遠回り中の僕と君

ぽんず

⓵ おわりとはじまり

 机の上には参考書が散乱している。名神大学の過去問や数学の青チャート、古文単語帳が開いたままであった。受験から約二週間経ったが一度も片付ける気にはならなかった。片付けは嫌いではないのだが、片付けてしまうと受験勉強が終わるような気持ちがしたからだ。多くの人にとって、それは歓迎することだろう。しかし、安田修平にとっては違う。彼には進学が約束された大学が無いのだ。つまり、あと一時間後に発表される名神大学の結果次第で彼は無職となる。職も無い、ただの無職だ。ニートと言われるかもしれない。

 ただ、それは自分で選んだ道だ。不合格ならもう一度受験勉強をすると。親とも何度も話し合った。幸い、浪人を認めてくれたことで安堵の気持ちが浮かんだが、迷惑をかけることになるのは間違いない。だから何としても、自分のため、家族のためにも合格したいと思っている。時計を見ると針はまだ十三時になってくれない。人生で一番長い一時間だと感じる。試験時間の一時間はあっという間だったのに。

 正直に言って、合格確率は三割もないだろう。名神大学は名古屋にある国公立大学で一次試験である共通テストはボーダーがどの学部も八十%ほど必要になる。彼が受ける文学部は七十八%、点数でいうと約七〇〇点だ。彼は七十六%、六八四点とそこまで乖離はない。問題は二次試験である。彼が受けた文学部は英語と国語が四百点、数学と社会が二百点ずつの合計一二〇〇点の配点となっている。彼は英語と国語、社会(社会は世界史、日本史、地理から一科目選択で、日本史受験をしている。)が得意だが、数学はかなり苦手だ。だから数学以外の科目でアドバンテージを取るつもりだった。しかし、国語、特に古文がかなり難しかった。『平中物語』という恋愛を扱う作品だったのだが、和歌の解釈ができなかった。他にも日本史は手が付けれない問題があるなど不安要素がかなり残った。手ごたえでいうと目標の得点率六割、七二〇点近く取れている感覚が無いのだ。

 終わったことは仕方がないと思ってもどこか頭の片隅に後悔がよぎる。こんなに気にするなんてまるで恋だなと思う。ただこの恋ももう終わりが近づいてきている。あと数十分で告白の返事が聞けるのだから。生まれてこの方、告白などしたこともないのにそんなことを思う自分が馬鹿らしくて嫌気が差した。人の心が読み取れる装置がこの世に無くて、心底安心だ。

 それからスマホで動画を見ていたが、一向に頭に入らない。何度も画面をスワイプして時間を確認してしまっている。もうどうにもならないので、スマホをベットに置いて、部屋から出てそのまま家をでて散歩をした。三月とはいえまだ寒さがあり、もう一枚何か羽織ってこればよかったと思うが止まっていられない。そのまま自宅から歩いて十分ほどかかる公園に向かっていった。

 部屋に戻り、ベットに座ってスマホで名神大学のホームページにアクセスする。すぐに「合格発表について」というリンクを見つかった。ずっと前から心臓がばくばくしている。

時間を確認すると、合格発表開始から二分経過していた。

「見るか…。」

 そう呟いてリンクをクリックした。想像とは違いスムーズに画面は進んだ。あとは自分の受験番号を入れれば、合否がわかる。

受験票を見ながら間違いがないように受験番号を入れていく。あとは合否照会というところをタップすれば結果が分かる。

 結果を見たいという気持ちと見たくないという気持ちがせめぎあっている。しかし、知らないわけにはいかない。これを知らなければ未来が決まらない。覚悟を決めて照会をタップする。

 


               不合格


 

 無機質に書かれたその三文字が重く心にのしかかる。やっぱりかと思っていても現実を突きつけられた。言いようもない気持ちが頭のてっぺんからつま先まで、全身に広がっていく。血ではなく、なにか不吉なものが血管を流れている、そう感じる程に暗いものが広がっていった。

ふと、親の顔が浮かんだ。さっき、家から帰ったあと母親から小さな声で「今日はお寿司だよ。」って言われたことを思い出す。期待を裏切ってしまった。自分ならできると思っていた。その自信が雪崩のように揺らいでいく。

また一年、いや一年を切っている。勉強しないと。正常に思考が回らない。落ちつけ、自分。深く深呼吸をする。しかし、驚くほど浅い呼吸だった。母親が部屋に来るまでの間、修平は上の空に本当に存在していた。


