俺には何もない
きーくん
第1話 森に立つ
目を開けた瞬間、光が痛かった。湿った土の匂いが鼻を刺す。頭上には木々が広がり、風が葉を揺らしていた。視界の端に、自分の手が見える。視線を下に向ける。――裸だった。
体を起こそうとして、息が浅くなる。全身が重く、汗が滲む。ここがどこかも分からない。ただ、森だということだけは確かだった。
記憶を探る。仕事を終えて、いつものように帰宅した。そこまでは覚えている。だが、その先が途切れていた。どうしてここにいるのか、理由はまったく分からない。夢かと疑ったが、得られる情報のすべてがそれを否定した。現実の感触が、肌に、土に、風にあった。
それでも、まだ自分がどこか異常な場所にいるとは思わなかった。事故にでも遭ったのかもしれない。救助を求めれば、誰かが来る。そう信じて、歩き出した。
太陽の向きを頼りに進むが、方向感覚はすぐに狂う。時間の感覚も曖昧になり、喉が焼けつくように渇いていく。足元のぬかるみに小さな水たまりがあった。泥が混じり、虫が浮いている。唇が勝手に動きそうになる。飲めば助かるかもしれない。だが、腹を壊せば終わりだ――理屈では分かっていても、理性が保てなくなりそうだった。
次に目に入ったのは、木の根元を這う虫だった。飢えた脳が『食べられるかもしれない』と囁く。手を伸ばしかけて、止まる。できない。噛み砕く自分の姿を想像した瞬間、吐き気が込み上げた。
それでも喉の渇きは癒えず、胃は空っぽのままだった。
二日目。体のだるさが抜けず、胸の奥が重くなる。喉の奥がひゅうひゅうと鳴り始めた。息を吸うたびに胸が締めつけられる。――喘息。薬も吸入器もない。焦りを抑え、できるだけゆっくりと呼吸を整えた。焦れば、それだけ発作が強くなる。
足が限界を迎えた。腹は鳴らず、ただ空洞のように軽い。死ぬ、かもしれない――そんな言葉が、ようやく現実味を帯びた。
三日目。仰向けに横たわる。胸が鳴る。ひゅう、ひゅうと浅い呼吸。酸素が足りない。視界が滲み、頭の中が霞んでいく。また朝日を拝めるか怪しいが、少し休もうと目を閉じる。
「だ、大丈夫ですか?」
少女の声が聞こえた気がしたが、幻か現実か確かめる前に、意識は闇に落ちた。
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