ノー・サンクチュアリ
籠三蔵
第1章 発狂屋敷
――これは真実にして嘘偽りなく、確実にして最も真正である。
下にあるものは上にあるもののごとく、上にあるものは下にあるもののごとくであり、それは唯一のものの奇蹟を果たすためである。(エメラルド・タブレット)――
前奏曲
大音響と共に、ホールの天井には、無限の深淵が広がっていた。
やがて、その暗闇の中に、冒涜的な銀色の稲妻が明滅し、黒雲のようにしなり、たわむ闇の合間に粘着的な肌色の触手がうねうねと這い回るのが見えた。
その部屋の中央にあったテープルの脇で、スーツ姿の女性がそれを見上げて凄まじい悲鳴を上げた。彼女の手元には「ウィジャ盤」と呼ばれる降霊術に使用されるプレートが置いてある。四方に置かれているのは蝋燭が点された燭台。
カメラを構えたスタッフらしき男性も、照明のラフ板を抱えていた助手も、変貌したその天井を見上げ、呆然としている。
「何よこれ、一体どうなってるの!?」
薄暗がりの部屋の中で、さっきの女性の金切り声が響き渡った。
「渡辺さん、どうなってるの!?ここには何もいないんじゃなかったの!?」
詰め寄られた責任者らしい口髭の男性も、その目に驚愕の色を宿しながら、黒雲と化したその天井を見上げて呆然とするばかりだ。
「……そんな馬鹿な、そんな馬鹿な……」
地響きの様な唸りが床下から聞こえて来る。同時に、外廊下を大勢の人間が走り抜けるかの様な足音が響き渡った。どこからか聞こえる無数の笑い声。
大勢の人間のぺちゃくちゃ喋る声。
「『発狂屋敷』の噂はデマだって、渡辺さん言ったじゃないの!?」
「そんなワケ、そんなワケないんだよ!」
女性に詰め寄られた責任者らしい口髭は、
「だってオレ、下調べでここに泊まり込んだけど、何も起こらなかったんだよ!」
ADらしき若い男性が、思わず悲鳴を上げた。
「だから言ったじゃないか!!」
頭を両手で抱え、震え蹲っていたADは、涙目で大声を張り上げる。
「ここは祟られてるんだよ!!蒸発した青木夫妻の呼び出しだ何かが『この地』をうろうろしているんだってば!だから、あんなに行きたくないって言ったのに!」
殆ど同時に、けたたましい女の笑い声が響き渡る。
薄暗い回廊の向こうから歩いて来るのは、長い髪の毛を前に垂らし、両手をだらりと下げた白いワンピースの姿の女幽霊だ。全身をロボットの様なぎこちない動きを繰り返し、屋敷の床を滑る様にして、狂った笑いを刻む頭部を揺らしながら、こちらへと迫ってくる。
白目を剥いて、がくがくと首を傾けながら。
ふと見れば、左側の扉がガンガンと叩かれ、そこをぶち破り飛び出して来たのは、山刀を右手に持ったホッケーマスクの怪人だ。
再び女性の悲鳴が上がった。
吹き抜けとなったそのホール二階の回廊部分に。ズラリと人の姿がある。
どれもこれもが、酷く痩せこけて、ぼろぼろの衣服を゙纏い、地獄の底から響いて来る様な、不気味な唸りを発している。
黒々とした深淵へと繋がる天井付近から、何かが垂れ下がって来た。吸盤の様な円盤形の口蓋に無数の牙を備えた、蛭のような怪物だ。
ひいっと女性が悲鳴を上げる。カメラマン助手が手近にあったライトスタンドをひっつかみ、それを逆手に振り上げて触手を叩いた。
咆哮。牙を剥いた怪物は助手を頭からひと呑みすると、天井の闇の中へするりと引っ込んだ。彼らが息を呑んだその刹那。
ホッケーマスクが手にした山刀を振り上げて、渡辺と呼ばれた男に斬り掛かる。
「うげっ!」
肩口を切られて髭男が仰け反る。その後ろからカメラマンが機材を収納するジュラルミン箱を、思い切りマスクマンの後頭部へと叩き付ける。
「ひゃ、ひゃあああああああーーーーーーっ!」
若いADが、恐怖に耐えられず、左手の廊下の闇に走り出す。
「あ、小早川、待て……!」
肩口を押さえてその後を追おうとした髭の首に細長い十指が絡み付く。
さっきの女幽霊だ。両眼を見開いて、厭らしい笑みを浮かべながら背後から髭男の首を渾身の力で締め上げている。
「ぢ、ぢぶぶぅ……」
唇から声とも空気の抜ける音ともわからぬ音を立てて、髭男は幽霊に抱えられ、両手をばたつかせ喚きながら、背後の闇の中へと引き摺られて行く。
「いーひひひぃひひぃひいいいひひひひひぃいぃ……」
スーツ姿の女はその場にへたりこんでしまい、ただ悲鳴を上げるばかり。
その眼前で、カメラマンの男が六本足の生えた無数の中年男の首に襲われて全身を齧られている。ホッケーマスクが立ち上がった。片手には部屋の調度品である、重たいキャビネットが抱えられていた。
「ひいっ、やめろ、やめてくれぇぇぇぇぇぇ……!」
全身を中年男の群れに齧られていたカメラマンに向って、天板を下にしたキャビネットが振り降ろされる。
ぶじゅっ……。
そこで画面にはノイズが走る。どうやらカメラが三脚から落ちたらしく、ひたすらその部屋の一角を取り続け、悲鳴と笑い声が響き続ける。そして画像は唐突に止まる。
室内の灯りを落とした、その真っ暗な部屋の中で、ベットの上で膝を抱えたネグリジェ姿の女はブルーレイディスクのリモコンをオフにする。
画像が止まり、そこはごくありきたりの女性向けワンルームマンションの一室。
「ナナさん、一体この場所で何があったって言うの?」
女性はそう小さく呟くと、ディスクトレイを開いて、その中からCD・ROMを取り外し、傍らのケースに仕舞い込んだ。
そして何かを決意したかのように傍らのスマホを取り上げると、画面の上に、慣れた手つきである電話番号を叩いた。
「あ、菅原さんですか?その、例の方の事なんですけど、ご紹介願えますでしょうか?ええ、ええ、費用が高いっていうのは聞いてます。ええ、ええ。はい。その件も含めまして。そうですか。どうぞ宜しくお取次ぎ下さいませ。はい、お手数お掛けしました……」
虚空を見据える女性の瞳には、何かの決意が漲っている。
砂嵐と化した液晶画面が、そんな彼女の横顔を薄闇の中で影絵の様に彩っていた。
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