 あの不合格から二週間が経過した。この二週間は意外と忙しい期間だった。まだ、塾が始まるまで一週間ほどあるがこの調子だとすぐだろう。

彼は家族に不合格だったことを伝えて、父親が帰宅したあと、家族で話し合いを行った。といってももう一年大学受験の勉強をする、いわゆる浪人生になることは確定事項だったため、議題は塾をどうするかである。

 修平は高校生活で塾には入らず、勉強を続けていた。正確には塾の講習には参加していたわけだが、基本的には市販の参考書や学校の補修を活用していた。彼の家庭が決して裕福とはいえないまでも浪人できる状況に合ったのはそれが大きい。小学校から高校まで公立であることもそれを後押しした。

 実際、修平自身独学で問題なく勉強はできていた。周りにはすごい、と言われたが特別すごいとは彼自身考えていない。分からない箇所は友達や学校の先生に聞けば大抵解決できるし、市販の参考書も分かりやすくできている。むしろ、塾にも入り、市販の参考書も買って勉強しているの友人を見て、何冊問題集をやっているんだろうと思っていた。

 修平は当初、自宅浪人、塾に入らず家や図書館で勉強する浪人生になろうと考えていた。しかし、両親的には塾に入ってほしいと言われ、いくつか塾の説明会に行くことになった。彼が住む名古屋は塾が多く、特に名古屋駅には大手と言われる塾がひしめきあっていた。いくつかの説明会に参加するなかで、塾に入れば質問もできるし自習室も使えるメリットにひかれて塾に入ることにした。

そして、いくつか説明会に参加して田中塾に決めた。田中塾は塾業界最大手で、一番受験者の多い模試を作製している。彼がその塾を選んだのは講習で来たことがあったということや自習室の多さ、模試が無料で受けられること、そして何より名神大学の合格実績が他塾よりも高かったことである。

田中塾は本拠地を名古屋に置いているためか、名神大学の対策に力を入れている。特徴的な数学の傾向に合わせたカリキュラムや塾生限定の模擬試験などが受けられるというのは魅力的だった。パンフレットには、数年前に名神大学に合格した生徒の声が書かれており、「このカリキュラムだから合格できた。」「大学を熟知した講師による授業が楽しかった。」などと口当たりの良い言葉が並べられていた。いささか怪しいとも思ったが、合格者数はやはり他塾よりも多いため、説得力はある。この塾にしよう、そう決心した。

それからはあっという間だった。塾の入塾手続きを終えると、学力テストや入塾前ミーティングなどがあり何度か塾に足を運んだ。彼が在籍する名神大学コース(発展)は入るのに一定の偏差値が要求される。幸い彼は模試の成績がそのラインを超えていたため、コースに在籍するためのテストは免除された。しかし、全員が受験する必要のあるテストもあり、(彼が在籍するコースは授業で扱うテキストが固定だが、別コースだとこのテストの結果でテキストのレベルが決まるらしい)教室が満員になるほどの浪人生の多さに驚いた。

テスト自体は数学と英語でマーク式問題、難易度は平易であった。これなら勉強しなくてもよかったなと思うが、考えを改める。自分は浪人生、いわば勉強することが仕事なのだ。それなのに勉強しなくていいとは気が緩んでいる、そう自分を叱責した。

その数日後、開講前ミーティングが行われた。在籍クラスの担当チューターである初川さんという女性が今後のスケジュールや教材について教えてくれた。この塾は九〇分授業で、全てテキストの解説になるため、問題を解いてくる必要があることを繰り返し述べていた。眼鏡をかけて真面目そうな顔立ちだが、どこか凛とした声で話していたから修平の記憶にも深く刻まれ、当面は塾のテキストをメインに学習を進めることを決めた。

 他にも利用可能な自習室や講師控室など、塾に関することを説明されたあと解散となった。修平は黙々とテキストを鞄にしまっていた。シンと静まり返った教室だが少しだけ話し声が聞こえてくる。この教室には五十人ほど集まっていた。周りを見ても知り合いはいない。話している人たちは高校が一緒なのだろう。

帰り支度をして、スマホを見ると、塚本龍之介から「下で待ってるわ」というメッセージが来ていた。一読してから画面を閉じた。お手洗いに行き、出たタイミングで「おけ」と返信をした。

一階に着くと、出入り口付近に立っている龍之介を見つけた。背丈は高くないが、やけに大人びた顔立ちや雰囲気をしているからよく年上に見られがちだ。共に所属していた男子テニス部の帰試合後にラーメン屋を訪れた際に、学割を使おうとしたら一人だけ学生証を要求されたのは笑い話として定着している。

