小麦色の雪女
雪女と人間のハーフというのはなかなか珍しいもので、俺は高校に入るまで出会ったことが無かった。
高校一年の入学式、隣に座ったのが雪女とのハーフの上野コユキである。
「ママがユキなんだよね。だからコユキってさぁ、もうちょっと捻った名前が良かったよ。でもママウケるっしょ。上野行き。山手線みたい」
俺の想像とは違い、健康的に焼けた女子だった。コユキというよりコムギである。
「暑い所苦手とかじゃないの? めっちゃ焼けてるじゃん」
「あ~苦手だよぉ。何なら今日もちょっち暑いかんね。焼けてんのはこれ夏のがなっかなか治んないのよ。一年我慢すれば治るって言われたんだけどね? 夏に海行かないとか無理じゃん?」
ずっと冬だと楽~、とケラケラ笑いながら団扇を仰いでいた。
上野はよく教科書を忘れて、その度に俺の教科書を見せていたのだが、その度に教科書の隅に落書きをしていた。ニャンタの冒険、と題して、二頭身くらいのネコが海で遊ぶシーンをよく書いていた。めちゃくちゃ下手くそだが、味がある絵だった。
「海、好きなの?」
「うん。毎日行きたい。マジあがるよね。でかくて」
上野に会って、俺の中の雪女のイメージは大きく変わった。
透き通るような白い肌に触ると砕けそうな細い手足、白い着物に身を纏って長い黒髪を吹雪になびかせるイメージが、持久走で最後にスパートを掛け過ぎて汗をダラダラ掻きながらグラウンドに横たわって砂まみれになったり、文化祭の屋台で豪快に焼きそばを焼いて髪がめちゃくちゃソース臭くなったりする快活少女に置き換わっていく。
うちのクラスは仲が良く、グループでよくプールにも行った。もちろん上野が行きたがるのが一番の理由だ。そんな事をしていれば、仲良しメンバーの中からカップルが出来るのも当然なわけで。
ある秋の日。
よくつるんでいたシゲトから、上野が好きだと打ち明けられた。
「ハヤタもそうなんだろ?」
そういうシゲトの目の奥には、絶対に負けないという炎が燃えていた。
「俺は、まぁ」
振り返ると、この時の煮え切らない返事で既に負けていたのだと思う。
次第に、グループで遊ぶよりも個人で遊ぶことが増えて行った。もちろんそれはシゲトが積極的に上野を誘うようになったからだ。
そして俺が近づこうとしてもなかなか近づけないルートへ誘導されていた。例えばそれはクラス委員決めでいつの間にかシゲトと上野が同じ委員になっていたりだとか。例えば昼食で弁当を食べるシゲトと上野のグループがいつの間にか合体していたりだとか。ちょっとしたことの積み重ねだった。
おそらくシゲトは相当外堀を調べていて、しっかりと埋めるために奔走していた。俺はそれを呆然と見ているだけだった。
当然、冬には埋めがたい大きな差になっていた。彼は外堀を埋めていて、俺は埋めていなかったのだから、自然の理だ。
クラスの中ではシゲトと上野をカップル扱いする奴がほとんどになっていた。事ある毎に野次が飛び、否定も肯定もせず笑う二人を見て、俺は胸に釘が刺さったようだった。
もうほとんど決着がついた十二月の席替え。
俺は運良く、上野の隣の席になった。
「懐かし~。ニャンタ、まだ残ってる? また描こうっと」
「教科書忘れて来る気満々じゃん」
もう上野の中で俺は恋愛対象では無いのだろう。いや、最初から俺は恋愛対象では無かったのかもしれない。だから今でもこうして俺と話しているのではないか。
ただの友達だから。
そう言われるのが怖かった。
頭ではわかっているはずなのに、それでもやはり俺は、上野の事が好きだったのだ。
「山登り行こうよ」
俺の中の何かが弾けたのは、冬休み直前であった。自分でも半分何を言っているかわからないまま、俺は彼女を登山に誘っていた。
「山登り? どうしてまた。寒いよ~、今の時期」
「そんな高い山じゃなくていいよ。それに、上野は寒いの得意だろ」
