穢れた私は閉じ籠る

つぎはぎ

穢れた私は閉じ籠る

 できる人がいるのなら私の頭蓋骨をパックリと開き、是非その脳を見てやってほしい。

 煙草の吸殻が落ちている道路脇みたいな、最も中途半端な灰色がそこにはあるはずだから。


 そうして、その灰色をじっくりと、それが面倒ならスマホ片手に観察してほしい。

 きっと、一つの妙に太いシワが、とぐろを巻いているはずだから。


 脳のシワの数と頭の良さに関係性は無いと何処かで見た気がするが、仮にそうだとしても私の脳だけは例外ということにしておこう。ご都合解釈ついでにもう一つご都合解釈を重ねるが、私の世界だとシワ全体の構造と思考の道筋が結びついていることも付け加えておく。

 そもそも私の脳なのだから、どんな仕組みをしていようと他者がとやかく言う筋合いはないのだけれど。


 シワがとぐろを巻いている脳は、複雑に入り組んだように見える普遍的なそれよりもシンプルな模様をしている。そのため、形骸的側面のみで美醜を判断する場合、前者のほうがシンプルイズベストの観点から美しく感じる人も少なくないだろう。


 しかし、心身の全てを司り、思案にふけ、人によっては魂なるものが宿っていると考える脳が、とぐろを巻いていると想像したらどうだろうか。

 そんな単純な構造の脳が頭蓋骨に収められている人間が存在していて、そいつが街中を我が物顔で歩き回っているとしたらどうだろうか。


 ただ一つの太いシワが堂々巡りの様相を呈している脳。

 きっと、その醜悪さに社会は顔を顰めるに違いない。


 ──誤解されぬように添えておくが、これは決して障害者か否かという問題ではない。というよりも、私以外の生きとし生ける皆様方には何も関係ない話なのだ。これは私の脳だけの話、つまり私の幻想の話であり、戯言に過ぎないのである。それでも変に勘ぐってしまう人のために述べておくが、私は現時点ではまごうことなき健常者だ。障害者の診断を下されたことは一度もないし、医療機関に足を運び正式な検査を受けていないのにも拘わらず、障害者を自称するほど零落れてもいない──


 普遍的な脳を頭に思い浮かべ、シワに注目してほしい。それが難しいのなら、Googleの画像検索で「脳のシワ」と入力してほしい。繋がっている一つのようにも、絡み合う複数のようにも見えるそれは、複雑という他に形容しがたい模様をしていることがわかるだろう。


 醜い形だと、不快に思う人もいるかもしれないが、程度は違えど神秘性を感じずにはいられない何かが宿っていることに異を唱えるものは少ないと思う。


 私の脳と比べて、なんと信頼できる形だろうか。


 シワがとぐろを巻いた脳は、 一つの事柄を一つの視点のみで延々とこねくり回して、自家撞着に陥ってはそのうち思考することに飽きて、付け焼刃にも満たない結論をとぐろの奥に詰まらせることしかできない。

 それなのに、誰かの意見を耳に入れれば意図も容易く翻弄され、必死に揉んだ自らの思考と結論をぽいと捨てる。空いたとぐろの奥に何者かの思考を卑しく抱き込み、それを自分のものだと心の底から錯覚するのだ。


 複雑怪奇なシワを持つ脳は、一つの事柄に複数の視点を用いて検分を行う。様々な可能性を丁寧に吟味しつつも、結論を出すべき機を逃すことはなく、その場しのぎで思考を打ち切ることなどしないはずだ。

 ましてや、誰かの意見が耳に入るだけで翻弄されることなど決してない。他者の意見を真摯に受け止め、ゼロサム思考に陥らず受け入れるべき部分を探し出し、己を含めた様々な意見と照らし合わせながら最善を目指すことができる。


 無論、これは上限の話に過ぎない。どのような脳であれ、使い手によって個人差は存在する。

 複数が絡み入り組むシワの脳を持つものが、とぐろを巻いた脳のような惨状に陥ってしまうこともあるだろう。


 悲観する必要はない。

 手のひらに置いた豆腐のようにトマトを切り、潰れてしまったようなものだ。ただ真下に包丁を降ろすのではなく、刃を滑らせるイメージで斜め前方に包丁を捌けば、トマトが綺麗に切れることを教えてあげれば良い。

 包丁は様々な物を色々な形に切ることができる優れものだ。

 最初は上手にできなくても、包丁がそこにある限り経験はいくらでも積める。


 私の手に握られていたのは麺棒だった。

 皆が対象を様々な角度に転がしては刃を入れている隣で、私は全てを潰すことしかできない。

 ましてやトマトを切るなんて到底歯が立たない芸当で、皆が試行錯誤している中、試行錯誤するフリをしては結局潰す。


 私は皆が羨ましい。

 いや、妬ましい。


 私もそれが欲しかった。

 麺棒ではなく包丁を。

 とぐろではなく入り組みを。


 いや、違う。

 本当はしっかりとわかっているの。

 全ては私が悪いのだと。


 指をくわえて惨めに他者を見上げ、ありもしない不幸を喚き散らす私。

 穢らわしくてたまらない。


 真っ当に努力を積み上げて堅実に生きる皆様方を勝手に除き、勝手に僻んでいる私のなんて醜いことか。一切の努力をせずにひたすら怠け、とぐろを巻いた脳という妄想を言い訳に自分はできない人間なんだと開き直る。近くに包丁は置かれていたはずなのに、麵棒を握っては恵まれていないと嘆く。


