第5話 野いちご

1957年のスエーデン映画です。


イングマール・ベルイマンの映画は何本かしか見ていない。

それも皆、高校生くらいの時に観たので、ただ難解なだけで、何の印象も残っていない。


しかし、この「野いちご」は、ちょっとだけ印象が違う。

なんか分かったような気がしたのを覚えている。

というのも、この映画だけは、ベルイマンの作品の中でも唯一大学生くらいの時に観たのだと思う。


今回観ても、一応私なりに解釈してみることはできる。


こうした芸術家たちが、何でわざわざこんな分かりにくい映画を作るのかは私には分からないが、今回は物語を簡単に追いつつ、私なりの解釈を書いていこうと思う。

異論のある方は遠慮なくコメントしていただいてかまいません。


*   *   *   *   *   


医師のイサクは、明日、ルンド大学で名誉博士号を授与されることになっている。長年の功績が認められたのだ。


その前の晩、老人イサクは不安な夢を見る。

それはこんな夢だ。

イサクが街を行くと、歩道に針のない時計が立っている。たぶんそれは、もう自分は老人だ、残された時間はないということを暗示している。


目の前で人影が消滅してゆく。それは、人生の終末を意味する。


馬車がやってきて、車輪を歩道に引っ掛けて倒れ,馬車から棺桶が落ちる。棺桶から人が出てきてイサクにしがみつく。これは死はもうすぐ目の前にあるということではないか。


こんな不安な夢を見たその朝、イサクは息子の嫁を伴って、車で出発する。


途中イサクは若い頃住んでいた屋敷を訪れる。

イサクは若い時を懐かしむが、このあたりは幻想的な、美しい場面だ。


イサクは婚約者の若い娘を思い出す。しかし、その娘は弟に取られてしまい、自分は別の女性と結婚し、結婚生活を送ってきた。

婚約者を弟に取られたが故、望まない結婚、満たされない結婚生活をしてきたのだ。



車に戻ると、3人のヒッチハイカーに会う。

1人は女子、2人は男子大学生だ。

イサクは3人を同乗させるが、2人の男子学生は神の存在を巡って殴り合いのケンカまでする。

普通は殴り合いまでしないだろうが、西洋において神の問題は、歴史を振り返るまでもなく、それほど重いものだということだろう。


その後イサクは事故に巻き込まれる。

事故を起こしたのは仲の悪い夫婦で、けんかばかりしている。

しかし考えてみればこんな夫婦は五万といる。

自分たちは特別不幸というわけではなかったのだと、イサクは思っただろう。


イサクは90歳の母親を尋ねるが、母親は元気だけど、針のない時計を持っていた。


ここには、母にも時間がないが、穏やかに暮らしているという現実があった。


イサクは晴れがましい授与式に出席する。


最後に彼は自分の人生を受け入れる。

納得する。満足する。

人生こんなものだと悟る。

良くないこともあったが,こうしていいこともあった。


イサクはその晩安らかに眠りにつき、のどかな夢を見るのであった。


ベルリン国際映画祭金熊賞受賞。

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