「そりゃそうだ」
上野はあっさり俺の誘いに頷いてくれた。
シゲトに許可を取らないでいいのだろうか。そんな事を自然と思う自分が少し情けなかった。もちろん、上野にそんな事は聞かない。だってまだ、上野とシゲトが付き合っているなんて証拠は無いのだ。
冬休み前最後の土曜日。
俺と上野は近くの山に登った。中腹に神社があり、そこから上はしっかりした装備が無いと冬場は登山禁止となっていたが、そこまで本格的でなくてもよかった。
ただ、雪が少し降ればいいなと思った。
「どうして山デート?」
海がいいの知ってるくせに、と上野は笑う。
デートという単語が簡単に彼女の口から出るのが苦しかった。その言葉が持つ重要性は、俺と上野で随分違う。
「上野は似合うんだろうなってさ」
上野が一番綺麗なのは海ではなく山なのでは? と、ずっと思っていた。上野コユキを一言で表すと? とクラスメイトに聞いたら全員が「海好きのギャル」と答えるであろう。上野自身もそうでありたいと願っている節がある。
しかし、俺だけは違うと思っていた。俺だけは本当の上野を知っていると信じていた。そうでありたかったのだ。
だから山での上野を見たかったのだ。いずれ二人きりで山に登れなくなる前に。
「やっぱり上野は山、似合うよ」
いつも見ているはずの上野の目が、山ではまるで違った。
奥行きが広がり、覗き込むと大地が何処までも続いているような錯覚に陥る。上野は自分自身を通して、雪山そのものになっていた。
満足だった。みんなが知らない上野がそこに居た。
「ねぇ」
お参りを終えて山を下りる段階になり、上野が立ち止まった。
「どうした?」
「……もう少し登る?」
悪戯っ子のような笑みを浮かべて上野が神社の奥を指差す。笑顔の奥の目にはやはり大地が続いているように見える。。
「……何処まで登る気?」
「ハヤタ君は何処まで登りたい?」
スカート姿。十二月なのに生足で、この場にいる誰よりも寒そうな女子高生。
指差す向こうには、まばらに頂上を目指す、重装備の人々。
改めて見ると、あまりにも彼女はこの空間で異質だ。それに気付いた瞬間、鳥肌が立つのを感じた。
「死んじまうよ。帰ろう」
俺は笑って手を振った。
「……なぁ~んて。……冗談に決まってんじゃあん!」
ケラケラ笑いながら上野は俺の背中を何度も叩く。
下山、というと大袈裟だ。ただのハイキングコースの帰り道。上野はずっと喋っていた気がするが、何を喋っていたかは覚えていない。このまま山から出られ無くなればいいなと少し思った事だけ覚えている。
「楽しかったね、山」
別れ際に上野が言う。
「おう。また登ろう」
俺は努めて軽率にそう言った。もう二人で山に登ることは無い事はわかっていたし、こんな事を言うのも野暮だとは思ったけれど、それでも言わずにはいられなかった。ほんの少し、「うん」と頷く上野を期待していたのかもしれない。
上野はニコニコと笑って、何も答えなかった。
少しの間、時が止まったように見つめ合っていた。
「……じゃあ、俺行くから」
沈黙を終わらせたのは俺だった。上野はきっと、今日の意味を知っていた。俺のけじめの為の日で、だから俺が終わらせるべきだったのだ。
「本気だったよ」
登るの、と上野は笑顔のままで、確かにそう言った。
「じゃあまた学校でねぇ~!」
くるりと踵を返して遠ざかって行く背中。
さっきまでその背中には山の頂上までの憧憬が乗っていたのだ。最後の最後まで、気付かなかったのは、他でもない、俺だった。
待てよ、と声は出ていた気がする。
しかし上野はもう振り返らなかった。
俺は山で雪女に出会っていたのに。
気付いたのはもうすっかり山を下りた後だった。
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