ほろ酔い幻想記

まさつき

第1話 たとえば異世界行くとして

 カツン――と、厚口のトールグラスが二つ、打ち鳴らされる。

 すぐそばで、細い指に握られた同じグラスが寄り添うように掲げられ、揺れた。


「おつかれいっ!」

「うぃーっす」

 おじさん二人が鏡合わせのように白髭を作りながら、ビールを一気に飲み干した。

 タンッ――と、ガラスの厚底でテーブルを打つタイミングまで、同じだ。

 その隣では黒髪を背に流した細身の女が、二人を眺めていた。

 微笑をたたえながら泡立つ琥珀の液体をすいっと半分、細いのどに流し込む。

 太めの中年男が心の叫びを口にした。

「やーっぱ、最初の一杯これよなあ」

「生き返りますよねー」

 黒縁メガネの奥に腐れたイワシの目を嵌め込んだ痩せの男が、調子を合わせた。

「ゆーても、飲み過ぎて朝死んでんだけどなっ」

 どははは――と笑う、胴は太いが頭長は少々頼りない四十がらみの男は、三人が座る個室居酒屋の四人掛けテーブルのパトロン、高藤健太郎たかふじけんたろう、四三歳バツイチ独身。

 痩せメガネの男、三十ギリ手前の二九歳恋人無し、山ノ井尚人やまのいなおとの上司でもある。

 高藤たかふじは某中堅受託開発ゲーム会社のディレクターであり、山ノ井やまのいは高藤が担当する開発チームのチーフプランナー。

 そして――淀んだ脂質を酒精で溶かそうとする男たちの隣で、妖艶に咲く黒百合の如き女は、姫崎瑠々夢ひめざきるるむ、二六歳異性関係不明。

 高藤チームのタイトルで背景モデル制作を担当する3Dデザイナーだ。二ヶ月程前に中途採用され、高藤のチームに配属された、長身で痩身でロングの姫カットで……ツンと上向いた、巨乳。


 今さら歓迎会というわけでもなく、こじんまりとした酒の席は瑠々夢るるむの誘いによるものだった。すでに社内男性垂涎のまとであった女は意外や社交的であり、しかしそのさっぱりとした気性は同僚女性からもウケが良く……さながら物語に颯爽さっそう登場した謎のヒロイン、といった風である。


「高藤さん、なんか食べたいものあります?」

 注文用のタブレットに目を落とし、指先でスワイプしながら瑠々夢が訊いた。

「あ、ボク唐揚げー」

 横入りした山ノ井の声は女の耳ではなく、紫烏色しういろのニットを持ちあげる胸元の双丘に木霊した。訊かれた返事のかわりに高藤の太い腕が伸び、「ちょっと貸して」とタブレットを取り上げる。ポチポチっとして、さっさと瑠々夢に戻してしまった。空のグラスに唇が、だいぶさみしい思いをしているらしい。


 瑠々夢は「あと適当に頼むんで」と二杯目のグラスを注文に加えると、確定表示の赤いアイコンに指を乗せた。

 注文端末をテーブルに置くや、瑠々夢はグラスの残りを一気に飲み干す。

「あれえ、姫崎ひめざきさんボクのこと無視ぃ?」

ヤマちゃんは、なんでも食べてくれるから、ね?」

 愛称で呼ばれ、なんとはなしに自分を理解しているような口ぶりをされて、山ノ井は抗議をあっさり取り下げると、代わりに鼻の下を緩ませた。


「山ノ井君は最近なんか新作買ったの? 俺はES社の『VVⅦ2リターンズ』まだやってんだけど」

 高藤が最初の一品が運ばれてくる間を埋めるみたいに、枕の話を振ってきた。

「ボク最近、あんま大作やってないんすよ。それよか、VRの細かいやつをちょいちょい漁って遊んでますね」

「VRかあ。あの被りモノ、頭重くてキつくないか?」

「最近のヘッドマウントディスプレイ、けっこう軽くできてるんで意外と楽っすよ。こないだ冬ボで買ったんすけど、楽しくて」

 おかげさまで――となぜか高藤に揉み手しながら、山ノ井は店員が運んできた新しいグラスを受け取った。

「あ、レモンサワー……姫崎さんありがとう」

 二杯目のクセを覚えていてくれたことに礼を言いながら、しかし山ノ井の視線は、酒とだし巻き卵の皿を持ってきた店員の江口えぐちの顔に注がれていた。

 瑠々夢が誘った酒の席、ならばと山ノ井が手配した居酒屋だが――目当てのひとつはホール担当の従業員、江口嬢にもあったのだ。

 身長は見たところ一五〇センチ足らず。ビターなブラウンのボブカットの丸顔から、甘いミルクのようなゆるふわなアニメボイスが山ノ井の耳を蕩かすのだ。

 そして、巨乳。低身長の、巨乳。

 としは知らないが、おそらく学生バイトで二十歳はたちかそこらだろう。あわよくばと思い足しげく店に通う山ノ井だが、まだフルネームすら訊けずにいた。


 江口が高藤に新たなビールグラスを差し出し、瑠々夢に焼酎のロックグラスを置いて去ったところで、高藤が低く切り出した。

「VRといえば没入感だけど――」と、ふいに真顔を作る。

「究極の没入感は、やっぱその世界に入り込むってことだろ?」

「まあ、そうっすね」

「前から思ってたんだがな……」

 さていったいこの話はどこへ向かうのかと、山ノ井は身構える。

 瑠々夢は変らず微笑をたたえ――ロックグラスを呷って空にした。

「異世界転生もので、ゲーム世界に転生する話があるだろ」

「相変わらず流行はやってますよね、わりと」

「おかしいと思うんだよ、俺は」

 酒が回るとウンチクを語りだすのが高藤の悪癖である。山ノ井はげんなりとした顔をするのだが――高藤の切り口は意外と興味深いから困ってしまう。


「俺がゲーム世界に転生したとする。たとえば乙女ゲーとかな。で、目覚めた世界はアニメ顔の人間ばかりだ。世界も絵の具で描いたみたいな風景なんだぞ」

 ややこしそうなたとえ話に「はあ?」とだけ、山ノ井は生ぬるい相槌を打った。

「記憶を持ったままそんな世界で目覚めてみろ、俺はまともでいられる気がしない。心が砕けるんじゃないかと思わないか? いきなり、知覚認識のまるで違う世界に放り込まれるんだぞ?」

「いや、そこは創作ですし……てか、話終わっちゃいますよ」

 そこは確かにな――と、高藤は応じつつも。

「理詰めで作れとは言わない。しかし、リアリティは重要だ」

 高藤はビールで一旦唇を湿した。山ノ井も、グラスを半分一呑みにする。


「なら、そこは百歩譲るとしよう。転生、生まれ変わりの話だしな。生まれたときからなら、記憶があっても順応できるかもしれない」

 二杯目のビールグラスを呷った高藤の声が、上ずった。

「だが、の場合は、違うだろう……っ」

 ガタリと、高藤の座る椅子が鳴る。

 瑠々夢は、空のグラスを江口に向けて振った。ニッコリ笑って近づく江口に、焼酎のロックグラスをダブルで注文する。

 甘い吐息のような声音で応える江口の声は、しかし、山ノ井の耳に触れることはなかった。山ノ井は高藤の話に、すっかり興味を持ってしまったのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る