔を自分に向けさせる。

「これに懲りたなら二度とこの家に近づくな。わかったか?」

 彼氏は何も答えない。

「わかったのか?」

 髪の毛を掴む手にさらに力が込められるのが見てわかった。

「わ、わかりました」

 そう言う彼氏の声には明らかな恐怖が滲み出ている。

 その返答を聞いて満足したのか、彼は髪の毛を掴む手を離し、逃げる彼氏の背中を目で追った。

 そうして彼氏がいなくなったその空間で母が呆然と湊を見つめている。

「貴女が夢乃さんの母親ですね。貴女には二つ選択肢があります。ここに残って心を入れ替えて娘を育てるか。逃げ出した彼を追いかけるかのどちらかです。どうされますか?」

「夢乃」

 母は私の名前を細々とした声で呼んだ。

「なに、母さん」

 私は自分でも驚くほど、とても落ち着いた穏やかな声が出た。

「アンタはね、もう立派な大人よ。立派過ぎて腹が立つくらいにね。いつからかしらね、死んだ夫にそっくりになったわね。真面目で真面目過ぎて死んだクソつまらないアンタの父親にそっっくり。だから、私はもうアンタの面倒は見ない。私は彼を追うわ。このアパートはくれてやるから、好きに生きるといいわ」

 母は言い捨てて彼氏を追いかけた。

 最後は彼氏に心を奪われていたけれども、それでもここまで育ててくれた母親だった人に最後まで罵られたことに私はショックが隠し切れなかった。

 どんどんと小さくなる母の背中を眺めながら、私は涙を堪え切れなくなってきていた。

 そうすると、湊が何も語ることなく私を抱きしめてくれた。

「蒼嶋さん……?」

「どんな親でも親は親だ。そんな親に捨てられた傷は計り知れない。何も言わなくていい」

「はい………」

 いつぶりだっただろうか。

 誰かに聞こえるほどの大きな声で泣いたのは---




 母と彼氏がいなくなり、家は取り返したけれど、その代わりに家の中身がなくなった。

 そんな後日のこと。

 以前、彼氏を追い出す時に交換していた湊の連絡先に私は連絡を入れて彼を呼び出した。

「何か困ったことでもあった?」

「いえ、そうじゃなくて。この間の御礼がしたくて」

「御礼? そんなこと気にしなくていいのに」

「いえ、そういうわけにはいきません。何か御礼をさせてください」

 そうは言ったものの、彼に対して私ができることなどあまりに限られているようにも思えた。

「そうだね。そういえば、前にお願いを聞いてもらう約束もしてたよね? 御礼はそれと一緒にしてしまおうか」

「はい」

 何を言われるのかと私の鼓動が痛いくらいに速くなっていく。

「幸せになってくれ」

「へ?」

「僕が君に望むことは一つだ。君のような真っ直ぐな女性に幸せになってもらいたい」

「あの、それお願いって言うんですか?」

「お願いだよ。君は夢がないと言っていたけれど、いつか夢も見つかるかもしれない。夢を見つけて夢を叶えて幸せになるんだ。そしてできることなら僕たちのような何の役にも立てていないヤクザと二度と関わることのない人生を生きてくれ」

 そこまで言うと彼は優しく私の頭を撫でる。

 そしてゆっくりと振り返って歩き出した。その背中はもう二度と会えないと語っていた。

「待って」

 その背中を私は呼び止める。

「私は貴方が何の役にも立てていないなんて思いません。だって、私を助けてくれたじゃないですか。それに! 私、これからどうやって生きていくんですか? あんな母親ですから身寄りもないですし、私こう見えて天涯孤独なんです。だから、私を助けてくれるなら最後まで助けてください」

 彼の背中の歩みが止まる。

 彼が静かにこちらに振り返ると、何も語ることなく私の目の前、手を伸ばせば触れられるそんな距離まで近付く。

「君が成人するまでの間」

「え?」

「君が成人するまでの間、僕が面倒を見る。成人するまで。成人するまで」

 成人するまでという言葉を私、いや、まるで自分に言い聞かせているように何度も呟いた。




 それからも私のわがままによって、湊の関係は私が高校二年生に進級した今もなお続いていくことになった。

 関係が続いていると言っても、一緒に住んでいるわけでもなけば、交際しているわけでもない。ただ、一つ変わったことがあるとするならば、私がバイトを辞めたということだろう。取るに足らない話ではあるけれど、私としては大事なことなので話しておく。

 私はこれまで通り、夜はバイトをして生計を立てていこうと思っていたのだが、湊は夜の仕事をしていると何かと危険が付いて回るから危なっかしいから辞めてほしいと言われ、辞めることにした。

 バイトを辞める代わりに湊が金銭的な面倒を見てくれることになった。高校生には莫大過ぎるお金が毎月決まった日に振り込まれる。それでも湊は足りなければ言えば出すからと言っていたが、足り過ぎると断ることにした。

