死神は臨終の人間を助けない
木沢 真流
彼はぽっちゃりしていた
人は誰しも一つや二つ、他人に言えないエピソードがあるものである。私が今から話すエピソードも、こういった機会がなければ墓場まで持って行くことになるだろう思い出だ。
今思い出しても悔やまれる、大学生の頃。一人の子どもの純粋な、大事な心を殺してしまった苦い思い出である。
大学生の頃、私は冬休みのバイトとして子どもにスキーを教えていた。教える、といっても大したものではなく、雪遊びプラスアルファくらいのスキーだった。その日もいつもどおり、私はスキーレッスンの指導者として参加していた。
だがその時の私はまだ気づいていなかった。たとえ私にとっては何気ない一日であっても、参加している子どもにとっては、貴重な一日かもしれない。ひょっとしたら何ヶ月も前からずっと楽しみにしていて、今後もスキーをもっとやりたいと思えるのかどうかを左右するかもしれない大事な日になるかもしれない、ということを。
スキーレッスンには親御さんの元へ返す時間を厳守しなければならない、という鉄の約束があった。午前の場合、それは十二時で、これだけは絶対に守らなければならない、と先輩や責任者から強く言われていた。
レッスンの指導は二人一組で行われた。二人の大学生で数名の小学生を一度に教えるのだ。
二人で行うには理由がある。
もしレッスン中についていけない子がいたり、トイレに行きたくなったりする子がいたら、二手に別れることができるようにするためだった。
その日も私は先輩とペアになり、通常通りのレッスンを行っていた。レッスンが終盤になったころ、イレギュラーな事態が起きた。メンバーの一人、たしか「かいじゅう」のようなあだ名だったため、ここではかいじゅう君と呼ぶことにする。彼は小学校3年生くらいで、ぽっちゃりしていた。スキーでぽっちゃりしているのは非常に不都合だった。何故なら一度転んでしまうとなかなか起き上がれないからだ。
かいじゅう君が転び、それを引き起こすのも一苦労だった。約束の十二時という時間が迫っていたため、先輩が判断を下した。
「私が残りの子を連れて降りるので、あなたはかいじゅう君と降りて来てください」
私は一人でその子に全力で向き合えるので、その案に賛成した。去り際に先輩は釘を刺した。
「十二時は遅れないようにお願いします」
私は、はい、と返事をして、先輩と数人の子どもが滑り去って行くのを見届けた。
「じゃあいこうか」
私はかいじゅう君を必死に起こし、滑り始めた。
しかしかいじゅう君の下山は難渋した。かいじゅう君がたびたび転び続けたのだ。転ぶたびに私は必死になって起こし、休む間もなくスタートをさせた。
しかしそれでも彼は何度も転んだ、ほとんど進んでいないのも関わらず転ぶことがあった。
私は時計を見た。リミットの十二時は刻々と近づいているにもかかわらず、相変わらずゴールは見えてこない。私は徐々に焦り始めた。気づけば私の口調は荒くなっていた。
「ほら、時間がないよ。起きて、行こう」
私はその時、彼がどんな表情をしていたのか覚えていない。それくらい必死だったのだ。目の前にあるのは大きな体が何回も転び、私の守らなければならないリミットの邪魔をしている、私の目にはそんな風に映っていたのかもしれない。
何度も起こし、必死になって、やっとのことで下山した。時計を見ると、十二時ぎりぎりだった。
私はほっと胸を撫で下ろして、昼食に向かった。
しかし午後になって事件が起きた。
かいじゅう君のいる部屋の前に先輩と午前中のメンバーが集まっていたのだ。
「どうしたんですか?」
私が聞くと、先輩が答えた。
「かいじゅう君が、午後のスキー行きたくないって」
はっとして、私もその部屋の前に駆けつけた。すると部屋からかいじゅう君が顔だけをだしているのが見えた。その時わたしはおそらく初めて彼の顔をしっかりと見た。どこか疲弊していて、少し怯えているようにも見えた。とても何か楽しいことをしている時の顔には見えなかった。
理由はすぐわかった。
あれだけ厳しい言葉で、山を降りさせられたのだ、それも本人は悪くない。彼もきっと必死だったのだろう、にも関わらず急がされ、なんども転び、嫌な思いをしたのだ。もうやりたくない、と思って当然だろう。彼はきっと午前中もそんな顔をしていたはずだった。しかしそれがわからないほどあの時の私は焦っていた。
私は理由は分かっていたがそれは誰にも言えなかった。先輩や周りから怒られるのが怖かったのだ。
私の頭は真っ白になった。なんてことをしてしまったのだろう、ひょっとしたら、この子は一生スキーをやらなくなってしまうかもしれない。せっかくの大事な機会を私が壊してしまったのかもしれない。
十二時がなんだ、遅れて怒られたら、「すんません」とただ頭を下げればいいだけの話じゃないか。私は自分への叱責を恐れるあまり、一人の子の大事な瞬間を奪ってしまったのではないか、そう考えると悔やんでも悔やまれない気持ちに包まれた。
その後、かいじゅう君と接する機会は今のいままで一度もない。
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