俺の妹が転生したおっさんかもしれない件
荒三水
第1話
「きゃーはっはっは! だよねだよねえ! あはははは!」
壁の向こうから聞こえてくる高笑いが、試験勉強とレポートに絶賛追い込まれ中の俺の耳にグサグサ刺さる。
「はいつぎ、王様だーれだ!」
薄壁一枚を隔てた先には、俺の妹杏(あん)の部屋がある。
今日は勉強会をするといって家に友人を招いていたはずだが、聞こえてくるのはやかましい騒ぎ声ばかりだ。
「きーす! きーす! きゃーはっはっは!」
その中でも、我が妹の声が群を抜いてでかい。いくらなんでも限界だった。
とうとうブチ切れた俺は勉強机から離れると、勢いに任せて隣の部屋のドアを開け放った。
「うるせーんだよ! 静かにしろって言ってんだろ⋯⋯」
「ユミちゃんかわいいね〜? キスしちゃうぞ〜?」
「やだ、もう~」
杏はベッドの上で左右に女を侍らせていた。場にいるのは女子ばかり。まるでキャバクラにいるすべてを手に入れた悪いおっさんみたいなポーズをしている。
突貫してきた俺を見るなり、
「あ、負け組来た」
「誰が負け組だよ! なにやってんだよ!」
「は? 友だちと遊んでるだけだけど? なにか問題あるわけ?」
杏のドヤ顔と一緒に、「なにこの人?」みたいな視線がまわりの女子たちからも飛んでくる。
「どうしたの?」
「加わりたいんじゃない?」
妹の友人たちが耳を寄せてひそひそする。
「なに? 黙っちゃって。なんか文句あるんですか~?」
煽り口調で近づいてきた杏が俺の前に立ちふさがって上目遣いをしてくる。
茶色がかったさらさらの髪。パッチリした目元。容貌は我が妹ながら⋯⋯いや我が妹とは思えないほどに整っている。
六つ下の中学生である杏は、連れ込んだお仲間ともどもイケイケ、キラキラオーラを放っている。きっと学校でも垢抜けたグループに違いない。
いっぽう俺は生まれてこのかた彼女の一人もできたことがないしがない大学生だ。
杏の言う通り負け組属性の俺には、こうやって女子から視線を浴びる機会なんてまずない。相当なアウェイ空間。
勢いに任せて乗り込んだはいいものの、キラキラなオーラにあてられて気後れしてしまう。
「もうちょっと、し、静かにしてね⋯⋯」
なんとかそれだけ言うと、俺はとぼとぼと部屋に逃げ戻った。
しかし数分もしないうちに隣はうるさくなった。俺はたまらず最寄りの図書館に避難することにした。
「かぁ~~。やっぱ風呂上がりは雪◯コーヒーだよねぇ~~」
夕食後、リビングのソファでスマホをいじっていると、スウェット姿の杏が隣に座ってきた。
かすかに漂う湯気からは同じシャンプーを使っているとは思えないぐらいにいい香りがする。あとコーヒー臭い。
「どっこいしょ~~~」
ソファに思いっきり背をもたれた杏は、立てた膝の上にタブレットを傾けて乗せた。アプリでマンガを開いて読み始める。
横目で盗み見ると、不遇なおっさんが転生で追放されて片田舎でどうたら~という長ったらしいタイトルが目に入った。
つい口をついて出る。
「お前、そういうの好きだよな」
「は? 人がなに読もうと勝手じゃん」
「それ、女子が読んで面白いの?」
「不遇だった人がやっと世間に認められるって、誰もが好む王道パターンじゃん。物語の骨子を分解したらやってることは少女マンガと一緒だよ?」
「いやそことそこは一緒じゃないだろ」
「なら具体例を上げて反論してください」
ちょっと言うと何倍にして返ってくる。きっちり理詰めで。
マジで口論強い。不自然なまでに強い。かわいげがない。
「はぁ、女子中学生ならもっと感情で話せよな」
「は? 決めつけきも」
杏はふい、と読書に戻る。ちゃんと感情で話してきた。
ご覧のように俺は妹から嫌われている。
⋯⋯で終わればいいのだが。
「ねえねえ、おにいたまおにいたまー?」
しばらくしてマンガに一区切りをつけた杏は、急に猫撫で声を発しながら顔を近づけてきた。
無理やり腕を絡めてくる。体を寄せて胸を押し当ててくる。