 湊は過保護な兄のようで、私に兄がいたとするならこんな感じだったのかなと妄想してしまう。

 湊は一人になった私に何かと気を遣ってくれているようで、週末になると私の住むアパートに顔を出してくれるようになった。

 そして今日は湊が来る日だ。

「やあ、今日はケーキを買ってきたよ。君が好きなモンブランケーキも」

 湊がケーキの入れられた白い箱を私に見せる。

「ありがとう!」

「ケーキ食べて、受験勉強頑張って」

「ねえ、湊」

「?」

「私さ、湊に貰ったばかりで何も返せていない」

「そんなことはないさ」

「そんなことあるよ」

「僕が君に何かをしてあげたいと思うのは、別に何かを返してもらいたいからじゃない。僕がそうしてあげたいだけなのさ。親が子供を思うようにね」

「私は湊にとって子供なの?」

「え?」

 私は何を口走っているのだろうか。

 困惑する湊の顔を見て我に返る。

 ただ我に返っても、それでも、私が湊のことを好きだと思う気持ちは変わらなかった。

 最初、母親とその彼氏がいなくなってからの湊への気持ちは本当に親代わりくらいに思っていた。優しくて、心強くて、頼もしくて、安心できる、親のような存在だった。

 いつからだっただろうか、私が彼を面倒を見てくれている親のような存在から、一人の異性として彼を想うようになったのは。

 私よりも遥か彼方の大人の世界、背伸びしてキャバクラで働いていた私はほんの少しだけれどわかっている。彼は私なんて入る余地のない大人の世界で生きている人だということは周りの強面なヤクザたちがヘコヘコと頭を下げているところを見ればすぐにわかる。

 彼に見合う人はきっと私じゃないとわかっていても、それでも、諦め切れない恋心を私は学んでしまったのだ。

「私は湊が好きだよ。だから、成人した後も一緒にいたい」

 湊は俯き床に視線を向けたまま、重々しい言葉で語り始めた。

「僕はね、君が成人を迎えるくらいまでしか生きられないんだ。不治の病らしくてね。見た目では何ともないけれど、徐々に進行しているらしい」

「え?」

「だから、君が成人するくらいまでしか一緒にいてあげることができないんだ。僕も君のことをいつしか一人の女の子として意識していた。けれど、関係を断たなくては君を悲しませてしまう。だから、ダメなんだ」

「それでも、私の気持ちはそれくらいじゃ変わらない。湊に時間がないのなら学校だって今すぐにでも辞めて、一秒でも長く湊と一緒にいたい。湊と一緒にいる時間を大切にしたい」

「そうか、夢乃はそんなに僕のことを思ってくれていたんだね」

 湊は照れ臭そうに笑った。

「なら、一つ約束してほしいことがあるんだ」

「なに?」

「僕が死んでも、君は泣かないでくれ」

「なんで、そんなこと」

「これが約束できないなら、僕たちの関係はこれまでだ」

「わかった」

「ありがとう。そ、それじゃあ、その、」

 湊の言葉が詰まる。

「不束者ですが、よろしくお願い致します」

 私はそんな湊に言葉を返した。




 そんなこんなで私と湊は交際することになり、ヤクザの人たちにもバレることになったけれど、意外にも歓迎してくれた。

 湊が幹部だったこともあり、若衆たちからはあねさんと呼ばれるようになったのは少し気恥ずかしい。

 交際してみたのだけれど、何か特別なことがあるわけではなく、これまで通りで安心したような少し物足りないようなというところである。

 そうしてまた一年が経ち、その時が来てしまった。

 湊は段々と衰弱していき、最期はベッドに寝たきりの状態となっていた。

 学校終わりにお見舞いに行くと決まった組員の人たちに出くわす。

「姉さん……」

「湊はどうですか?」

「それが、もう今日あたりが山のようです」

「そうですか」

「姉さん……俺……」

「大丈夫、私は大丈夫だから。少し二人きりにさせて?」

「わかりました」

 病室に入ると、湊が苦しそうに横たわっている。

「来たよ」

「夢乃か。ごめんな、普通の彼氏じゃ、、なくて」

「急にどうしたの改まって」

「いや、なんだろうね。謝っておこうと思って」

「最期みたいだからやめてよ。怖くなるじゃない」

「最期だから、言わなきゃならないんだ。この世界に入ってから、自分の命の終わりを覚悟することは多くなった。だから、わかるんだ。もう最期だなって」

「やめてってば!」

 私はヒステリックになった。

「夢乃、聞いてくれ」

「聞きたくない!」

「夢乃!」

 私の名前を叫ぶと湊は激しく咳き込んだ。

「湊!」

「大丈夫」

 そう言って息を整えると、再び言葉を続けた。

「ヤクザの僕と付き合った君はきっと普通の女の子と違ったのかもしれない。まわりには君を姉さんと呼ぶ奴らもいて、叶えてあげられなかったこともあったはずだ。ごめん。でも、僕は君と一緒にいられて楽しかったし、幸せだったんだ。君はどう思ってるかな?」

 彼の手を握ると、一年前までは力強かった彼の手も今では弱々しく今にも折れてしまいそうだった。

「私も、幸せだったよ?」

 最期の時が近づいている。感覚でわかった。だから、目頭が熱くなり油断したら今にも涙が溢れてしまう。それでも彼との約束を守りたいと必死で堪えて笑顔を作る。

「やっぱり、君は笑顔が一番だね」

「そうでしょう? 私はアナタが死んでも泣かないから安心して?」

「ありがとう」

 そう言うと彼はゆっくりと息を引き取った。

 握られていた湊の手の力が失われていく。

 安らかに眠る彼の顔を見ている私の顔は笑っているのか、泣いているのか、もうわからない。

 ただ、病院の設備不良なのか天井からの雨漏りが激しかった。

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