第3話 ラカリズ村2 遭遇
小さな水の球体がいくつも宙を漂い、弾けた。球体状を崩した水は水滴を地面に降らせた。
見上げた先にある、頭上の空には無数の木々から伸びた木の葉が埋め尽くしていた。
それでも太陽光は緑の隙間を掻い潜り、地上に降り注いでいる。
ここはラカリズ森の中だ。
大きな岩の上であぐらをかいて、オスカーは己の手のひらを見つめている。
「
オスカーはそうつぶやいた。
すると片手のひらの上に水の玉が生まれ、空へ向かって勢いよく上昇を開始した。
周りの木々にぶつかることなく水の球体は空まで到達し、爆散する。
オスカーは新たな言葉を紡ぎ出す。
「広がりゆく水は、雨の形を創り降りそそぐ」
先ほどの水の球体は魔導と呼ばれる、奇跡を起こす力によって生み出されたものだ。
世界を構成する力である魔力。その魔力をさまざまな手段で導き、奇跡を巻き起こす行為、それが魔導である。
オスカーが今行っているのは魔導行使の一つである呪文詠唱だ
ついさっき空で弾けた大きな水の球体が四散し、形のない液体として高所から落下してしまうよりも早く――広がりゆく水はやがて地に降りそそぐ――この詠唱に従って水が形を変え、オスカーが最後に発した「イズメアーレ」という詠唱の完成によって魔力の雨となって周囲に降りそそぎ始めた。
この瞬間。
この雨が降った空間における魔力の優位者はオスカーとなった。
広大な世界の中にオスカーの魔力による小さな魔力場が浮かび上がったのだ。
だが徐々にオスカーから広がった魔力の場は、世界を行き交う自然魔力に溶け込み薄まっていく。
「地に落ちた水は、蛇の形を創り放たれる」
新たな詠唱が紡がれた。
その言葉に従い、先ほど地に落ちた水のほんの一部が、体を伸ばした蛇のような一筋の線へと姿を変えていく。
「スピード・ヘスヒネーク」
オスカーが一点を指差しそう叫ぶと水の蛇は頭上の木の葉へと矢のようになって飛んで行った。
数舜後、水の蛇が空で消失する。
代わりに舞い落ちてきた無数の木の葉と、青い果実が一個。
「ナイスキャッチ!」
青い果実だけを手で受け止めてオスカーは皮ごと齧りついた。
「――ぐッ」
この青い果実はスパイレと言った。
あまりにも酸っぱいため食用とはされていない。
それでも無理矢理完食するとオスカーは遠い目をした。
「おえ……いつか旅立つ時は町までこういうので食いつなげりゃあいいわけだ……おえ……げふ、うん無理だッ!? やっぱ候補としては虫のほうがいいか」
ぜえはあ、と息を継ぎ足しながらオスカーは片手のひらを前に出す。
「水はここで生まれ――」
手のひらの上に生まれ始めていた水の塊が、木枝との繋がりを失った木の実のように宙から落下していく。
詠唱を中断したからだ。
オスカーは手を差し出し果汁で汚れた肌をその落ちてきた水で洗った。
ふと我に返ったようにオスカーはずぶ濡れの上着を脱いだ。
先ほどの魔導術で降らせた雨。
そのせいで濡れ冷えた体を寒そうに震わせた。
石をぶつけられたり、蹴られたりした時についた傷跡に痛みが走っていた。
「ッ、ぶあっくしょん!」
咳き込んだオスカーの耳に笑い声が聞こえてきた。
周囲に散乱する森の緑の中からだ。
その何者かの声に、オスカーは驚き隠れようとした。
だが足音はすぐに近寄って来た。
「ごめんなさい。驚かせてしまったかしら?」
そう言いながら森の木々から現れたのは二十代ほどの大人の女性だ。
「……アンタ何者だよ? 見かけねえ顔だが?」
オスカーは凝視する。
警戒心が顔に現れていた。
灰色のローブに身を包んだ女性は長い黒髪を揺らして、呆れ顔を向けてくる。
「君こそ何者よ?」
寒さで震えながらオスカーが答えた。
「俺は森の外にあるラカリズ村の住民だ。こっちは答えたぜ? そっちは何も答えねえのかよおばさん?」
オスカーの鼻穴から鼻水が垂れてきた。
女性は笑った。
