第29話 復讐するは我にあり
『アァ……ついに、キテくれタ。待ちクタビレちゃった』
ぎょろりとした目がファーレへと注がれている。それ以外は目にうつらないとでも言わんばかりだった。
そして、それだけでその場は嵐の渦中と化した。
汚染された魔力が吹き荒れ、極寒の北部山脈を思わせる黒い吹雪となって離宮の広間を覆う。
ただの人間がこの場にいたならば、即座に全身を汚染されて汚染獣と成り果てているところだ。
マルテですら、この嵐の中を進むのは自殺行為に思えて仕方がなかった。
その中をファーレは悠々と歩いていく。
まるで彼の周りだけ風が凪いでいるとでも言わんばかりだった。
春風が頬を撫でるような気軽さで、彼はラヴェリタの泥の前に立った。
「やあ、久しいねラヴェリタ。小指程度だけど、こちらに出て来た感想はどうだい?」
『アアァ……アアア……』
それは言葉だったのだろうか。
言葉であったのならば、何を言ったのだろうか。
深い悔恨のようでもあり、燃え滾る憎悪のようでもあったし、あるいは慈しみでもあったような気がした。
昔を懐かしむようにラヴェリタは、何事かを唸りにしか聞こえないような音を発していた。
『やっと、アナタをメチャクチャにできル』
マルテの背骨をゾクリとしたものが突き抜けて行った。
ハッとして顔を上げる。
泥が笑っていた。
泥の中にある一つの目がはっきりと笑っていたのだ。泥が津波のように立ち上がり、ファーレへと殺到する。
泥の両椀が抱擁するように白を呆気なく捕えてしまった。
「きちんとキミを迎えに行ったじゃないか」
それでもファーレは笑みを崩さない。
純白の姿を漆黒の泥に濡らしながらも、その白亜に陰りはない。
「でもちゃんと迎えには行ったじゃないか。忘れてしまったのかい?」
『オソイ、遅いノ、ワタシ、こんなフうになっタ』
「それでもボクはキミを愛していたよ」
『嘘ヨ!』
冥界の冷たい風に数千年も晒されてしまえば、その身は解け、泥となり果て、異形の怪物となる。
冥界で彼女は待ち過ぎた。
それでもファーレは彼女を迎えに行った。
どんなに穢れようとも。
どんなに異形と成り果てようとも。
繋いだ絆は、育んだ愛は変わらないのだと。
しかして、かつての戦争の敵であった悪神邪神どもはそれを赦しはしなかった。
ファーレは神々の戦争における善の側の主神。
彼が妻を迎えに行けば、悪神の側に趨勢は傾きこの世は今の姿をとどめてはいなかった。
それを利用された。
すぐには迎えにいけないように仕向け、冥界と地上の時間の運行をいじり、ラヴェリタにファーレへの恨みを植え付けた。
そうしてできあがったのが、この破滅の邪神。
あらゆる魔力を汚染し、塗りつぶし、ファーレの世界を終わらせる怪物だ。
待ち続けた。
待ち続けた。
待ち続けた。
ラヴェリタにはそれしかない。
温かな日差しの記憶も。
柔らかな影の日の記憶も。
何も残っていない。
すべては憎悪へとくべられて、もはや自身が何をやっているのかも理解していまい。
ラヴェリタは全てのファーレの眷属の全てを怨み、彼の創造物の全てに汚濁をまき散らすのだと定められてしまっている。
ここにやってきたのが化身だろうがなんだろうが、来てくれたのならば喜んでぐちゃぐちゃにしてやるのだと猛り狂っているのだ。
それを憐れだと、悲しいと思わずしてなんと思うのだろうか。
「…………!」
しかし、この世が終わる瀬戸際だというのならば、 いくならばここだろうと、マルテは一歩、前へと出た。
ファーレがラヴェリタの気をひいている今がチャンス。
だから足音も立てないようにそっと柱の影から出たところで――。
「っ!?」
泥がマルテを見た。
認識された瞬間、全身が刃で貫かれたと錯覚した。
「ぅっっ……はっはっはっ!?」
胸を抑えて蹲る。
死んだ。
見られただけで死んだと思った。
あれは死である。
冥界の風によって変質した、死の女神。破滅の邪神。この世の終わりそのものだ。
アレに、今から近づいていく?
アレの目をかいくぐってその後ろにある結晶を破壊する?
不可能だ。
できるわけがないと本能が言っている。
アレの前に立てるのは、同じ神だけなのだ。
あるいはアウレーリアのような規格外の存在だけなのだと。
そこではたとマルテは気が付いた。さっき死んだと思ったのは、本当に死んだのでは……?
