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腑に落ちなかったものの、名無しだったその紙袋頭に結衣はそれ以上良い名前が思いつかなかった。そのため以降、結衣は彼のことをクララと呼んでいる。一応紙袋クラフトボックスだし、愛称にならないことは無いだろうという安直な語呂だ。ただクララというのは結衣の中じゃもう少し可愛いイメージがあったものだから、何だか齟齬がある気もした。




クララの席は常欠席者のような扱いで、色んなものが配られど回収されることがなかった。それでもクララは、どういうつもりかプリントに書き込んではそれを机の下に仕舞い隠す。四限が終わっても食事は基本取らず、そのままずっと窓辺を眺めていたり、ふらっと教室から消えたりして、五限が始まる頃にはまた戻っていた。


それと時々、クララはああいう風に結衣を助けることがあった。


別に、結衣が頼んだことは無い。喋ったのも保健室でのあの一度きりで、変に関わって怖いことに巻き込まれたくないという気持ちは依然強かった。本当にクララはそれ以上結衣に干渉することがなく、ますます得体が知れなかった。それでもノートを運ばなければならない時とか、園芸委員で花壇の水やり当番が回ってきた時とか、彼はふと隣に立っていた。




金曜日の朝礼は、毎週漢字の小テストがあると決まっていた。クララはまたクラスの景色に溶け込み、何かシャーペンを動かしていた。結衣も分かるところは書いたが、考える内ゲシュタルト崩壊が起こってある一マスを消したり書き足したりしていた。そうこうしているうちにチャイムが鳴り、結衣の皺の入った神はあえなく回収され、クララは知らぬ顔でそれを机の中に入れた。


その日はまた美術の授業があった。外は長く時雨が続いていて、画材を濡らさぬよう美術室は廊下側の窓だけが開いていた。相変わらずインキの染みた教室で、結衣は彫刻刀を使い枠の木を彫り出していた。三角等で真っ直ぐ線をなぞりたいのだが上手く進めず結衣は苦戦している。一方クララは、どこから持ってきたのか自分用らしい彫刻刀のセットを長机の脇に鉛筆で描いた下書きの上をなぞっていた。模様は一線一線が滑らかだった。芸術選択で美術を選ぶ理由なんて、本当に手先が器用な生徒以外の大半が「一番マシだから」だ。だから多分、クララが作っていた額縁は上手かった。そんな相対評価無しにも、結衣はクララの額縁が綺麗だと思った。


だが当然、彼がそれを提出することはない。果たしてクララが今彫っている模様自体、実在するのかどうかも分からない———結衣は、少し悔しかった。




帰りのホームルームになっても、曇天のもと雨はまだ続いていた。朝にした小テストが返され、結衣は半分の五点だった。直しと再提出が求められるのは四点以下から、結衣は安心してゲシュタルト崩壊の末が丸かバツかも見返さず鞄にテストをしまう。赤点にかかったクラスメイトの文句を横流しに教室では掃除当番が机を下げていく。


当番に当たっていた結衣は、汚れもほとんどない窓を背伸びで適当なところまで拭き上げる。いつも結衣の隣につきまとっているクララだが、今日の放課後はどこかにふらっと消えていた。頼んでいたわけじゃないが、これまでもあの長い腕で上まで拭いているのはなにかと便利ではあった。


さすがに、それを期待するのは都合がよすぎるだろう。結衣は窓を拭き終え、机を前へと詰めた。特にクララの机は、日を追うごとに重くなっている。プリントを貰うだけ、すべてためこんでいくからだ。もしかしてこれも、見えないクラスメイトが運べば質量さえ違って感じるのだろうかと考えながら、結衣は前の机に手を掛け力を込めた。


然し存外、クララの机はすんなりと持ち上がった。

「……えっ」


結衣は、反動ですっ転びそうになったのを何とか留まった。代わりに立てかけていた箒が一つ、床を伝わる机の振動で倒れて音高くなった。


椅子がくみ上げられた机を結衣は揺すってみた。机はカサリといったきり、横に掛けた制かばんがまた軽い分他よりするすると前に動いた。妙な気がして机を置いた後ふり返ってみると、机の中は空っぽになっていた。

クララは依然、どこにもいない。


掃除が終わって、結衣はクララの机を周回した。だが机が軽いのは本当に軽くなっただけなのか、あるいは今もそこに在るものを結衣が見えなくなったのかは結衣に判別つかない。今までまとわりついてきたクララの意図が計りかねると同時に、それは見える恐怖と別の感覚でぞくっと背筋が張った。


結衣はとっさに手を机の中へつっこんだ。机の中はやはりプリントの山が消えていた。その代わり、カサリとさっきの音と共に、一枚だけ紙が落ちてきた。どうやらそれは今朝の小テストらしく、印刷された空欄の中にはシャーペンの細かな字が並んでいた。


クララが何をそんなに書き込んでるのか、人語じゃない可能性もあって結衣はなるべく見ないようにしていたが、書かれていた文字は普通に読めた。なんなら氏名欄こそ白紙だが、内容は結衣より書けている。悔しくも、カンニングしたらいつもより良い点数が取れそうだ。悪知恵がはたらいて、結衣は自分の筆箱から赤ペンを取り出した。


自分のテストをふり返る気はさらさら無いが、クララのとなると途端面白くなる。廊下をする上履きの音が行き交い、教室にはひとり結衣が残っていた。結衣が最後の丸を付け終えた時、漢字帳が厚みでパラパラページを送って閉じた。


「すご」


結衣は唇をすぼめた。雨が窓に筋を残しながら延々と降り注ぐ。漢字帳と照らし合わせたクララの解答は、十点だった。


結衣の二倍、満点。どの字も小綺麗に整っていて、お手本に選ばれそうなくらいだ。


不思議と、結衣の面持ちは憐憫が深くなっていた。


足は教室の外に向かった。雨が降り止むまでだと結衣はテストを握りしめ、自分のかばんを担いだ。足は校舎の端から端へと徐々に、忘れ物を探すように下りていった。三階には屋根の狭い渡り廊下が図書室の際に出っ張っていて、迂回することもできたが結衣はそこを突っ切った。ある程度、探すところの目星はついていた。

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