 そうして、本当はこれら全てを知りながらも動かない自分を見限り、私はしょうがない人間なんですとどうしようもない正当化を施すのだ。


 生まれつき、脳はとぐろを巻いていなかった。

 遺伝のせいでも、環境のせいでもない。

 脳をとぐろ状に巻いたのは、自己満足の視野狭窄に溺れる自分自身だ。


 醜悪。

 醜悪。

 醜悪。


 私を見る私は私を諦め、それを見る私は私を諦め、更にそれを見る私も私を諦める。

 諦めて諦めて諦めて、碌に考えもせずに適当かつ確実に諦めては、のうのうと生を貪る。


 こんなにも醜くどうしようもない存在だというのに、私は自死を選ばない。

 私が自分勝手に死ねば、誠実に生きておられる皆様方に迷惑をかけてしまうからだ。


 私は私の穢れを知っているが故に、その穢れを外に出したことは一度としてない。

 今の自分にとって、それが唯一の美点だった。


 とぐろを巻いた短絡的な脳だからこそなのか、皆様方の暮らす平凡な日々が私には何よりも美しく思えて仕方がない。

 

 例えばそれは、


 電車の中で泣く赤子をあやす親、

 元気よく手を挙げて横断歩道を渡る小学生、

 自転車をこぎながら楽しげに話す中高生、

 駅前の広場で待ち合わせをする恋人たち、

 項垂れながらつり革を握る社会人、

 寝巻のままゴミを出す朝、

 手を繋ぎゆったりと歩く夕方の親子、

 深夜に犬の散歩をする人、

 レジ袋の有無を確認してくれる店員、

 絡んだ有線イヤホンを解く若者、

 にこやかに挨拶をしてくれる老人、

 眠れない夜に聞く音楽、

 何故かいつもよりむしゃくしゃしている同僚、

 昼なのに見える月、

 アスファルトを突き破る雑草、

 人間を意に介さない鳩、

 

 などなど。


 ささやかに染み入るような喜怒哀楽がなによりも愛おしく、皆様方の営みがいつまでも普遍的と見做される世界であってほしいと心の底から祈り、私の手で穢してはならぬと考えている。

 感動しても、苛立っても、悲しんでも、焦っても、自己嫌悪に陥っても、理不尽だと思っても、確固たる自分の考えがあったとしても、それを出すことは決してない。


 単純で一面的な思考しかできぬ脳が出力することに価値がないどころか、ひり出されるそれが有害であることを私は知っている。


 無駄に主語を拡大させて喚き、不要な対立を生み出してしまうかもしれない。

 キャッチーで刺激的な思想に踊らされて、他者に強要してしまうかもしれない。

 自家撞着の結果誰かを憎み、ふと八つ当たりをしてしまうかもしれない。

 悪意なく呟いただけの一言が、誰かを傷つけてしまうかもしれない。

 頓珍漢な解釈を披露し、理解力がないやつだと呆れられるかもしれない。

 誰かの思いやりに気がつかず踏み躙ってしまうかもしれない。

 誰かの努力を折ってしまうかもしれない。

 誰かを殺してしまうかもしれない。

 誰かに私を殺させてしまうかもしれない。


 どうしようもなく悍ましい穢れをとぐろの奥に詰め、在るがままに美しい世界を守る。

 いつか変わりゆくだろうけど、今この瞬間確かに莞爾とする普遍性を穢さぬように座る。


 自意識過剰だと人は思うだろう。

 誰も私など気にしておらず、そもそも誰も見ていない。

 世界は私に穢されるほど弱くないし、私に構うほど暇じゃない。

 世界は優しい無関心に開かれている。

 きっとそれが正解で、私が世界を穢せるなど、例の如くとぐろが詰まり思考が腐敗したための恥ずべき自惚れなのだろう

 それならそれでありがたい。

 しかし、万が一そうでなかったとき。私のせいで誰かの普遍に歪みが生じてしまい、それに気がついてしまったとき。

 私は私を肯定し、とことん世界を穢すだろう。

 風の吹くまま気の向くままに、誰かの幸福を奪うのだ。

 そうならないように、ところかまわずとぐろの奥のヘドロをまき散らす罪を犯さぬように、皆様方の平凡を傷つけぬように、皆様方の日々に必死の思いで溶け込むのだ。


 毎日家を出ては用を済ませて、誰の害にもならぬよう縮こまって帰宅する。


 挨拶をされれば挨拶を返し、会計が終われば店員に感謝を述べ、学生たちが歩道を横並びで歩いていれば邪魔をせぬよう回り道をする。


 目の前の老人に一度は席を譲る提案を持ち掛け、遠慮されれば大人しく元の位置に座り、泣き止まない赤子の大声に和み、山々だけがのんびりと佇む車窓を眺める。


 可能な限り右側の歩道を歩き、四辻は左右を念入りに確認してから渡り、サイレンを轟かせ駆けてゆく救急車にとぐろの底でエールを送る。


 私は私を諦めて、包丁を遠くに蹴飛ばした。

 私は私を知っているが、皆様方は私を知らない。

 世界が醜悪な穢れに侵されぬように、私に出来ることはただ一つ。


 全てを叩き潰さぬように、 

             穢れた私は閉じ籠る。



                                         【完】

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

穢れた私は閉じ籠る つぎはぎ @tombo1

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