「ごめん、待たせた。」

「いや、全然大丈夫。」

二人はそのまま塾を出て、駐輪場とは反対の名古屋駅の方に歩いて行った。

「そういやさ、修平のコースは何なの?」

目的地に向けて歩く中で龍之介は軽く聞いてきた。二人は高校時代から仲が良く、龍之介も修平も文系だったが、受験の話はあまりしてこなかった。お互い、浪人していることを知ったのもグループラインでのやり取りがきっかけだ。

「俺は名神の発展。龍之介は?」

「おおすげえ、発展って入るの難しいっていうのに。流石だわ。俺は私立文系コース。行きたい大学の専門コースなかったから。」

 田中塾では名神大学をはじめとした、有名難関大学は専門のコースがある。しかし、それはごく一部で専門コースが無い場合は国公立コースに入るのがよい、と説明会で言われたことを思い出した。

 修平はどこ志望なの、と聞こうと思ったが辞めた。わざわざ志望校といって濁しているのだから隠したい思いがあるのだろうし。龍之介はテニス部のキャプテンで実力は部内トップだった。だが、勉強はお世辞にもできるとは言えず、赤点ぎりぎり回避を繰り返していた。「今回は補習なし!」と喜びながら部室に来る龍之介の姿を親の気分で見ていたのがもう一年前なのだと思うと、寂しくなった。高校を卒業してまだ一月も経っていない。にもかかわらず遠くの出来事に感じるのだから時間はせっかちだ。

 そのまま雑談しながら歩いていくと目的のファミレスが見えてきた。店の前には二人、知った顔が待っていた。その後、もう一人到着して五人でお店に入った。十一時と昼前だったこともあり、待つことなく入店できた。

 今日は受験お疲れ様会というわけで男子テニス部同級生、五人が集まった。修平と龍之介は浪人するが、他三人は進学する。二人は愛知県の私立大学に、一人は北陸の国立に進学が決定した。五人で集まれる日程を調整して慰労会をしようと龍之介が動いてくれた。感謝の意を伝えると、「部長だからね。」とさも当然のように答える。こういう男になりたいものだと思った。

「でもさあ、浪人とかすごいなまじ。おれもう一年勉強とか絶対に無理だわ~」

 会が始まり、すこしずつ場が温まってきたところを見て、唯一愛知県を離れる小山雅人がそう言った。場が温まったと思ったからこそ、この話題を持ってきたのだろうと修平は思った。これに返答したのは龍之介だった。

「まさか全落ちするとは思わなかったよ。もう嫌だもん勉強するの。塾とかまじ悲壮感漂ってるやつ多かったし。あ、でもめっっちゃ可愛い子いたわ。」

まじかよ、可愛い子いるのいいじゃんなど同調が起きる。

「まあ、ちょっとした悲壮感はあるよな。でも俺のクラスは覚悟ガンギマリの眼をした人多かったかも。」

「さすが頭いいクラスは違うね~。」

龍之介は肱で修平の肱をついてくる。おなじみのノリに安心感すらある。

「まあでも、修平は合格するやろ。実際、共テもよかったんだし。」

 地元に残る明石太郎が悪気もなく、さも当然のように言う。ふと大きな石が心にのしかかった。今日、絶対に言われると思っていて、絶対に言われたくない言葉だった。

 高校三年生、現役時代に成績がよかった。だから合格する。しかし、そういう訳ではない。むしろ修平のように成績が良かった人たちの重圧は半端じゃない。

「いや、プレッシャーかけるなよ~!」

 本心からの言葉だった。ごめんごめんなどと話ながら話題は後輩たちのことになっていった。しかし、修平は自分の立ち位置が改めて理解される。

 自分はこの受験マラソンで上位だ。現役時代に惜しくも入れなかった。ギリギリの

枠から漏れた存在は二週目では当然上位のはずだ。しかし、なぜか嬉しくなかった。


                 怖い


 勝てる相手に負けることほど、屈辱的なことはない。それは部活で身に染みて痛感していた。だからこそ、気を引き締めなくては。そう心に強い約束をする。

この会は十三時過ぎまで続き、次やるときはおまえらの合格祝いだな、先輩三人がおごってやるよ。そういって解散した。

修平にとって、テニス部のみんなは親友だった。クラスでも喋る人は多かったがプライベートで遊ぶのは彼らくらいだったし、卒業してから会ったのも彼らだけだ。そんな親友たちとの別れ。来年も会えたらとは思うが、修平は何となくこれが最後だろうなと感じた。中学を卒業する時にも同じような予感を察知して現実となったからだ。願わくばこれは杞憂でありますように。そんな淡い思いを持ちながら一人、塾の駐輪場に向かっていった。

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遠回り中の僕と君 ぽんず @ponnzuyarou

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