ただアウレーリアが施した呪いのおかげで生き延びただけなのではないか?
不安が心の内を侵食していく。大丈夫だと思えない最悪の発想がこびりついて離れない。
もしもアウレーリアが死んでいたら、どうすればいい。
どう償えばいい。
どう、どう――……。
「……落ち着いて、大丈夫に決まってる。だってアウレーリアさんだもん」
今は、結晶だけは破壊することだけを考えろ。
だから、前に行け。前に――。
動かない脚を叱咤しながら、なんとか前にでようとした時には泥が目の前にいた。
「えっ…………」
『アァ……ワタシ……ノ器。アの娘に奪われタ、憎キ、器』
「逃げるんだ!」
ファーレの言葉に身体の方が咄嗟に動いた。
神の言葉に従って転がるように横へ飛んだ。
一瞬前までいた場所を巨大な、泥の手がゆっくりと振り下ろされている。
ただそれだけで轟音とともに漆黒の地面が砕けて消滅した。
もしもあのまま動かずにいたならば、確実に死んでいたと思わされる。
恐怖が湧き上がるが、それ以上にマルテの耳残ったのは器という言葉。
「器……?」
『オマエ、ハ、ワタシになるはずだっタのに』
「あたしが……?」
『そうダ。オマエの父と契約しタ。百番目の子をワタシの肉にするト。なのに、邪魔をされタ』
「するとも。冥界のものは地上に出てはならない。そういう決まりを作ったからね」
『どこまでも、アナタは、いつも、いつモ!!』
吹き荒れる嵐がさらに威力を増す中でマルテの思考は先ほどの言葉に向けられていた。
「あたしが、こうなのは……お母さんのせいじゃなかったんだ……」
マルテは魔力がない。それは母親の罪とされて、離宮に幽閉され、兄弟姉妹たちから酷い扱いを受けて来た。
母親は自分が悪いのだと、自らを責め続けていたことを知ってる。
真実は、神の化身として、神を受け入れるためにわざわざ魔力ゼロで作られたからだった。
かつてルブアルハリ王が力と繁栄を求めてラヴェリタと契約したことで始まった彼女が完全にこの世に舞い戻るための計画の産物。
その時、マルテの心にあったのは安堵だった。
「お母さんは悪くなかった……!」
自分を責め続けた母は悪くなかった。
こんなふうに生まれてしまった自分を責め続けたけれど、自分が悪いわけではなかった。
悪いのは目の前にいる邪神だ。
それがわかった。
安堵どころか、喜びすら感じている部分があった。
――だったらどうする?
「こんなところで蹲っていていいはずないですよね、あたし……!」
せめて一発、ぶん殴ってやろうという気すら湧いてくる。
もう一度、計画をご破算にしてやろうと思ってすらいる。
邪神のせいで人生めちゃくちゃにされたのだ。
アウレーリアだって、やらなくても良い虐殺をする羽目になったのだ。
「お返ししてやらなきゃいけないですよね……!」
マルテはまっすぐに立ち上がった。
例え虚勢だろうと、震えていようと、やるべきことは一つ。
駆けだすだけ。そのはずだがぴたりと足が止まった。
このままいけば自分は確実に大きな怪我を負う。
それは全てアウレーリアへと転移する。
本当に行っていいのか? ただでさえ一度足が千切れるような怪我を負わせてしまっているのだ。
これ以上の怪我なんて負ってもらっていいのか。
そもそも死んでしまっているかもしれない。
このままいけば、自分は何も成せずに死んでしまうかもしれない。
迷いが生じる。
自分の行動で自分が傷つくのは良い。
それが自分以外が傷つくとなると足を踏み出すのが怖い。
何もできずに、死んでしまうのが怖い。
もしかしたら先の攻撃でアウレーリアまで死んでいる可能性だってある。
どうしたらいいのか、わからない。
この先を行く方法が、正解がわからなくて不安だ。
その答えは誰も教えてくれない。
ぐるぐると目が回って、不意に彼女の言葉が口をついた。
「わたしは死んでる暇なんてないの。だから死んでないし。死ぬつもりもない。だから行けばいいじゃない。わたしは気にしないわ……」
アウレーリアはマルテが何をしても気にしない。
今も自分のことなんて考えてないのかもしれない。
むしろこんなところで止まっている自分をおかしく思っているかもしれない。
希望的で楽観的な考えかもしれない。
ただ都合のいい考えに酔っているだけかもしれない。
でも、そうしなければ前へは進めない。
「……天才は誰よりも前を歩く人、ですよね。帰ったらたくさん謝ります。だから、あたしのことお願いします!」
だから、せめて精いっぱいの感謝と謝罪を込めてマルテは駆けだした。
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