第4話

 綾音は部活には参加していなかった。

 そのかわり、今年度の生徒会の会長という役割を担っていた。

 そして綾音の手引きで、文代も生徒会役員の書記というポジションを任せられた。


 もともと賢い文代は、その期待に十分応えるほどの働きを見せてくれた。

 それもこれも綾音さまの力になりたいという一心でのこと。


 


「おさきに失礼いたします。綾音様」

「ごきげんよう」


 厳かな空間が広がる生徒会室。


 生徒会の会議が終わり、役員たちは次々と退出していく。

 最後まで残るのは生徒会長の綾音と、書記の文代。

 これもいつもの光景だった。


 最初は周りの者も、綾音に気を使って先に帰るようなことは出来なかったが、いつしか意図的に残ろうとしているような思いが垣間見え、気を遣いっては二人を残し、下校するようになった。


 議事録を取りまとめる書記の文代は、どうしても最後まで仕事が残ってしまう。

 それを見守る綾音。


「フミ? あとどれくらいで終わりそうなのかしら?」

「は、はい。あと30分ほど頂ければ……」


「そう。ではここで待ってますから」

「申し訳ありません」


 こうして広い空間に文代のペンを走らす音だけが響く。

 それを聞きながら、お茶を飲み黙って座る綾音。


 もうそろそろ、その時がやってくる。


 腕時計をチラッと確認して、文代に目を向ける。

 集中力を切らした文代は、必ず隠し持っている文庫本を取り出し、読み始めるのだ。

 そしてまた一人だけの世界へと旅立ち、気がつくと日も暮れ、仕事も終わっていないということが多々あった。


 何度もそのことで綾音から叱られていたが、小説を読むこと、こればかりはやめられないのであった。

 綾音にも本当に止めさせようという気持ちはない。

 もし文代に改善されたら、この大切なフミ鑑賞会を失ってしまうのだから。


 そしてついに文代は綾音の目を盗んで、書類をまとめるふりをして文庫本を取り出し、禁断のページを開いてしまう。


 それを気付かないふりで横目で眺める綾音は、フフッと鼻で笑う。

 文代は仕事を放棄して、小説の世界へと旅立つ。




 日も傾き、赤い光が生徒会室を照らす。


 そろそろ頃合いかしら、と綾音は文代の後ろへと回り込む。


 熱心に読み進める文代の背後から、腕を伸ばしそっと抱きしめる。


 顔を髪に埋めると、安物のシャンプーの石鹸の香りが鼻を包む。

 小さな胸が呼吸によって上下する。

 人形のように黙り込んでいるが、たしかに心臓の鼓動が一定のリズムで鼓動しているのが分かる。

 顎を文代の肩に乗せ、横顔を覗き込む。

 こんな事をしても気付かない。


 愛くるしい少女の顔を、視線で撫でるように弄ぶ。


 耳に息を吹きかけても、

 耳たぶを軽くかじってみても……

 微動だにしない。


 そうして、

 文代の真っすぐ向けられた視線を追っていく。

 そこには規則正しく並んだ文章が並ぶ。

 単なる文字の羅列に過ぎない無機物の文庫本。

 それに意識が吸い込まれるくらい夢中になる文代。


 私にでさえも、このような熱い視線を向けることはないというのに。

 私といても、これほど魂が吸い込まれるほど、魅了されることはないというのに。


 なのに……


 これは嫉妬だ。


 その感情は綾音にも十分承知していた。

 醜く敬遠されるべき負の感情。


 完全無欠のお嬢様にも、その感情は生じた。

 あろうことか、綾音は人でも動物でもない、書物に対して……


 抱き締める腕に力がこもる。

 強引に文代の体をこちらに傾けると、唇を重ねた。

 目覚めさせるように、下唇を軽く甘噛みし揺さぶるようにして。


 程なくして意識を取り戻した文代は、あっ! っと小さな叫び声とともに、掛け時計に目を向ける。


 もうこんな時間!

 またやってしまった!


 という後悔が全身を包む。

 そして眼前の視界に見当たらない綾音さまのお姿。


 もしかして愛想つかされて先に帰られてしまった!?


