旅立ち
リーヴァが構えるのを待たず、引き絞った拳を撃ち放つ猿の王。
二つの関節を擁する長い腕を存分にしならせた拳は、その巨躯に見合わぬ瞬発力を持ってリーヴァへと迫る。
迫り来る自身の背丈より巨大な拳は、リーヴァの目に、突進する岩壁の様に映った。
だが、リーヴァも見惚れているだけではない。リーヴァは即座に背後に飛び退くと、腰を落とし、地をしっかりと踏みしめ、自身の拳を猿王と同じく引き絞った。
先程までリーヴァが座っていた椅子が、猿王の拳を前に粉々に砕け散る。
「ハァァアアア!!」
猿王の拳が空気の壁を押し退けて作りだす暴風の中、リーヴァは叫びと共に、己の拳を猿王の拳に応える様に撃ち放つ。それは、誰が見ても無謀な一撃。しかし――――
とても生き物の拳同士が打ち合ったとは思えぬ硬質な衝突音を放ち、リーヴァの拳と猿王の拳は拮抗した。衝撃が広場を囲む巨木達を大きく揺らし、枝葉が舞い落ちる。
眼前の全てを弾け飛ばさんと突き進む壁の様な拳を受け止める、少女の細腕。遠目にこの闘いを見ていた猿達が驚愕に開いた口を手で塞ぐ。
『フム……!』
ハマンが喜ばしげな声を上げた。だが、これでは終わらぬとばかりに猿王は拳を振り抜かんとする力を強める。
「グッ……!」
リーヴァの地を踏みしめる足が地面に跡を付けて後ろに滑って行く。リーヴァも拳に力を込めるが、押し退けられる足を止められない。
『ヌァッ!』
だめ押しに、猿王は拮抗する拳をかち上げる。リーヴァは堪らず宙に舞った。
吹き飛ばされ、危うく背後の木に激突しかけるも、空中で体制を立て直し、木に着地する。
『……骨ヲ砕クコトスラ叶ワナカッタカ』
木の枝の上に立つリーヴァを見てハマンは呟いた。リーヴァは拳を打ち合わせた腕に大きな痺れを感じているものの、無傷であった。
吹き飛ばされ、力比べとしては敗北である。しかし、猿王の『防げ』という試練は乗り越えたのだ。
「ハァッ、ハァッ、……防いだ」
荒く息を吐きながら、木の上から見てもなお高いハマンの顔を見上げるリーヴァ。試練を乗り越えた少女に対し、猿王はその巨大な手のひらを打ち合わせ、拍手を送る。いつの間にか広場の周囲に集まってきていた猿達も拍手喝采を送った。
『見事ダ。我ガ拳、受ケ切レル者ハ世界ヲ見回シテモソウハイナイ。コレナラバ、鳥王ニ取ッテ喰ワレテ終ワリ、トハナラナイダロウ。ソノ拳ハ鳥王ヲ貫ケル』
ハマンが広場の外に向かって手を上げると、小猿が大破した椅子の替えをリーヴァの元に持ってきた。
再び勧められた椅子に座ったリーヴァに、ハマンは顔を寄せる。
『ヤハリ君ハ人ノ極致ダ。実ニ惜シイ……ソノ
「取らない。人の王は強い奴がなるんじゃ無い」
ハマンはやれやれと首を振る。
『ドウモソウラシイナ。全ク、面倒ナ種族ダ』
「面倒くさいのは、そう」
リーヴァはポツリと呟いた。
『サテ、唐突ニ暴力ヲ振ルッタ詫ビト、試練ヲ乗リ越エタ褒美、旅立ツ君ヘノ餞別ヲ渡サネバナ』
ハマンは手を打ち鳴らし、叫ぶ。
『倉庫ノ猿ヨ! 遂ニアレヲ彼女ニ渡ス時ガ来タ! リーヴァヲ案内セヨ!』
椅子を勧めたのとは別の、
リーヴァはその猿に見覚えがあった。
猿王の集落で最も厳重に守られた倉庫、言うなれば、宝物殿の様な場所を守護する猿だった。
「
「うん」
リーヴァは倉庫の猿に着いていく。
広場から少し離れた所にある大樹の上に、その倉庫はあった。
黒く強固な木材によって造られた建造物。宝物殿とは言っても華美な装飾があるわけではない。ただひたすらに頑健で厳密な造りに、見る者が勝手に荘厳さを感じているだけなのだ。
猿は大樹を器用に登り、リーヴァも猿に続き大樹を駆け登った。猿が黒い両開きの扉を開け放ち、中へとリーヴァを招き入れる。
リーヴァも中へと入るのは初めてだった。天然の水晶や宝石類の原石、かつてはどこぞの高名な戦士の物であったろう刀剣類等が美しく並べられている。
「
猿はそう言って倉庫の奥に引っ込む。なにやら物を動かす様な音がしばらく聞こえ、戻ってきた猿の手には――――ほぼ黒と言って良い茶色の革で出来た、上下の衣服があった。
「これは?」
「
「ハマンの、革?」
リーヴァは渡された服を広げてみる。形は人の世で言うジャケットとズボンだ。
鞣されてから相当の年月が経っているのだろう。革の表面にはリーヴァですら思わず見惚れてしまう程の美しく透き通った艶が現れている。
猿王の革だけあって頑丈さには折り紙がつく。リーヴァの力でさえ、引きちぎる事が出来るか怪しい。であるなら、世の中の大半の障害に対しては無傷を誇るだろう。
