第8話 転生人語 後編
蝶の羽ばたきから起きた微風が竜巻へと至るには、いったいどれだけの時間が必要なのか。
次元を越えて本を送る。起こしている事象だけを鑑みれば、なかなか
制限をかけているのは神の意志、世界の意志――そんな大それたものではなく、おそらく私が抱いている怖れが原因なのだろう。
目的のためなら何でもする。そんな誓いをたてながらも、神ならざる人の身で未来を変えるという行為に、私は今でも強い恐怖を感じている。
ゆえに本には、宝くじの番号も、値が爆上がりする銘柄も、大きな地震も、殺人事件や芸能人のスキャンダルさえ書き込むことが出来ない。
もちろん紙には書けるのだが、書いたところで送れないのだ。
私の本は、予言書にはなり得ない。
未来を変えることを目的としながら、未来に及ぼす影響を最小限に留めねばならない。
もどかしいことだ。
知ることすべてを書き記せれば、地位、金、人脈、あらゆる力を与えることが出来るのに。
手探りで禁則事項を避けながら書きあげた本を読み返すたびに、お前の思いはそんなものかと自責の念にかられてしまう。
けれど、おそらくそれでいいのだ。
怖れを感じないほど
あの子の死も、
そうなれば、私は力を失うだろう。
未来に対する諦めと過去への執着こそが、私の
「愚かで未熟で我が
開きなおりの言葉に合わせて、私は陣に右手をかざした。腕に巻かれた鎖がじゃらりと地面に落ちて、同時に焼くような痛みを感じる。
繋がれ――
痛みに耐えつつ力を注ぐ、部屋の空気が震え始めた。こちらからでは開けられない鉄の扉が小刻みに揺れて、備え付けられた差し入れ口からカチカチと音が聞こえてきた。
「……成功か」
転送陣に光が満ち、黒い穴――ワームホールが姿を現す。
形状はやはりいつもと同じ、薄めの本がかろうじて入るサイズの
ここから、本以外も送れれば――
黒よりも暗い四角い穴を見つめながら、幾度目かわからない愚痴を心のなかで零す。
実のところ、なぜ本のみに限定されるのか、その理由はいまだはっきりしていない。
文字を刻んだ同じ重さの木や石では駄目だった。
原料である植物もそのままでは送れない。
過度に装飾した本は、たとえ中身が同じであっても穴の手前で拒絶された。
転送が可能なものと駄目なもの、その基準はどこにあるのか。
一つ考えられるのは、転送場所が同じ時間の同じ場所、あの古書店のワゴン内に限られているということだ。
あの場所に違和感なく収まるもの。それが条件になっているのではないか。
そして違和感の判断基準は、たぶんおそらく私の持つ偏見というか常識というか、固定観念なのだろう。
私基準で考える、ボロい本屋のワゴンに見合う、クソみたいな中身の本。
つまりそれが私の持つただ唯一の武器なのだ。
「……さて、どうなるか」
初期に直接的なアプローチをくり返し、
今回を含むこのパターンは「あの子がそもそも生まれてこない、無価値な未来を創ってみよう」がコンセプトだ。
前提が求める結果と矛盾するため、取り組む私の熱量も低く本の中身も少々雑だ。
これまでの試みでは、結婚、出産のデメリットを
ちなみに前回の転送では、過去の私は本を買わずにスルーした。それもまあ、よくあることだ。
ただ、この初期の彼との関係に着目したケースから一つ見えてきたことがある。
それは、彼の未来が非常に変わりやすいということだ。
あの子と私の状況は、最終的には同じところに収束する。
しかし彼の場合は始まりにして王道の、事故であの子と一緒に死ぬ、から始まって、大怪我をするが命は助かる。あの子よりも先に死ぬ。私の死後も生きている。早々に離婚するので接点がない等、人生が多岐にわたって枝分かれしている。
私の観測方法は、回数も時期もランダムな夢を使った夢観測だ。
眠りについたもう一人の私と
ただ、その性質ゆえに情報が私まわりの狭い範囲に偏ってしまう。
もちろん時事ネタくらいは押さえられるし、観測を重ねることで情報の補完も可能なのだが、この方法では、広い範囲の詳細を把握するのが難しい。
本を一冊投げたところで世界は大きく変わらない。
これが私の持論だった。しかし変化は思うより大きく起きていたのかもしれない。
当然彼は改変の起点近くにいるわけだから、影響を強く受けるだろうが、それにしても私やあの子と比較して変化の幅が大きすぎる。
それとも、私たち
あの子はある種の特異点だとしても、私の人生は彼に比べて一本道すぎる。
その答えは、このパターンを詰めていけば自ずと見えてくるだろう。
今回の本「転生のすゝめ」は、あの子の存在を消せるか否かが主題となっている。
ただその裏に、あの子の死は必然なのか、を確かめるという目的がある。
いない者は殺せない。つまりその死は確定した未来ではない、というわけだ。
しかしそうなれば、世界はいったい何のため、あの子の死にこだわったのか。
世界の分岐を抑制するには、やはり弱いと思うのだが。
戦争、天変地異、歴史に名を残すような人物の誕生や死、そうしたものを軸にするなら――