「あのね、杏ね? どうしても⋯⋯ほしいの」
タブレットを見せてよこしてきた。映っているのはゲームの画面だ。
ファンタジー風の格好をした美少女キャラがポーズを決めて微笑んでいる。
「絶対このキャラ人権なんだって! 引けないと無限に煽られる!」
「てかこれって、もう持ってるんじゃなくて?」
「最低でも一凸しないとダメなんだって! あと武器も!」
「おい」
「お兄ちゃんって偉いよね。大学の授業が忙しいのにアルバイトもこなして」
「大学生とかどうせヒマっしょ? モラトリアムがどうたら~とか言ってなかったっけ」
「もう給料出たんでしょ? 今月15日は祝日だから前倒しで入ってるはず」
「兄のバイトの給料日を正確に把握するな」
もたれかかっていた妹の体を押しのける。胸を押し付けると俺が喜んで無茶振りが通ると思っているらしい。
「はぁ~あ、ケチ。ねえ、お母さん今日遅いって~~⋯⋯」
「知ってる」
「⋯⋯今日、ふたりきりだね」
「だからなんだよ」
「久しぶりに一緒にお風呂、入っちゃう?」
「もう入ったでしょおじいちゃん」
兄が妹とお風呂に入りたがっていると思っているらしい。
もしこれが本気で俺のことが好きな彼女とかだったら、キャラの一人や二人課金してあげることもやぶさかではない。全然貢ぐ。
もうはっきり言ってしまうが容姿だけを取れば俺の妹はかわいい。けどそれはあくまで容姿だけ取るなら、という前提だ。
「ぶぇえええーーっくしょい! あー冷えてきた」
今のクソデカくしゃみは俺のくしゃみではない。
杏はコーヒー牛乳をテーブルに置くと、懐から小さい箱を取り出した。中からタバコ⋯⋯ではなく砂糖菓子を抜きとって口にくわえはじめた。錯覚するぐらい手慣れた仕草だった。
「⋯⋯お前、たまにおっさんみたいだよな。実は中身おっさんなんですっていわれても信じるわ」
「あ、バレた?」
杏は何気なく言って、もう一口飲み物をあおった。
「ん? バレたって、なにが?」
「あたし実は中身おっさんなんだよね」
「は?」
「ほんとはお兄ちゃんよりずっと歳上なんだ」
沈黙する俺をよそに、杏はまた飲み物をかたむける。
「⋯⋯どういうこと?」
「なんかこう、うっすら前世の記憶があるって感じ? ていうかおっさんが転生するの、最近じゃわりとよくある話でしょ」
「わりとよくねえよ。そりゃマンガとかの話だろ」
女子中学生のくせにおっさんが転生するマンガを好んで読んでいる。
もしかしたらそれの影響なのかもしれない。魔法少女になりたい厨二病ではなく、転生おっさんになりたい厨二病。
そう思えば少しはかわいげがある。ギリギリなんとか。
かくいう俺も異世界最強のアサシンに憧れた厨坊時代があった。少しぐらい付き合ってやる。
「おっさんから転生って言うけど、じゃあどこの誰でなにしてた人?」
「別に普通のおっさんだよ。30代リーマンで嫁がいて息子がいて持ち家があって犬を飼ってて、こんど娘が生まれる予定で⋯⋯」
「お前それひろしじゃねーか」
「ま、いわゆる勝ち組ってやつ?」
「なるほど、自分をひろしと思い込んでいる精神異常者だったのか」
「だからひろしじゃないっての」
「じゃあ名前は?」
「わかんない」
「設定ガバガバすぎるだろ」
「だからその記憶がうっすらとしか出てこないんだって。なんで死んだかも思い出せないんだけどさ〜⋯⋯でもこうやって美少女に生まれ変われたからラッキーじゃん? 人生イージーモードの学生生活楽しすぎでワロス」
言動はこんなだが外面はいい。
容姿もさることながら、中身もハイスペック。
勉強なんてほとんどしてないように見えるのに、異様に学校の成績はいい。人生二周目って言われても違和感ないレベルで。
「そんなことをみんなにも言って回ってるわけ?」
「ううん、お兄ちゃんだけ。今初めて言った」
「⋯⋯なんで今言った?」
「なんか、ノリで?」
杏はすこぶる真顔だった。俺もつられて真顔になる。
お互い無言のまま、変な間が流れる。
