今日もふたりごと

有ノ木 こはる

今日もふたりごと

「今日の金ローなにやると思う?ハリポタよ、ハリポタ」

 普段は食料品売り場しか利用しないショッピングモールの1階にあるレストランエリア。その中でもいつも通りがかっては今度行ってみようと夫と話していた洋食屋で優雅なランチと洒落込もうとした平日の午後のことだった。

 テーブルのタッチパネルで注文を終えた瞬間にふぇ、と娘の泣きエンジンがかかり出した。ベビーカーの娘をのぞき込むと下唇を突き出して涙目になっている。今にも泣きだしそうだ。

 ベビーカーの対面から左隣りに場所を移動し6キロ近くなって重みを増した娘を抱き上げ、自分の膝に座らせて左手で上半身を支える。

「あのダニエル・ラドクリフよ」

 娘は呆気に取られた顔をして私の口元を眺めている。

「え、ダニエル・ラドクリフ知らない?ほら、こないだアマプラで見てた」

 首の据わらない生後3か月の娘にハリーポッターの基礎知識を語りかけていると少し離れたテーブル席の老夫婦から視線を向けられた、気がした。

 変な母親だと思われているのだろうか。それとも思っているより声が大きかったか。

 娘とふたりで出かけているとどうしても娘に集中してしまい周りが見えなくなりやすい。改めて店内を見回しそこまで混雑していないこと、子ども連れの客が他にもいることを確認しもう少し娘の顔の近くで話すように心がける。


 娘が生まれた直後こそ、かわいいと褒めちぎって彼女の表情、動きのひとつひとつに反応していたものだったが、それも毎日やっていると疲弊している自分がいた。

 育児アプリでも育児書にも発達を促すために乳児には積極的に話しかけよと書いてあり、スマホで検索すれば話しかけなければ成長過程にどんなリスクがあるかと不安を煽る記事が出てくる。

 けれども、それらの情報が「話さなければ」という義務感を生み、彼女への語りかけが機械的になっていることにはたと気づいた。

 どんなにたくさんの時間をかけたとしてもこれでは本末転倒だ。

 そこで私は「赤ちゃん相手に話す」という前提を崩すことにした。

 

 料理が届き、一旦娘をベビーカーに置いて食事にありつこうと試みるも、置かれると勘づくや否や苦悶の表情を浮かべながら「泣くぞ」という脅しをかけられ再び抱き上げる。

「ご飯食べてよろしい?」

 目の前に置かれたポテトグラタンとミートボールを指し示し、左手で娘を支えながら皿を手繰り寄せながら声をかける。大人しくしているタイミングを見計らってスプーンを取り一口分をすくって口に運んだ。

 子どもが生まれてから外食のありがたみを余計に感じる。食事そのものというより、作る工程や提供、下げ膳、洗い物の労力がかからない点において特に。

「今日野菜安いかなー、最近キャベツ高すぎじゃない?」

 この後向かうスーパーで買うものを思い浮かべていると娘があうあうと発声した。

「そう。今度卵も値上がりだって。どうする?最近なんでも高いよね」

 助産師や保育士がするような赤ちゃんとのコミュニケーションは自分にとってはハードルが高かった。乳幼児を相手にする専門家たちはどこかディズニーランドのキャストを彷彿とさせる声量、テンションの高さ、前向きなエネルギーを持っていて、それを素人親である自分が四六時中続けるなど到底無理な話だった。

 それなら友人と話すように娘に話せばいいのではと考え方を変えた。

 はじめはぎこちなく天気の話などをしていたが、少しずつ話題も広がり今や世間話ならなんでもござれ。朝見たニュース、今日作る献立、予防接種のスケジュール、服やコスメの話題まで。「赤ちゃん目線」で話す母親という理想を演じることを辞めると育児そのものも楽しめる余裕が増えてきたように思う。

「何ヶ月ですか?かわいいー」

 テーブルに置かれた調味料の補充をしに来た店員に話しかけられて一瞬たじろぐ。

 乳児を抱きながら食材の価格高騰をひとりごちているようにしか見えない母親を見かねて声をかけてくれたのだろうか、と自意識過剰な推測が頭によぎった。

「えっと、3ヶ月です」

「わあ、そうですよね、ママと話して笑ってるもの」

 50代くらいの女性店員は顔を綻ばせながら塩の入った瓶を交換すると、ごゆっくりされてくださいねと娘に向かって手を振りながら厨房へ去っていった。

 きっとあの人は子育ての経験があるのだろう。ひょっとしたら孫がいたりして。

「かわいいって。嬉しいね」

 娘は両手をばたばたさせてから小さなあくびをした。

 言葉を話さず意思疎通がほとんどできない存在と常に行動を共にしていると時々自分が社会から切り離された感覚になることがある。娘と世間話をするようになったのはその孤独を紛わすためだけなのかもしれない。

「さあて、買い物に行きますかね」

 最後の一口を飲み込んで、眠そうに顔をこする娘をベビーカーに寝かす。置いた途端に目を見開いた娘と目が合い、彼女の表情が曇った。

 まずい、泣く。

「え、嫌なことしてないよ?ちょっと落ち着いて考えてみて?ほら、ここベビーカー」

 咄嗟に話しかけると娘は驚いた顔をして、ベビーカーのフードを見やった。

「そうそう。ここベビーカー。あなたの専用車」

 娘は気が逸れたらしくはふはふ、と短い呼吸と共に足をばたつかせる。

「もーびっくりしたのはこっちよ。あれ、ここってタッチ決済いける?」

 あい!とちょうどいいタイミングで返事が返ってきて思わず吹き出す。きっと本人は話の内容を理解していないけれど、この掛け合いがはまった時が面白くてやめられないのだ。

 娘と話したいこと、語り合いたいことは山ほどある。相互的なコミュニケーションが取れるようになるのはしばらく先だが、今はその予行演習と思えばいい。

 伝票を取り上げてマザーズバッグから財布を引っ張りだし、ベビーカーの車輪ロックを外して進み出す。

 滑稽に見えたとしても、育児書通りでなくても、私は自分なりに我が子との時間を楽しんでいる。この日々の積み重ねを後悔することはないだろう。

 


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