4-3
あれから、結衣は言われたまますぐ折り鶴を捨てた。業者の男が入ってこようとしたあの恐怖と相まって、あの折り鶴を手元に残しては絶対にいけない気がした。
けれど、それじゃ事態は収まらなかった。
アラームで寝覚めの悪い頭を叩き起こされた週明け、結衣は手を伸ばした机の上に目をやりさっと顔色を変えた。そこにはすべて素直に捨てたはずなのに、鶴が一羽だけ戻っていたのだ。
あまりに焦って飛び出したからだろう、母が遅刻でもしたのかと台所から結衣を覗いた。
「つる……お母さん、机の上の鶴知らない?」
「鶴?」
言葉足らずの結衣に、母は意図を汲めず顔をしかめる。「知らないけど」
出社が早い母は、朝煩わしいことが増えるのをひどく嫌った。現に唯の表情を見るや、むすりと顔をそむけ大股で洗濯機の方へと引っ込んでしまう。
ちらりと盗み見ると、大きくまとめられた燃えるごみの袋には昨日捨てた折り鶴が数羽分ちゃんと入っていた。
「大事なものだったら自分で仕舞っときなさいよ」
洗面所で母はとんちんかんな方向に声を荒げている。でも、母の仕業じゃないなら目覚まし時計の横にあったあれは何なのだろう。
授業が始まっても結衣はどこか上の空だった。
休み明けで寝ぼけたクラスに交じって、隣で時折こちらをうかがうクララを余所に、結衣は風にそよがれるままページを繰った。青がちなところは昨日の業者の男を思い出してしまいすぐ飛ばした。おかげで音読に当てられた時も結衣はてんで違う箇所を読み上げ、クラスの視線が変に集まった。クララは自分の教科書を指し、なんとか結衣に正しい場所を教えようとしている。こんなことならどうして最初から頼らなかったのだろう、と結衣はうなだれ、急にさっきの視線が気になって尚のこと集中できなくなった。
それも困ったことに、視線の感覚は帰るまでずっと結衣の中に残った。
あんなことがあった翌日だ、結衣は今も誰かに見張られている気がして仕方が無かった。祠の前も、駅も公園も、結衣は一切顔を上げられず足早に通り過ぎた。クララはその様子に何かを察したが、頑なな結衣が口を割るまで力の貸しようもなかった。
あの折り鶴を再び捨てた翌日、結衣はアラームにいつもより心臓をはやらせた。目覚ましの脇に、今日は鶴がいなかった。燃えるごみは木曜日だから焼却自体は先だけれど、昨日のような舞い戻りがなく結衣は胸をなで下ろした。
だが誰かに見られているような、あの感覚は収まらなかった。今朝の小テストも、それで集中できず散々だった。週末から過敏になっているんだと、結衣は何度目かの深い息を吐く。
あの業者はもうやって来ない、折り鶴も捨てた、だから安心していいのだ。
世界史の授業では先生が大層緻密な地図を手書きで板書していた。教諭の頭を見て『あれって絶対ヅラだよね』と囁き合うクラスメイトの噂を盗み聞き、結衣はようやく緊張が解けていく気がした。
その日の小テストは六限に返ってきた。
無造作に列の前から返却されるテストに、結衣は見た途端小さく肩を落とした。赤点だ。分かっていたことだが難儀だ。引っかかったら例の再提出をしなければならない。
横からちょんと肩をつつかれ、無気力に結衣はふり返った。そもそも回収されていないクララは自分で丸つけしたらしいが、彼は十点満点だった。こんな時にうきうき見せびらかしてくるんだから、彼もいい趣味をしている。今更クララがずるをしているとも思えないから、結衣が普段人間と区別している彼らは案外結衣より賢いのかも知れない。
せっかくいい点を取れたと言うんだし、直しの時には答えを移させて貰おうか。結衣は苦笑いして小テストを机に戻した。奥で紙の端がくしゃっと鳴った。
結衣は普段教科書をかばんに仕舞いっぱなしにしていた。テストだけ入れたにしては、音は何か別の紙を巻き込んだようだった。手を机から抜きだした結衣はひどく汗ばんでいた。
指先が血塊を捉え、沈んでいく心地がした。奥の方から取りだしたそこには、片翼が折れて歪んだ、あの新聞の折り鶴があった。
「あ……」
結衣は席を立った。顔が蒼白になっていた。
淡々と授業が始まっていた中だったから、驚いたクラス一同の目が結衣に集まった。
「あら、森川さん……は、じゃあ2番の問題をお願いできるかしら」
前に立った教諭も結衣に戸惑いながら、括弧の中の並べ替えを結衣に指名した。立候補したわけじゃない、むしろ結衣はテストで赤点になるほど語彙も文法も駄目なのは教諭も知っているはずだ。
結衣の手から鶴が落ちた。溜まらず結衣は教室の後ろ扉から駆け出した。
にわかに起こったことで、教室中の視線が呆気にとられ結衣の背を追っていた。クララの頭だけが唯一、落としていった新聞の紙片へと向いていた。
はっと我に変えた教諭が、黒板を弾いてはいはいと仕切り直す。
「具合が悪かったんでしょう。では2番を……」
扉の向こうを心配しながら教諭は黒板をふり返った。が、「え」と彼女はそこでまた口をつぐんでしまう。さっきまでまっさらだったはずの所に、正解が小綺麗に並べ替えられていたのだ。不思議そうに首をかしげる教諭の後ろで、生徒も小さくざわめいていた。
チョークの着いた指をこすり、クララは窓の脇で折り鶴を見下ろした。教諭が納得いかない顔で3番、4番と続けるのを見届け、彼は鶴を拾って教室を後にした。
結衣はずっと追ってくる視線から必死に逃げた。業者の男も、あの折り鶴のことも、誰にも相談せず解決を待つつもりだった。でもそれより、今回は結衣の方が早く押しつぶされてしまいそうだった。
「やめて」
廊下をつきまとう足音に結衣はふり返り睨めつけた。クララは途端、速度を落として立ち止まった。クララが手にしていたのは結衣が一度振り落としたあの折り鶴で、余計恐ろしい感じが増した。
「……もう、どうしたらいいんだろうなぁ」
もどかしく、蚊の鳴くような声で結衣は頭を押さえた。あとちょっとで保健室だが、行ったところであの鶴からはきっと逃れられまい。
クララは一つ首をかしげたきり、再び歩み寄ろうとするのを結衣は手で制したきり、睨んで威嚇した。
「それ、持ったまま来ないで」
クララは紙袋頭をカサリとも言わせず、結衣に申しつけられるまま直立した。
きっと彼も、いきなりこの状況を分かってはいまい。やっぱり言葉足らずだと結衣は唇を噛んだ。
手首にはまだ少し慣れぬ、黄色のミサンガが触れた。折り目ばかり目立つ無機質な段ボール生地の面は、のっぺりと踊り場に佇み腕をかっくり下ろした。鶴は廊下に潰れ落ちて、クララは無害を示すみたいにホールドアップをゆるゆる決めこんだ。もう怖がられるのは勘弁と、彼はまるで従順だ。
賭けてみようか。うなだれた結衣の頭に、そんな考えがふとよぎった。
確固とした根拠がある訳じゃない。だがどうにもクララは、結衣に害を与えぬどころかこれまでも多分、瀬戸際を救われていた。それに鶴は彼にも見えているようだし、喋ったところで変に思われることが無い相手だ。結衣は何度か唇を震わせ、きゅっと閉じた。
「……クララ、相談聞いてくれる?」
クララは結衣の言葉に、紙袋の頭をかくりと折った。
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