しばらく見つめあっていると、杏は気まずそうに目をそらした。それからころっとわざとらしい笑みを作って、
「ヤダお兄ちゃん今の本気にした? んもうギャグに決まってるじゃ〜ん。お兄ちゃんたら〜」
「そ、そうだよなあ。あはは⋯⋯」
「だいたいこんなおっぱいしたおっさんいないでしょ? ほら、だっちゅーの」
「やっぱおっさんだろ」
やってんなこれ。やってるわ。
「た、たまたまだよ! ショート動画で流れてきたの見ただけだから!」
「流れるか? 今日び」
「もう暇さえあればPiktok開いてる今どきのナウいギャルだよ?」
「墓穴をほっているぞ」
今どきのナウいギャルは今どきのナウいギャルとは言わない。
杏は逃げるようにしてスマホで動画を再生しはじめた。
「にしてもこうやってシロート動画が無料でいくらでも見れるって、すごい時代になったよねぇ~? ⋯⋯なんつってね?」
そのわざとふざけたノリが逆に怪しすぎる。
いやまあ、これまでも思い当たるフシはいくらでもあったのだが、まさか。いやそんなバカな。
「お兄ちゃんが今見ている妹という存在は本当は妹ではないのかもしれないよ? 今しゃべっているあたしが杏という存在を似せて精巧に作られたアンドロイドではないという証明は? 逆にお兄ちゃんの方こそ、自分は転生したおっさんではないという証明をあたしにできるの?」
「いやなんかそういうの持ち出してくるのが怖い」
早口でJCがする言い訳ではない。
「まあその、気のせいかなってぐらいのもんだから。いまはピッチピチの女子中学生だからさ。あんまり細かいこと気にすんなって」
仕事でき上司が部下を励ますようなノリで肩をポンポンしてくる。
きっとおっさん転生コンテンツに触れすぎて脳みそがおかしくなったのだろう。そういうことにしておこう⋯⋯と自分を納得させていると、インターホンのチャイムが鳴った。
杏は「お母さんかな?」と逃げるよう立ち上がった。モニターを確認すると、そのまま玄関に出ていった。
さっきまでの低トーンとはうってかわって、きゃあきゃあとはしゃぐような杏の声が聞こえてくる。
遅くにいったい誰かと、不審に思って俺も玄関口に出ていく。
「ましろちゃんかわいいね~。お手々すべすべ~ぷにぷに~」
杏は来訪客の手をしきりにベタベタ触っていた。
彼女は俺の家の隣の隣に住む楓ましろというちょっとおっとりした子だ。俺と同級生で、いわゆる幼馴染というものにあたる。ましろは俺に気づくと笑顔を向けてきた。
「こんばんは」
「あれ、どうしたの?」
「作りすぎちゃったから、おすそわけ。よかったら直樹くんも食べてね」
「お、おう⋯⋯」
その間、杏はまるで俺に見せつけるように彼女の二の腕をもみもみしている。
二人は昔から仲良しこよしで、杏も彼女にとても懐いている。二人で遊びに出かけたりもする。
⋯⋯とこれまでは微笑ましく見守ってきたが、さっきの話をしたあとだとなんかちょっと嫌。
「ねえねえ、ましろちゃんまたお泊まりきなよ~。一緒お風呂はいったりとかしよ~?」
「あ、久しぶりにいいかもね~。そしたら今度の⋯⋯」
「いや待て」
俺はとっさに二人の会話を遮った。
顔に笑みを貼り付けたままの杏が振り返ってくる。
「なんです?」
「とりあえず一回待ってくれ」
「ん? もしかして嫉妬してるの? あたしたちの仲の良さに」
ましろも「ん?」と一緒になって首を傾げてくる。
けれどここで「こいつ中身おっさんかもしれないんだけど」なんて言ったら俺の頭がおかしいと思われる。怒り出して嫌われるかもしれない。
ましろは冗談でもそういうのあんまり通じないタイプだから。
その後しばらく杏と話をしたあと、ましろは帰った。
杏は先にリビングのソファに戻っていた俺の前に立つなり、腕組みをして目を細めた。
「『おう⋯⋯』だってさ。なにカッコつけてんの?」
さっきの俺の態度のことらしい。
「なんだよ、じゃあなんていうんだよ?」
「うわぁ、ありがとぉ~。お料理おいしそうだねぇ。ましろちゃんもついでにペロッと食べちゃうぞぉ」
「リアルおじ構文やめろ」