 焦燥感に駆られ、綾音を追いかけようと慌てて席を立ちあがると、椅子が後方の何かにぶつかり止まる。


 振り返るとそこには、窓の外を眺める綾音さまの姿が……


 沈みゆく夕日に照らされて、輪郭が炎のように燃え上がるそのお姿が、まるで不動明王のように怒りで満ちているかのように文代には見えた。


 鳴き声に近い声で、


「あ、綾音さま……?」


 と、絞り出す。


 声に反応し、綾音が長い髪を鞭のようにしならせながら振り返る。


「もう……こんな時間ね」


 抑揚のない声。


「も、申し訳ありません! わ、私!」

「以前あれほど忠告したわよね。ここで小説を読むようなことはしないと」


「は……はぃ」


 文代はまるで余命宣告を受けたかのように、顔を湿らせる。


 綾音さまに見放されたら。

 生きてはいけない。


 まさに本当に余命宣告。


「フミにとっては、私よりも小説の方がそんなに大切なのかしら?」

「い、いえ! 決してそのような!」


「では私と小説と、どちらか一つを取るとしたら?」

「そ、それは……」


 もし猫耳が生えていたならば、ペタンと塞ぎ込むくらいの怯えよう。

 小刻みに震える体は、これ以上揺らすと、目に溜まった涙が溢れんばかり。


 私と小説、どちらか一つ選べるはずがない。

 そんなことは綾音自身も知っている。

 だからこその問い。


 わざと意地悪をし、文代の困り果てる姿を見て、愉悦に酔いしれるのだった。


「そう、なら仕方ないわね。それ相応の罰を受けてもらいましょうか」

「はっ!? は……ぃ」


「私がよいというまで、口を開いて言葉を発してはいけません」


 返事をする代わりに、必死に顔を縦に振る文代。


「よいこと? ほんの数分、口を開かないこと」 


 夕陽が逆光とになり綾音の表情は怒っているのか悲しんでいるのか分からない。

 叱られた子犬のように、上目遣いで様子をうかがう文代。


 なにをされても致し方ない。

 自分は綾音さまを裏切ったのだから……


 覚悟を決めた文代に、ゆっくりと綾音の顔が近づいてくる。


 いつ平手打ちがきてもいい覚悟していた文代。

 しかしその素振りも見られず、拳の代わりに美しいお顔が迫りつつあることに怯える。


 息を呑むほどの眉目秀麗。

 止まる様子もなく、一直線に襲ってくる。


 そして遂に、恐怖よりも困惑が上回った瞬間、思わず叫んでしまう。


「あ、綾音さまぁ! お顔が! 顔が!!」

「誰が口を開いてよいと?」


 海老反り体勢で回避しようとする文代の両肩は、いつの間にか綾音に掴まれていた。


 容赦なく近づく唇は、真っすぐ文代の口を捕食しようと迫っている

 まな板に載せられた魚のようにもがく文代。


「んっ! んん~〜!!」


 固く閉ざした口の奥から、声にならない唸り声を上げる。


 その悲鳴に蓋をするかのように、


 そっと、


 綾音は文代の唇を、


 啄んだ。


 文代の体がビクンと飛び跳ねる。


 まな板の上の魚は、心臓を一突きされたかのようにピクリとも動かなくなる。そして死んだそれのように、大きく見開く瞳には光なく濁ってゆう。


 綾音には刹那でも、文代には永遠とも感じる時間。


 綾音の唇は、ゆっくりと文代を解放する。

 その湿った唇からは、柔らかい言葉が流れ出す。


「フミ、また今度、同じことしたら、もっと厳しい罰を与えますからね」


 文代は夕陽のように赤く、熟れたトマトのようにぐちゃぐちゃな顔を、何度も縦に頷く。


 恥ずかしくて、小説があったらのめり込みたい。

 この現実から一刻も早く逃れたかった文代は、机に投げ出された文庫本を拾うと、ペタンと力なく椅子に腰かけ、そのグルグル回る目を使って小説を読もうとする。


 しかし小説への逃避はできない。

 何故ならば、本が上下逆さまで読むことすらままならないからだ。

 狼狽してそのことに気づかない文代は、それでも必死に文字を目で追うのだった。


 その滑稽な姿が、狂おしいほど愛おしく思えて、綾音は恍惚とした表情を隠しきれない。


 文代にとってはファーストキス。

 ロマンも感傷も何もあったものじゃない。

 ただただ、恥ずかしさでいっぱいで、なにか柔らかいものが触れた感触しか思い出せない。

 あとは目の前に迫ってくる、麗しき綾音さまの顔。

 それを思い出すと、頭の中に夕日が落ちてきたかのように熱く、意識が真っ白になり、顔を隠すように文庫本で覆う。


 綾音にとっては、毎日の日課に過ぎないこの行為。

 ただいつもと違ったのは、

 いつもの潤い満ちた甘い唇ではなく、

 まるで古書店の本棚に長年鎮座してある埃に埋もれた文庫本の、

 あの赤茶色に日焼けしたパラフィン紙の様に、

 ほこりっぽくパサつき、

 そして、

 苦い味がしたのであった。







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文学少女の唇は、ヤケたパラフィン紙の味がする 夜狩仁志 @yokari-hitosi

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