2001年9月10日(3)

「おはよう」

 コーヒーショップにて、彼はアキヒロに声を掛けた。

 アキヒロは窓際のいつもの席で、頬杖をついて、窓の外の景色を眺めていた。

「今日は、なんかいつもと違いますね」

「え?」

 アキヒロは、その横顔しか見えない姿勢のまま、彼に話しかけた。

 普段なら、アキヒロの方から「おはよう御座います」と彼に挨拶するのに、彼と目線を合わせようともしなかった。

 そもそも普段なら、彼が店に入った時点で、アキヒロの方から目線が飛ばされるはずなのに、この日は彼の方から話し掛けるまで何の反応も無かった。

 これほどまで、普段と様子が違っていたが――

 それでも、彼は、何も聞かなかったかのように、普段通りに席に座った。

 実際彼は、困惑と恐怖で、どうにかなりそうになっていた。彼の心拍数は上昇していき、彼の中で心音は耳障りなほど五月蝿くなっていた。

 人間は、狩猟を行っていた時代の遺伝子によって、未知との遭遇に緊張し、恐怖する生き物だと言われているので、彼の反応は寧ろ生物学的に正しいとも言えるだろう。

 ただ、それにしても、彼は幾ら何でも大袈裟に反応し過ぎだと思わないだろうか? 

 あくまで予測だが、アキヒロの普段と違った行動パターンを目撃したことだけでなく、他に何かしらの内的要因が影響を及ぼしたことは間違い無いだろう。

 彼が席に座って、丁度一分が経った頃。

「少し、質問してもいいですか?」

 先に沈黙を破ったのは、アキヒロだった。正面を向いて、俯いて座る彼をじっと見つめていた。

「はいはい」

 彼は、列に並んでいて突然話題を振られた日のことを思い出しながら、普段通り、ゆっくりと顔を上げた。

 その瞬間、彼は身震いをした。

 アキヒロの目は、普段の表情からは想像できないほど、光を失っていたから。

「今日の朝、偶然道端で聴こえただけの話なんですけど、どうやら、ツインタワーが崩壊させられるとかなんとか。この噂、聞いたことありません?」

 彼は、アキヒロのその厳かな口調から、理解した。

 自分が今、何かの容疑にかけられている、ということに。

「……あー、確か自分の職場でも噂になってました」

 彼はまるで取り調べを受けている気持ちになった。そして、自分は何も悪いことをしていない、と言い聞かせながら、彼は平然と答えていった。

「でもまあ、噂は噂ですよ。信じる方が馬鹿げてます」

 そう言って彼は、黒く濁ったコーヒーを手に取った。そして、少しでも目を合わせない為か、わざとらしく上を向いて、その液体を口に注ぐようにして飲んでいた。

 彼がアキヒロの方を再び向くと、アキヒロはいつもの表情を取り戻していた。

「……まあ、そうですよね。いやー、なんか申し訳無い!」

 その豹変ぶりが、かえって彼には有難かった。

「すぐ疑っちゃうの、悪い癖なんですよね」

「あ、やっぱり疑ってたんですね」

「んー」

 緊張状態を維持することに慣れていない彼は、いつも通りの日常を取り戻したような気になって、内心ホッとしていた。

「いやっ、疑ってたと言うより、疑問を持ったって言った方が正しいですね」

「と、言いますと?」

「……?」

 ただ、油断した獲物ほど、狙われやすいものはない。

「どっ、どうかしました?」

「いや、今日は随分と積極的だなと思って」

 彼は咄嗟に、しまった、と思った。

 彼は普段、アキヒロの突発的な発言に対して、追加の解説を求めることなど一切してこなかった。この噂にだけ興味を示すのは、言われてみれば、極めて不自然だっただろう。

「それは、その」

「もしかして、貴方ユダヤ人だからですか?」

「え?」

 彼は、コーヒーを口につけて、そのまま固まってしまった。

「……実は、丁度、道端で喋っていた人達も、ユダヤ人だったんですよね」

 彼は、コーヒーを置いてアキヒロと目を合わせると、蛇に睨まれた蛙のように、そのまま動けなくなってしまった。

 そして、二人の間に深い沈黙が満ちると、彼の心拍数は上昇していき、彼の中で心音が周囲の雑音をかき消すほど五月蝿くなっていった。

「……やっぱり、何か隠してますよね」

 アキヒロの目には、終始一貫して、純粋さのみが宿っていた。

 疑問を持ったから、それを解消する。至ってシンプルだったが、対人関係においてそれは、望まぬ誤解を招く原因と成ってしまうことが少なくない。

「正直に話してもらえませんか? さん」

 アキヒロはこの時、自身の疑問を解消すること以外を求めていなかった。言い換えればこれは、疑問を解決する為にだったら何でもする、ということだ。

 アキヒロがやっていたのは、彼を動揺させ、ボロを出させ、追い詰めること。

 人はこれを、尋問と呼ぶ。

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