「で、いつになったら告るの?」
そのままキスしてくるんじゃないかって距離に顔を近づけてくる。俺はのけぞる。
「ましろちゃん絶対脈あるよ。あたしの目から見ても」
「いや、もうどの目なのか信じられない」
「待ってるんだよお兄ちゃんからのアプローチを。好きなんでしょ?」
好きか嫌いかで言うと好きだ。
というかもうずっと片思いしている。のを悟られないようにしている。はずが杏にはバレている。
「いやでも、そんな風に見えないけどな⋯⋯」
「かぁ~~なっさけない。あのねぇ、やらなかった後悔は一生残るんだよ? たとえ振られようと、そっちのほうが後腐れないってわけ。そういう人が大人になってこじらせるんだよ?」
「まるで実体験のような口ぶりだな……」
「ましろちゃん大学でね、サークルの人から言い寄られてるんだって」
「え、えっ⋯⋯?」
「で、相談されてるんだよね」
だいぶ年下にもかかわらず謎の貫禄があるため、杏はよく相談を受けたりしているらしい。
「ましろちゃんもはっきりしないからさ~。見ててこっちがイライラするんだよねぇ。いまどきのはさ~、相手が好きってわかってないとダメみたいな」
「誰目線で言ってんだよ。てかそっちこそどうなんだよ、人のことばっかり気にしてないでさ」
「いや無理無理無理。同年代の男子とかもうガキ過ぎて、全然ダメ!」
普通に中学生の妹が言いそうなセリフも言えるらしい。
「正直かわいいおにゃのこと遊んでたほうが楽しいよね」
「その言い方やめて? キモイから」
「ましろちゃんがエロ同人に出てくるようなサークルの先輩に寝取られるぐらいだったらあたしが寝取る」
で、あんたはどうすんの? と杏は俺の顎を指でさわさわしてくる。
もちろん返事は断固拒否だ。寝取られて喜ぶような性癖は俺にはない。
杏の計らいで、ましろを含めた三人でお出かけすることになった。
しかし当日杏は体調不良でいけなくなり、俺と二人きりにという筋書き。そこで仲を進展させろとのこと。うまくいったら課金オナシャスとのこと。
俺はましろとともに映画館を出たあと、近くの公園に向かった。
デートコースは杏が決めた。まずは王道の映画。それから二人で静かに語らいをする時間が大事だという。
ましろは人混みとか騒がしい場所があまり好きではない。
それに下手にシャレた喫茶店なんかに入るとテンパって失敗するかもしれない、とのこと。兄のことよくわかってらっしゃる。
「わぁ、お花がいっぱ~い」
俺達は花壇の前にあるベンチに並んで座った。
ちなみにこの位置も杏の指定があった。前もって計画を持ちかけられた。俺はましろからは見えない反対側の耳にこっそりイヤホンをねじこむ。
『あたしがリモートで指示出すからさ、そのとおりにやればいいよ。ドッキリのバラエティとかでよくあるじゃん』
ドッキリと一緒にするなと返したはいいが、やはり女子のことは女子? に聞くべきかもしれない。
俺はその案を飲んだ。我が妹ながら、たまに妙な頼もしさがある。
『映画の感想言って。語って』
さっそく沈黙になりかけていると指示が入った。
「映画おもしろかったね」
「うん、面白かったねぇ~」
会話終了。
こんなことでいいのかと我ながら情けない。
『ましろちゃんはちょっと不思議ちゃんみたいなとこあるから、はっきり言わないとダメだよ! コントみたくなるから!』
キンキン声がイヤホンから聞こえてくる。
杏はこの公園のどこかに潜んで俺たちを観察しているらしい。そんな声をあげたら目立ちそうなもんだが。
『黙ってたらダメでしょ、とにかくなんかつないで!』
仕方なく昨日の晩飯なんだった? とかどうでもいいことを話した。
つなぐもなにも、ケツになにか待っているわけではない。
「そうそう、そしたら醤油とマヨネーズがね⋯⋯」
俺がしたのはなんでもない話だったけど、ましろは楽しそうに笑っている。
これガチで脈ありでは? と疑ってしまう。杏が聞いたら「で?」で切り捨てられそうな話ばかりだったが、彼女が笑っているだけで幸せな気分になる。