やはり、そういうことなのか。
確かに
嫌な推測にため息が漏れる。私はその脱力感に従って、黒い穴に本を落とした。
「……クソ、私はそっちにいないだろうが」
何にせよ、この検証は始まりでしかない。
ただこれが上手くいくようなら、あの子を救うための有力な仮説が一つ生まれることになる。
それでも――
「あまり期待はしないでおこう」
成し遂げる前に
私は都合の良い妄想を振り払い、同期の確率をあげるため、汚れたベッドに横たわった。
夢を見ていた。
もう一人の私の夢を。
夢のなかの私は懸命に我が子を救おうとしていた。他の一切を
もしあの夢が彼女の現実なのだとしたら、その願いはそう遠くないうちに叶うだろう。
世界が選んだ特異点、それはおそらく彼女自身だ。転生者の誕生――その極めて希少な事例が、世界の乖離を抑えるための結合点になったのだ。
そして転生を引き起こすためのトリガーが、愛する娘の死、というわけだ。
彼女にとっては我が子こそが、最も強い
転生は、改変不能な確定した未来だ。ならばそのトリガーを別の何かにすり替えればいい。
これから彼女はあらゆる手段を使って、自分にとっての娘の価値を下げようとするだろう。我が子を転生の条件から外すために。
子を愛する彼女からすれば、それはまさしく修羅の道だ。
いい気味だ、と思う。
せいぜい大好きな娘との関係が
まあ、それでも彼女はやり遂げるだろうが――
「大した奴だよ、お前は……」
呟く自分の声で目を覚ました。どうやら意識が少々混濁しているようだ。
私は確か、車のなかで眠っていた――はずだ。
ああそうだ、間違いない。
私は逃げて、今ここにいるのだ。
記憶にこびりついて離れないあの光景を振り払おうと、私は再びもう一人の自分について考えを巡らせる。
娘を条件から外した瞬間、彼女は何らかの方法でその世界の自分に成り替わるつもりだ。
別の転生条件が発動してから彼女が転生するまでの
人格、価値観、過ごした人生そのものが違うわけだから、断絶はそこで修復され転生自体がキャンセルされる。
彼女はそれで、世界を出し抜けるはずだ。
あとには娘との関係修復という難題が残ることになるが、何にせよ、これで彼女の物語は終わる。彼女だけのハッピーエンドで。
「しかし、転生は世界によって定められた事象……」
だとすれば、そこからまた未来は大きくわかれるのではないか。この強すぎる干渉によって。
転生しなかった私の世界とは別に、転生した私の世界も生まれる――か。
もう一人の私から、さらに枝分かれした私。彼女が転生する要因となるのはなんだろう。
我が子の死以上の絶望。娘がいてなお、世界との断絶を感じるほどの――
「想像も出来ないな」
けれどおそらく彼女もまた、その絶望を受け入れようとはしないだろう。
「まるでメビウスの輪だ……」
転生先でのほほんと暮らす、そんな私は果たしているのか。
そんなことを考えながら、私はポケットのなかから、くしゃしゃになった封筒を取り出した。
本来なら家に置いておくべきものだが、反射的にポケットに入れてしまったのだ
「遺書……か」
封筒にその文字はない。
しかし状況から考えて、それで間違いないだろう。
今日、母が死んだ。
リビングで首を吊っていた。
見つけたのは私だ。
何かすえた臭いがして、リビングを覗いてみると、そこで母が揺れていた。
しばらくはそこから動けなかった。
「なぜ、今……」
そんな言葉が口から漏れた。あと少し、あと少しで私は消えていたのに。
それが母にとって救いになるかはわからない。
ただ、私はそれで逃げることができた。こんなものを見ずにも済んだ。
なぜあと二年耐えてくれなかったのだ。本気でそう考える自分の身勝手さに苦笑が漏れた。おかげで、悲しみを理由に泣かずにすんだ。
父には連絡していない。警察も救急車も呼んでいない。
警察に事情を聞かれれば、ダイブが出来なくなると思ったからだ。
そうして私はそこから逃げた。
これ以上堕ちることはないだろう、そんな風に思っていたが、どうやら私にはまだまだ底があったらしい。
あまりの愚かしさに少しだけ冷静になることが出来た。
落ち着いた私は、封筒のしわを手で伸ばして、慎重に封を開いた。
せめて、恨みごとでも書いていてくれれば――
そんな思いで便箋を取り出し、膝のうえでそっと開いた。
そこには、書き殴った様子もない綺麗な文字が並んでいた。
母は書道の段持ち、綺麗な文字を書く人だ。
母から字を習った私も、ちょっとしたコンクールで賞をとるくらいには綺麗な字を書く。
師匠と弟子であるわけだから、母と私の文字は似ていた。
そんな私によく似た文字で、遺書にはこう書かれていた。
ごめんなさい、転生のすゝめ、あれを書いたのは私です。
転生には成功した。しかしどうやら私は呪われているらしい 辛酸ペロリーヌ @perorine
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