第4話 折り鶴
4-1
おぼろげに覚えているのは母がドアを閉めた振動で、再び目を開けたときには午前十時を回っていた。
こんな時節に早起きしても徳など無い。布団が恋しく起きたところで試験勉強のうだつも上がりそうにないため、結衣が這い出したのは意識があってから二十分とした頃だった。自室から重い足を引きずった結衣は、寝起きに一つくしゃみをして洗面台へと向かった。そういえば週末、母は休日出勤が決まって機嫌が悪かった。対して日曜の朝と言えば当然学校はどこもないので、決まって階上からは恐らく小学生の拙いピアノが流れていた。
ここ最近、部屋の一角は日が入らないと随分寒くなる。結衣は重いカーテンを開け、リビングの床に出来た日だまりへと脚を伸ばした。朝か昼か分からないトーストと、テレビを点ければそれはいかにもお一人様の休日だ。結衣はポットの湯で漉したティーパックを皿に、それからジャムを際限なく伸ばしニュースを垂れ流した。
番組が全国から地方版に移った時、テロップには一番上に行方不明の文字が浮かんだ。
ようやくトーストに口をつけた結衣は、せっかく含んだ一切れを飲み込んでしまう。やはりまだ咀嚼が要ったらしく、むせかけた結衣は何とか紅茶で流し込み、火傷で舌がひりりと痺れた。
なんどかうつ伏せて咳をする結衣にお構いなく、無機質にニュースは続いた。
曰く、前にこの辺りで行方不明になっていた成人女性と思われる遺体が発見されたらしい。その遺体は人里離れた山中で見つかり、警察は身元の確認と事件に巻き込まれた可能性を検討しているという。物騒だが、一通り咳きこみ終えた結衣は背中を丸め、長いため息を吐いた。
女性か。結衣がこの前見たのは小学生の男児だ。きっとよくないことだが、それだけで湯は安堵が勝ってしまう。
最後指についたマーマレードを舐めとって、平皿を台所に下ろした結衣は背もたれの高い椅子に新聞が掛かっているのを開けた。昨日の朝刊がそのままらしく、後ろから繰るとその女性はまだ小さい欄で行方分からずと報道されていた。隣の枠には能天気に料理教室のインタビューが載っているほどの、些末な扱いの記事だ。
結衣はそのモノクロに落とされた隣の盛り付け皿を前に首をひねった。正確にはその写真の上にある余白と記事の間に引かれた線、要は新聞全体のデザインの方だ。あまり新聞を広げない結衣でも、自分の家が取っている新聞の型くらいは何となく見覚えがある。だがその見覚えが、今日は幾分鮮明な気がしたのだ。
結衣はすすっていたティーカップから口を外し、あっと声を上げた。
思い出した。この殻は、あの鶴と一緒なのだ。
鶴、というのは、ある学校帰りに結衣の家の前に落ちていた新聞の折り鶴のことだ。誰のかも知らない、タダこのマンションには子どもが多いから、図画工作か暇潰しに作っていてもおかしくはなかった。新聞で折ったにしては丁寧で綺麗だったもので、誰かのなくし物だったときが不味いと結衣は週末まで捨てずに置いていたのだ。
少なくとも善意で、その日はそうしていた。
何かが違うと気づいたのは、それが二回と立て続いてからだ。
今、結衣の勉強机の上には三羽の折り鶴が並んでいた。木、金、土と来る日も玄関先に落ちていた分だ。特に土曜日は出る用事も無かったが、気になって母が買い物に出ている間、外を覗くとやはりあった。何のために置かれているかも見当がつかず、いっそ鶴を広げてその秘密を暴こうとも思ってはみたが億劫でそのままだった。
今日も、あれは落ちているんだろうか。
結衣は洗い物で水粒の飛んだ手を握りしめた。昨日折り鶴を拾ってしまって以来、外を確かめるのも怖かった。絶対そんなことは無いのだが、むしろ結衣が玄関を訪れるからこそ折り鶴が出向いて繰るような気がした。
ピン、ポーン
静寂を破り、インターホンが鳴った。バサリと新聞を飛ばし、結衣はハッと時計を仰いだ。11時過ぎた。たしか母の化粧品がちょうど御膳に指定されていて、留守中対応するよう昨日言い置かれていたのだ。結衣は食器棚の下から印鑑を取りだし、いそいそリビングのドアを閉めた。
「荷物は以上になります」
宅配業者が制帽のつばに手を当て、バインダーを抱え会釈した。中には割れ物もあるので段ボールは板間の上にそっと置かれる。
チャイムに出たのが小柄な結衣だったからだろう。業者の男は目をしばたたき、結衣にかがんだ。
「お母さんは、お買い物中だったかな?」
「あっ、はい」
買い物じゃなくて仕事です———とは、いちいち訂正しなかった。それじゃあと土間で見送ろうとする結衣に、業者は一、二歩と後ずさったきり止まった。
「ということは、今は一人でお留守番かな?」
「……いえ、奥に父がいます」
結衣はとっさに嘘をついた。家に一人だと知られては行けない、と直感が先に走った。玄関先には誰も履かない28センチの革靴が隅に並んである。業者はじとりと薄ねずみ色のタイルに目を落とした。
結衣は半ば強引に業者を追い出し、扉を引いた。しかし閉める直前で業者が隙間に指を挟み、無理やりこじ開けようとする。結衣は焦り、全体重を後ろに掛けてぎゅうぎゅう取っ手を引っぱった。
助けを、呼ばなきゃ行けない。
分かっていても、今叫んだら力が抜けてしまいそうで結衣はそう出来なかった。
目深に被った制帽のせいで表情はよく見えず、業者の男は言った。
「ここに鶴が落ちてなかったかい?」
結衣は目を見開いた。
「っ知らない!」
勢いのまま結衣は扉を閉めた。
急いでいたものだから、若干ドア越しに骨の当たる感覚がした。結衣は構わず慌てて鍵とロックのチェーンをかけて、ようやくドアの取っ手を話した。あんまり酷く引っぱったせいで持ち手の所がいつもより戻りが悪い。
何だったのだろうと、結衣はへたり込んだ。追い打ちをかけるように、外では再びインターホンが鳴った。曇りガラスの奥にはうっすら、あの業者が来ていたものと同じくすんだ青色が揺らめいていた。結衣はなるべくドアからも離れたくなり、廊下に向き直ったきり腰を抜かした。
差しっぱなしだった今日の朝刊が上の郵便受けから落ちる。入り口付近に散らばったじょうろが跳ね、がらんとタオルの方へ転がった。合成樹皮の剥がれかけた脆い革靴の横には、いつの間にかあの折り鶴が一羽倒れていた。
「っなんで……」
結衣は玄関のタイルにへたった朝刊をくしゃっと握った。郵便受けが外でがこがこ鳴っている。床に合わせて手先も冷たくなっていくような感覚に、結衣は思わずミサンガを確かめた。
郵便受けは突然、ぱたりと止んだ。インターホンの間延びした音も消えた。その時、ドア越しに直接声がした。
『鶴を見つけても、必ず捨ててね』
こちらは見えていないはずなのに、結衣はまるで全部覗かれているようだった。そしてタイルの折り鶴を残したまま、扉のガラス越しに青色の服は見えなくなった。
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