『え? で、今の話オチは?』
案の定俺の話にオチを求めてきた。手厳しい。
「あ、ちょうちょ飛んでる~」
ましろが宙を指さした。
そのままちょうちょを追いかけていってしまいそうな声音だ。彼女の雰囲気もさることながら、声を聞くだけでも癒やされる。
おっとりした性格にそぐわず激しい起伏のある胸とかスカートからのびた足がムチムチとかそういう部分が気になることもあるけども癒やしだ。
『あぁんもう、とにかくヌルいんだよ! 刺激が足りない! 視聴者が求めているのはエロスとバイオレンス! そしてその先にあるロマンス!』
とうとうしびれをきらした監督が一人でハッスルしている。するとそのとき、ひらひらとあたりを舞っていたちょうちょがましろの頭に止まった。
「あ、止まった⋯⋯」
ましろのふんわりボブヘアーに目を留める。
それからすぐ近くで目と目があった。俺達はまったく一緒のタイミングで笑った。
『ほら、今! 手握れ! キスしろ!』
聞くに耐えず俺はイヤホンを耳から外した。こんな小細工をしてましろに申し訳ないとすら思った。
しかしこのまま帰ったら帰ったで、杏にさんざん罵倒されるのは目に見えている。
ここはなにかひとつでも、次に繋がる一歩を。
「あ、あのさ。ましろってその⋯⋯す、好きなタイプとかって、いる?」
我ながら脈絡がなかった。
けれど彼女と少しでもこういう色恋っぽい話をするのは初めてだ。ましろはちょっとだけ首を傾げて聞き返してきた。
「直樹くんって、腹筋割れてる?」
「いや、そんながっつり割れてはいないけど⋯⋯」
てっきり優しい人、だとかふわっとした回答が返ってくると思っていたが、返事は斜め上だった。
ましろはいつものふわっとした声で続けた。
「わたし、腹筋割れてる人が好きなの」
「そんなんじゃ割れないよ! おらっおらっ」
リビングのカーペットに寝そべった俺の腹を、杏の足が容赦なく踏みつけてくる。
自宅に帰った俺を待っていたのは、腹筋トレーナーと化した杏だった。
「ダメだこの腹、数日かそこらじゃどうにもならんわ。にしても近頃の若者はルッキズム偏重っての? どうせお腹なんてそのうちみんなぶよぶよになるんだから。気づいたら自分でも引くぐらいたるんでくるんだから」
ぶつぶつ言いながら、杏は俺の腹の上に腰を落ち着けた。重い。
「腹筋割ったら割ったで、どうせ『ただしイケメンに限る』とか言うんじゃないの」
「やっぱ俺に恋愛は無理だわ。なんかもう、いろいろめんどくさくなってきた」
「ほらもう、すぐそうやってあきらめる。こりゃ少子化も進むわ」
「お前だって言ってるじゃん。腹筋なんて鍛えても無駄だって」
「そう思っててもやらなくちゃならないときってあるんだよ。社会に出たらそんなことばっかりだよ」
語気に謎の説得力がある。
「けどましろがあんなこと言うって、ちょっと俺のこれまでのイメージと違ったっていうか⋯⋯」
「出たわね蛙化⋯⋯なにが蛙化だよまったく。じゃあさ、もうあたしと付き合う?」
「は?」
思いもしない提案に間抜けな声が出た。
上から見下ろしてくる目と目が合う。腹に乗っている尻は重たいは重たいのだがそれ以上に柔らかい。股を広げて上に座ったポーズはよろしくないものを連想させる。
「幼馴染に腹パンしてさ」
「⋯⋯どういうこと?」
「俺の妹がこんなにおっさんなわけがない」
「怒られろ」
杏はケラケラと爆笑したあと、すぐにため息をついた。その情緒の変化が読めない。
「んもう、そんなんじゃお父さんも心配で成仏できないよ」
杏は俺の上から立ち上がると、壁際の棚の上に目をやった。そこには今は亡き父の写真があった。
知った風に言うが、杏は親父のことを知らない。
女の子だって。妹が生まれるって。お前もお兄ちゃんになるんだぞって。うれしそうだった。
けれど、親父は杏の顔を見ることなく他界した。帰宅途中の交通事故だった。
「⋯⋯親父は関係ないだろ」