「
サラシを差し出して促す猿に頷き、リーヴァはキシュからここまで着続けた部屋着を脱ぎ捨てた。
猿王のズボンを履き、猿が差し出したサラシを胸に巻き、上から猿王のジャケットを羽織る。サイズはリーヴァも驚く程ぴったりだった。
「
「わかった」
リーヴァは猿と共に倉庫から離れ、広場に戻る。
『ホォ……』
戻ってきたリーヴァを見て、ハマンは感嘆を洩らす。その目は、遠くの何かを見つめる様に細められた。
『マタソレヲ人ガ身ニ着ケル姿ヲ見レル日ガ来ルトハナ……』
「誰かのだった?」
ハマンは頷く。
『ソノ通リ。カツテ我ヲ討ッタ者ガ我ノ革デ作ッタ物ガソレダ』
「……? なんでハマンが持ってるの?」
『持チ主ガ殺サレタ際、下手人ガソノ服ヲ奪ッタ。我ハソレヲ取リ返シタ。ソレダケダ……ドウカネ? オ下ガリ、デハヤハリ不満ダッタカナ?』
リーヴァは首を大きく振った。
「全然、ありがと」
『ソレハ良カッタ』
満足げに、ハマンはニヤリと笑み浮かべる。
『オオ、ソウダ。コレモ渡ソウ』
猿王は膝を叩き、懐の毛皮をまさぐると、灰色に光る宝石の様な物を取り出し、リーヴァに放る。
『昨日、森ヲ散歩シテイル時ニ我ニ挑ンデ来タ狼ノ魂玉ダ。階級ハ、
「ありがと」
リーヴァはジャケットの内ポケットに魂玉をしまう。
『シカシ人類ハ不思議ナモノダ。魂玉ヲ喰ラッテ
「わたしはわからない」
『……ソウダロウナ。期待シタワケデハナイ』
と言いながらも、猿王は少し残念そうであった
『サテ、我ラノ友ヲ送ル祝宴トイコウ。我ガ子供達ヨ! 広場へ集マルノダ!』
呼び掛けに応え、果物や畑の作物、狩猟した獣の肉を両手に、大小様々な猿達が広場へ大集結する。
リーヴァは次々と差し出されるご馳走に目を輝かせ、ひたすらに喰った。周りの猿達も相伴にあずかり、ひたすら喰った。ハマンも自身の腕に劣らず巨大な骨付き肉を片手にご満悦だった。
宴の佳境になると、三匹の
途中でリーヴァが乱入し、三匹の公爵と三対一の攻防を演じる。猿達はこの滅多に見れぬ激戦に大盛り上がりとなり、猿王ですら熱狂に叫んだ。
彼女らの間に大した会話は無かった。だが、彼女らはそれで良いのだ。共に踊り、目の前のご馳走を喰らう事こそ、彼女達の最高の仲間意識の確認なのだから。
数時間後、夜も更け、満腹に広場へ横たわる猿達の中で唯一立っていたリーヴァは、猿一匹一匹の寝顔を見て回っていた。
全ての猿の顔を見終わると、リーヴァは一人、広場の外へ向かって歩き出す。
『行クノカ?』
そんなリーヴァの動きに気づいたハマンは目を開き、問いかけた。
「うん」
『朝マデ待ッテモ良イノデハナイカ?』
「ううん。朝には山に着きたい」
『ソウカ……』
ハマンは身体を起こし、しっかりとリーヴァを見据える。
『デハ行クガイイ、リーヴァ。我ラノ友ヨ』
「うん。……あ」
リーヴァが上げるすっとんきょうな声に、ハマンは首を傾げる。
『ドウシタ?』
「もう、リーヴァじゃない」
『ム? ……アア、勘当カ』
ハマンはリーヴァの言葉の意味を悟り、納得する。
『デハ、ナント呼ブ?』
リーヴァはしばらく頭を捻らせたが、答えは出なかった。
「……わからない。ハマン、付けてくれる?」
ハマンは首を振る。
『自ラノ名ヲ獣デアル我ニ委ネルトイウコトハ、人ノ世ヲ完全ニ捨テルコトヲ意味スル。人ノ世ニナンノ未練モ無イノデアレバ請ケ負オウ。ダガ、君ハ恐ラクソウデハ無イ。違ウカネ?』
リーヴァは痛いところを突かれたといった風に眉をひそめた。
「……違わない」
『デハ、君ノ名ハ君ガ付ケルカ、名ヲ委ネルニ値スルト思ウ人間ニ付ケテモラウコトダ』
「分かった……」
項垂れるリーヴァ。ハマンはリーヴァを優しげな眼差しで見つめる。
しばらくして、リーヴァは顔を上げてハマンを見上げた。
「そろそろ行く」
『アア、名前ハ次ニ会ウ時マデニ決マッテイル事ヲ期待シヨウ……改メテ、去ラバダ。我ラノ友ヨ。今ハ名モ無キ人ノ……娘ヨ』
ハマンは小さくその長い腕を振る。
「じゃあね、ハマン」
手を振り返し、リーヴァは今度こそ広場を離れ、天断山を目指す。その背中を見送り、猿王は一人呟いた。
『遂ニアノ子ガ、人ノ王ガコノ世ニ立ツ。アノ子ニソノ気ガ無クトモ、キット世界ノ波ニ呑マレル。面白イ事ニナル……人ノ商人ニ、新聞ヲ寄越スヨウ伝エネバ……』
猿王はニヤリと笑みを深めた。
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