フロム・ネームレス・プラネット

プロジェクト・ハルカ

第1話「嘘つきの誕生日」

「私には名前がありません」



 入学式が終わってから数時間――誕生して間もない一年三組を黙らせたのは、ある少女の一言だった。

 こんなに完璧な沈黙を僕は聴いた事が無かった。

 声の気配が死んだ世界に、教室時計が奏でる微かな秒針の音だけが漂っている。


 多分誰一人、彼女が何を言っているのか理解できなかったのだと思う。

 唯一人、僕だけを除いて。


「名前が無いって……どういう事?」

 ほとんど呼吸に近いささやき声で、僕の前に座る男女二人組が沈黙を破った。

「……あ、冗談って事? だとしたらめちゃくちゃつまんねえ」


 入学式後レクリエーション、ありふれた自己紹介、のはずだった。

 今や誰もがそれぞれのローディングマークをいだいたまま、一人起立する少女を見つめている。

 教壇上の学級担任でさえ、呆然とした表情で彼女を見つめていた。


「本当に名前が無いんです。その出席簿に載ってる名前、偽名です」

 担任の手元を見つめながら少女は言葉を続けた。

「私には生まれつき名前が無くて、住民票に登録されてるのもパーソナルIDだけ。名前のところは空欄です」

 詳細が明らかになるに連れ、教室は静かな違和感で満ちていく。

「中学の時は偽名使ってたので。そのデータが高校に引き継がれたんだと思います。まあでも……高校ではID使って生活するので、その偽名も要らないです」


 僕は思った。

 少女には本当に名前が無いんだ。

 そして知った。



 にも名前の無い人間がいるんだ。



「呼ぶ時はなんか、まあ……適当に呼んでください。呼ばなくてもいいですけど」

 僕が周りとは別の意味で衝撃を受ける中、少女は捨て台詞一つ残して自己紹介を終えた。

 彼女はあくびを一つ口ずさみながら着席し、机の上でうつ伏せになる。その仕草がこのクラスの行方を決めた。

 地を這うようなさざめきが嫌悪と嘲笑を抱きかかえ、傷だらけの木目タイルを滑っていく。


「ねえ、冗談で言ってるわけじゃないっぽいよ……」

「生まれてから今まで名前付けなかったとか……そんな事あんの?」

「ID使うって言っても先生達が名前呼ぶ時はどーすんだよ」

「やっぱ高校にもなると凄え奴いるな。ヤバすぎる」

「気持ち悪い。なんでああいう事するの? どんな事情にしても空気読めな過ぎ」

「静かにしな!!!」


 担任の若い女教師は教壇から身を乗り出し、精一杯の怒鳴り声をあげたが――それすらも喧噪に紛れた一つの騒音に過ぎなかった。

 『名前の無い少女』への軽蔑と排斥は、当然『隠された名前の無い少年』である僕にも深く突き刺さる。


「”カンナ”も無いって事でしょ?」

 僕の近くに座る女子生徒が、正視したくなかった現実を言語化した。


 カンナというのはこの国特有の入れ墨だ。

 この国では産まれてきた子どもの身体に名付けた名前を彫る。

「見た感じ……彫って無いよね。名前無いから彫れないんだ」

 男子生徒のひそひそと喋る声が、僕の心臓を強く握りしめた。


 カンナは身体に特別な塗料と書体で名前を刻み、名前をイメージしたフレームで彫り囲んだものだ。

 名前を大切にする独自文化として自国民はカンナを誇っているし、やたらと芸術性の高いタトゥーは外国人観光客にも受けが良い。

 だが極端に目立つその彫り物は、名前が事の証明にもなれば――名前が事の証明にもなる。


 僕は無意識に露出した肌を隠そうと、身を縮めていた。

 拍動が加速する心臓、浅くなっていく呼吸――定まらない視線がふと名前の無い少女を捉えた。

 彼女は未だ何事も無かったかのように、机上でスリープモードのまま。

 長い黒髪に隠された表情と拍動と呼吸が――僕には気がかりだった。


 教室が静かになったのは全ての批判が出尽くし、「こんな奴相手にしても仕方が無い」というありふれた結論へと帰結した後だった。


 女教師は「入学初日にこんなに騒がしいのは小学生以下である」という内容の話を不快指数五十倍程度に演出して怒鳴りつけたが「名前が無い少女」については一切触れなかった。

 賢明な判断だと思う。

 きっと何を言ったとしても火に油を注ぐだけだし、どんな展開になったとしても予定通りの放課後を迎えられる訳が無い。


 女教師はその後、何事も無かったかのように自己紹介を再開させた。

 そして不確かな呼吸を整える暇も無く、僕の番がやってくる。

 最低限の冷静さを取り戻して心の中で呟いた。

 大丈夫、カンナが見当たらないと言われても――服に隠れて見えないだけだと言えば良い。

 僕は心臓の音を抑えるように、ゆっくりと立ち上がった。


 この空間で一人だけの起立者になると、世界がよく見える。

 不貞腐れた表情で口をつぐんだクラスメイト達、苛立ちと困惑を引きずったままスチール製の事務机に頬杖をつく女教師。

 そしていつしか机から起き上がり、退屈そうな表情でクラスの全てを眺めている名前の無い少女。


 こんな場所であの子は喋っていたのか。


 僕は言葉を紡ぐためにこの空間の空気を吸い込む。

 ナイフの味がする空気だった。


くらしなかいです。よろしくお願いします」

 中学生の頃につくった偽名を読み上げた。

 心の中で、かつて勇気が占めていたはずの領域が醜くきしんでいる。

 協調性、というダサい言い訳が頭の中にしがみ付いていたけれど――本当は分かっていた。


 僕は羨ましかったのだ。

 あんなにはっきりと本当の自分を曝け出した、名前の無い少女の事が。




 帰りの会を終えると同時に、名前の無い少女は職員室へと連行された。

 担任に言葉無く手招きされ、廊下へと導かれる名前の無い少女。

 彼女の足取りを眺めていたその時、背後から声をかけられた。

「ねえねえ倉科君」

 小柄な女の子が僕の後ろに立っていた。

「この後、クラスみんなでカラオケ行くみたいなんだけど来る?」

 彼女の背後を見ると、みんなが携帯端末片手に友達登録を始めている。


「あー、ごめん。この後、ちょっと用事があって……」

「そっかそっか。大丈夫よ! この後、どっか行くの?」

 声をかけてくれた心優しい女の子に頭を下げ、僕は立ち上がった。

「うん」

 僕は相づちを打って、配布物や新品の教科書で破裂しそうなボストンバッグを肩に担ぐ。


「ちょっと職員室にね」

 僕は名前の無い少女が出て行ったスライドドアに向かって歩き始めた。

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