「お父さんはお兄ちゃんのこと、いつも心配してたってお母さんが言ってたよ。なかなかしゃべらなくて甘えん坊で泣き虫で、友達とかもできなくて。そのくせ家ではハイテンションでケツだけ星人とかやってたって」
「やってねえよ」
俺が手のかかる子どもだったのは本当だ。
ちょっと周りより遅れがあるかもって、病院に連れてかれたこともある。ただの引っ込み思案だって言われたけど。
親父がいなくなって、杏が生まれてからは、いくらかマシになった。いつまでも心配かけてられないって、自分なりに努力した。
「⋯⋯お前こそさ、どうなの?」
「なにが?」
「やっぱり会いたいとかって、思ったりする?」
「そりゃ、思うけど⋯⋯無理じゃん」
「ごめん、バカなこと聞いた」
本当にバカなことを聞いた。
けど杏と二人でこんな話をすることなんて、これまでなかった。
「でもね、近くで見ててくれるなって、そんな気がするの。夜寝る前とか、お風呂のときとか、トイレのときとか」
「シチュエーションが限定的すぎる」
「あとたまに夢で変なおっさんの声だけ聞こえてきてさー。なんかずっと語ってくるの、昔話とか武勇伝(笑)とか。まぁ無視もかわいそうだから『そうなんですね~、わ~すご~い!』ってNo1キャバ嬢ばりの神対応してあげてるんだけど。おかげで色々詳しくなったよね」
どこまで本当なのか本気なのかわからない話だ。
杏はソファに身を投げると、部屋の隅にある犬小屋に向かって手招きをする。
「お、起きた。ほら、クロおいで~」
伸びをしながら犬小屋から這い出てきたのは雑種の小型犬だ。
尻尾を振って近寄ってきて、杏の膝の上に駆け上がった。
「よーしよしよし、よしよし」
クロは俺が四歳ぐらいのときに、親父がどこかからもらってきて飼い始めた。
当時は親父にべったりだったが、今では杏に異常なまでに懐いている。一緒にいる時間は杏が一番短いはずなのに。エサだって俺が一番やってるはずなのに。
頭を撫でられて妹に擦り寄るクロの姿は、かつて見覚えのある光景にそっくりだった。父もよくこうやってクロをかわいがっていた。
俺は身を起こして杏に尋ねた。
「あのさ⋯⋯この前のおっさんの転生がどうたらって話なんだけど」
「ああ、それね?」
杏はクロから目を離さずに、こともなげに答える。
「じつはあたし、おっさんじゃなくておばさん⋯⋯お姉さんなんだ。転生じゃなくて、30年後の未来からやってきたの。近現代の歴史研究者なの」
「今度は何のマンガ読んだ」
おっさんからSFに興味が移ったらしい。昔から飽きっぽい。
「じゃあさ、未来でなにがどうなったのかとか教えてよ。株とか仮想通貨とか」
「え? うーんと、それは⋯⋯」
杏はいちど首をひねった。それからなにか思いついたように、人差し指を顔の前に立てて、ウインクをした。
「禁則事項です」
「やっぱおっさんだろ」
「えっ、今のでおっさん言われる筋合いないし! あのダンスとか流行ったでしょ!」
「あれもう十五年以上前だぞ」
「ええっ! もう十五年も前!? 嘘でしょ! てかさ、ネタ全部拾えるお兄ちゃんほうがよっぽど怪しいよね!」
かく言う俺も古いもの好きで、同年代にはおっさんいじりされる。地方のノスタルジー溢れた町並みとか最高。
疑われたらきっちり反論できるかと言うと、自信はない。
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カクヨムコン短編用に書いたのでたぶん続きはないです。
角川様へのリップサービスも忘れないオチ。いや煽ってるとかではなくてね。
ここまで読んだなら評価しなさいよねっ!(古のテンプレツンデレヒロイン風)
俺の妹が転生したおっさんかもしれない件 荒三水 @aresanzui
★で称える
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カクヨムを、もっと楽しもう
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