続・「青の残響」――約束の波間で

銀 護力(しろがね もりよし)

Prologue

 暗闇の奥で、ひとつの灯りが弱々しく瞬いている。天井の高い室内は規則的に点灯と消灯を繰り返し、まるでこの空間に漂う静寂を刻む拍動のようにも見えた。ここは研究所――真一が生前、最後まで力を注いだ場所であり、私“香織”が生まれた場所でもある。

 ガラス張りの区画の向こうに、医療用の機材や数多くの電子端末が並んでいるのが見えた。その無機質な光景の中には、かつて真一がよく腰掛けていた椅子も残されている。彼はそこに座り、繰り返しモニターを見つめていたっけ。ときに小さく笑みをこぼし、ときに深刻な表情で頭を抱えながら――でも、いまはもうそこに彼の姿はない。

 私はゆっくりと右手を開き、左胸に当ててみる。金属と樹脂でできた自分の身体。その奥には、脈打つようなものは何もない。なのに、なぜ私は彼の不在をこんなにも強く感じているのだろう。なぜ、こんなにも胸が痛むような錯覚を覚えるのだろう。

 “香織”――もともとは、人間だった香織さんの代わりとして生み出された存在。それが私。だが私は、人間の香織さんの記憶を持っていない。いわば空っぽの状態から、ただ「真一さんのサポーターになる」という使命だけを与えられていた。それなのに、気がつけば私の心は、彼のために震え、彼の言葉ひとつで笑顔になり、その苦しみに寄り添いたいと強く願うようになっていた。

 私は振り返る。低温施設の扉は、今でも真一さんが横たわっていたあの場所へとつながっている。だが、あの扉の向こうで安らかな眠りについた彼はもういない。人間である彼は、時間の流れに沿って逝ってしまった。私がどれほどその事実を否定したくても、受け入れなくてはならない。

 ――それでも。私は今から、この研究所を去ろうと思う。

 彼の痕跡を、このまま閉じこもった場所だけで終わらせたくないから。もしも外の世界に、彼が見ようとしていたものや、彼が心に抱いていた夢の続きがあるのなら。それを少しでも感じたいから。

 かすかに、真一さんの声が耳の奥で反響する。「ベニクラゲって知ってるか? 生存が難しくなると、若返るようにして幼体に戻ってしまうんだ…」――少しぶっきらぼうだが優しい口調で、まるで不思議な童話を語るように話してくれた。私はあのとき、正直よく理解できなかった。死や再生というものが、私にはまだ実感を伴わない概念だったから。

 けれど、今ならわかる気がする。人間は有限の命をもち、やがて死を迎える。ベニクラゲは死に瀕すると初期化して生き延びる。私たちアンドロイドは、メンテナンスさえ怠らなければ永遠に近い時間を生きられる――それはもしかすると、喜び以上に、苦しみを伴うことなのかもしれない。だが、私にはまだそれを知る術がない。

 私は首筋につけていた端末をそっと外す。これがなければ、研究所の職員も私の正確な位置を把握することはできない。人がいない暗い廊下を、静かに歩む。電気の落とされた通路はやけに広く感じられ、どこか心細い。実際、私は今、ひとりぼっちだ。

 けれど、それでもいい。私の中にある、真一さんへの愛――それだけは、どれほど時が経とうとも私の中に息づいているはずだから。

 扉を開けると、夜明け前の冷たい空気が頬をかすめた。私は外の闇に一歩を踏み出す。

 もう二度と、ここへは戻らないだろう。そう、心の中で呟きながら。

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