第1話 ミサンガ

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幼い頃から時折、結衣は変なものが見えた。





祖母が亡くなったくらいだっただろうか。それは結衣にだけ見える、多分この世にいるはずの無いものだった。

ただ、見えると言っても頻度は半年に一度くらいのものだったので、結衣も特別何かに巻き込まれるようなことは無かった。見えてしまった時は何も起こさぬよう、なるべく目を逸らせて通り過ぎるのだ。それで上手くやり過ごしてきた。






だが、今日だけはそれも無理なようだった。






自宅のマンションに着き、ひやりと触れるドアノブを引いた瞬間、結衣は「あ」と言ったきりその場で固まった。

それは見て見ぬふりが上手い結衣でも、釘付けになってしまった。けして大きな妖怪や、部屋全体に及ぶポルターガイストなんかじゃなかった。





続く廊下の前にあったのは、姿





目の前の体は、まず間違いなく死んでいた。結衣は後ずさり、締まってすぐのドアに倒れ込んだ。


一体どういう了見だろう。


背中にはドアのへこみがずずっと当たり、確かに制服のカーラーをなぞった。だがそこに見えるのは、酷く表情が歪んだものの鏡越しによく見る結衣の顔と同じだった。


自分の存在を確かめるみたいに結衣は体のあちこちを触り、手のひらを見つめたところで気がついた。


彼女は普段、制かばんにもうさぎのキーホルダーひとつといった、ごく控えめな格好だ。

が、そんな結衣でも高校生らしいお洒落のようなものを一つだけしていた。それがだ。まだ物心ついているかも危うい時、祖母に結んでもらったものだ。依頼結衣はそれをずっと付けていた。




そのミサンガが今、彼女の手首から消えているのだ。




マンションの一部屋には結衣の浅い息だけが這った。

所詮ミサンガも糸なのだから、切れるのはあっという間だ。だが、結衣のミサンガに限っては本当におまじないでも掛かっているのか、どうにも丈夫で気づけば高校までそのままだった。だからもし切れたら、糸のある手の方が見慣れた結衣なら必ず気づくはずなのだ。


死体の異様な臭いがつんと結衣の目と鼻をついた。

ついに堪えきれなくなった結衣は身を翻し玄関を飛び出した。














一段とばしに階段を駆け抜く音が遠かった。段を踏む足裏から膝の震えががくがく伝わった。踊り場を折れるたび、手はゴム製の手すりを掴んで汗が滲んだ。その感触は、やはり確かに結衣の体に返ってくるのだ。


結衣は白っぽい手首を握り、出てきたマンションの前に立ち尽くした。

あの場に留まれず出て来たが、結衣はそれからどうしたら良いか———あるいはどうもしないべきか、判断のしようがなかった。



とにかく、今は———誰かの助けが欲しい。



さっき見たのは嘘か誠か、はたまた結衣にしか見えないものだったのか。交差点を過ぎたところには交番があって、前の小さな横断歩道には黄色い旗を持った老輩のボランティアが小学生の下校を見守っている。


結衣は青い顔でふらふらと来た道を上った。


その様子があんまりに危なっかしかったのだろう、見回りから帰ってきた巡査が二人、顔を見合わせ結衣に近づいた。


「君、大丈夫?」


結衣は二人を見上げたきり、いっそ全部話せないだろうかと泣きそうになった。だが口を開いたところで、言葉は浮かばなかった。




私の死体が、玄関に吊ってあるんです———




なんて、言ったそばから矛盾している。はたしてさっき見たものが彼らにも見えるのか、現実味がなくて、結衣は小刻みにかぶりを振り、逃げるように巡査たちの後ろを通り過ぎた。

















それから結衣は通学路を逆行し、狭い商店街の脇道を抜けた。

気分はまったく休まらないが、歩いているうち結衣はふと、さっきのは何か、この世ならざるものだったんじゃないかと思い出した。寧ろそれがしっくりくる、何せ結衣はまだ生きているのだ。


はやる胸を押さえた時、結衣は自分の手首に違和感を覚えた。




「痛っ……」




かざした手首には、ミサンガが取れ何もなかったためはずの肌の上に妙な黒い線ができていた。何これ、と結衣は顔を近づけて見る。それは痣のようであった。



途端、結衣の手首がまた痛みだした。


今度は違和感なんて曖昧なものじゃない。はっきり締め付けられるような痛みで、結衣がシャツをめくると、手首を一重に巻いていただけのはずだった痣が広がっていた。


じわじわ、じわじわと、


まるで見えないミサンガが結衣を殺しに来ているみたいに、痣は目視で分かるほど肩の方にせり上がっていた。


「い、や」


結衣の頬から血が引く。彼女は空回る足で店の脇を駆けた。


買い出しに来ていた通りすがりの何人かが結衣を振り返ったが構ってなどいられない。病院に駆け込んだところでどうにかなるとも思えず、足を動かすとともに逆流しだした血液と嗚咽が口から溢れそうになる。




腕はずきずきと痛みを増し、ついに結衣は大道路を抜けた公園の前で立ち止まった。袖を引き上げると、痣は肘上のところまで侵食していた。

もうこんな場所じゃ結衣を気に掛ける人もおらず、痛みと恐怖が相まって結衣はその場に座り込んでしまった。



どうして痛むんだろう。



結衣は泣き出しそうに顔を覆い、無いミサンガを手首に握りしめた。




『外したら、おまじないが叶わなくなっちゃうからね———。』




小さい頃にした祖母との他愛ない約束だった。結衣は壊死しそうな色の腕を押さえて唇を噛んだ。あんなの、ただの験担ぎだ。祖母が幼かった結衣を愉しませようと、もっともらしく説いただけの嘘だ。



頭では分かっていても、子どもの時に聞いたそんな話は何故か覚えていたりするものだ。特にこんな状況なら、それが論理的に正しいかなど考えている余裕はない。


ミサンガ、と呟いた。途端悪寒が体をめぐり、結衣はどうにも恐ろしくなった。まるでこのままミサンガを着けられなければ、結衣はこの先にある願い事すら叶えぬままこの世から消えてしまう気がしたのだ。



ミサンガを無くしたせいだ。ミサンガを、探さなきゃ。



根拠もないくせ、結衣はそう思い込むと止まらなかった。きっと結べばこの腕は元通りになる、結ばなければ、死ぬ。それだけ腕は痛みが止まらなくて、結衣も切羽詰まっていた。


多分、あのミサンガを無くしたのは今日の帰りだ。

だとしたら、助かるにはいつもの通学路をさかのぼるしかない。だが結衣は公園の塀に手をついたきり、足がまったく進まなくなっていた。すでに体の自由が効かなかったのだ。















結衣の前に長細い影が落ちたのは、その時だった。

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