培養の時代 - 豚骨物語

イータ・タウリ

第1話 消えゆく香り

 博多随一の屋台街として知られる「夜明け横丁」の朝は早い。まだ街灯が淡く光る午前四時、私は「ラー麺豚吉ぶたよし」の厨房で豚骨スープの仕込みを始めていた。


 大きな寸胴鍋に豚骨を並べ、丁寧に血抜きをする。白濁した湯を何度も取り替えながら、骨から不純物を取り除いていく。この作業を疎かにすると、スープの透明感が失われる。


 2045年の今、この光景を目にすることは稀少になっていた。培養肉が一般化して久しい。スーパーの精肉コーナーは培養肉パックで埋め尽くされ、従来の畜産農家は驚くべき速さで姿を消していった。


「資源効率が良く、環境負荷も少ない」

そううたわれる培養肉は、確かに理にかなっていた。タンパク質の含有量は天然のものと変わらず、味も遜色ないという。だが、骨からじっくりと旨味を引き出す豚骨ラーメンに、培養肉は無力だった。


「大将、いつもの」


 朝一番の常連、田中が声をかけてきた。システムエンジニアの彼は、始業前に必ず立ち寄る。カウンターに座る彼の鼻が、ふと動いた。隣の「らーめん万杯日まんばいび」から漂う香ばしい匂いに反応したのだ。


 私と山岡は二十年来のライバルだ。同じ博多豚骨へのこだわりを持ち、互いを高め合ってきた。かつてこの通りには十軒以上の豚骨ラーメン店が軒を連ねていたが、今や本物の豚骨を使うのは私たちだけになっていた。


 山岡の店の前には、今日も行列ができている。彼の豚骨スープは最近、より力強い風味を帯びるようになった。その理由を、私は薄々感じていた。


「申し訳ありません、中村さん」


 その日の午後、最後の仕入れ先だった古賀養豚場から電話が入った。受話器の向こうで、三十年来の付き合いである古賀の声が震えていた。


「うちも...培養肉施設に切り替えることになりました。補助金の関係で、来月には...」


 受話器を置いた私の手が震えていた。残りの在庫は、あと一週間分。注文は相変わらず多い。このままでは店を続けられない。


 夜、カウンターで燗酒を飲んでいると、刑事の木村が制服姿ではない普段着で入ってきた。彼は黙って隣に座り、ちびちびと酒を飲み始めた。


「中村さん、山岡のとこの豚骨、知ってます?」


 私は首を振る。彼は周囲を確認するように視線を巡らせ、声を落として続けた。


「闇ブローカーから仕入れてるんですよ。密輸品です。中国やベトナムの養豚場から、違法なルートで」


 グラスを見つめながら、木村は言葉を選ぶように話を続けた。


「でも、あまり深入りしない方がいい。最近、新しい組が入ってきてて、縄張り争いが...」


 私は黙って頷いた。グラスに注がれた酒が、店の照明を反射して揺れている。その光の揺らめきを見つめながら、私の心の中では、すでに決意が固まっていた。


 明日の営業を終えたら、あの世界の人間と接触しよう。


 カウンターの向こう、厨房では豚骨スープが静かに煮立っていた。泡立つ白濁したスープの表面に、私は不確かな未来を見ていた。

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