「私が何者かはさておき、ずいぶんと寒そうじゃない?」
とそばまで近寄って来て、その細く白い手のひらの上に彼女は「
生み出された火球を中心に途端に暖かくなっていく周辺の気温。
女性から漂う強い香水の匂いに、オスカーは怪訝な目を浮かべた。
――強い匂い……? 解放人や魔導師なら匂いを消すための薬を塗るはずだろ? ……なんで逆に香水つけて森に入って来てやがんだこの女……。
「ふーん?」
女性がオスカーの顔の位置までかがみこんだ。
瞳を合わせてくる。
鮮血のような真っ赤な瞳だ。
火球は宙に置き去りにされて浮かんでいる。
視界に映りこむ熱の色が女性の周囲を暖色に染めている。
女性はすらすらと言葉を並べ立てた。
「……ご明察の通り私は解放人よ? 今はあなたの暮らしている村の人から依頼を受けて、この森の調査を行なっているところね」
灰色のローブの中から虹色の花のマークが描かれた解放人身分証を取り出して見せつけてくる。
魔物討伐などを請け負う解放人ギルドの紋章だ。
叔父の家に上がり込んできた解放人の事をオスカーは脳裏に思い浮かべた。
「あんた一人だけで森ん中に?」
「いいえ。私のほかにも五人のパーティーメンバーがいるの。私たちはあえて夜のうちから調査を行なっていたのだけど、流石に都市から村へと向かう道中での疲労もあったわ。五人は一度休憩するために村へ戻って、私一人で居残り調査を進めていたところよ?」
女性は満面の笑みを浮かべる。
「私は魔導師だけど
オスカーは緑髪を掻いた。
「なんとなくは……あーでもそんなことよりだ。おばさんは、自分のパーティーメンバーが泊ってる宿の場所知ってんのか?」
「……さあ?」
「駄賃くれるなら案内してやってもいいぜ?」
「本当? でも私まだもう少しだけこの森で調査を続けていたいのよねー」
女性はずっと面に乾いた笑みを張りつけたままだ。
「君はこれから村へ戻るつもりなのかしら?」
「う――!?」
オスカーの新緑色の瞳は、女性の長い黒髪の奥に隠された額に浮かび上がる銀色の傷跡を捉えていた。
その銀色の傷跡が、頻繁に蠢いているように思えて仕方がなくなった。
途端に、女性が身に纏う雰囲気が恐ろしいものへと変化した。
オスカーの身体は火球が浮かび上がる前よりも凍えていた。
――なんだあの不気味な傷跡? この女、やっぱり解放人じゃねえな? たぶん前におとぎ話で聞かされた悪い魔導師って奴に違いねえ……。
オスカーは魔物と呼ばれる化物を目にしたことがあった。
その時感じた死の気配と同じものが今この場にも存在していた。
だからどうやったら生きてこの場を切り抜けられるのか、と心が押し潰されそうになっていた。
「そう」
薄っすらと笑みを浮かべた女性の顔、彼女の赤い瞳がオスカーを見つめている。
黒い髪を掻き上げながら、
「君はどうしてこの森の中に? 森の中は危ないから近寄らないようにって大人から教えられはしなかった?」
オスカーは口を閉じていた。
「ふうん。もしかしてさっきの魔導術、内緒だった?」
面白いものを見つけたかのように女性は尋ねてきた。
「君が発動していた水の魔導術よ? 本当に見事だと思ったわ。異変が起こっているこの森の中であの精度……誰かに教えてもらったの? 魔導術」
冷や汗を流しながらオスカーは手のひらの照準を女性へと合わせた。
気概は瞳の色から消え失せてはいなかった。
「――見よう見まねでやったらできただけだ。なんだったらもう一回だけ見せてやろうかおばさん?」
女性は声を上げて嗤った。
そして目にもとまらぬ速さで動いた。
オスカーの手のひらと己の手のひらを重ね合わせるように女性はくっつけた。
「水はこ――ぐっ」
発しようとしたオスカーの詠唱が中断される。
「その判断は素晴らしいものよ。けれど今のあなたには力がない。だからその行動は最悪ね」
オスカーの顎先を女性はもう片方の手で掴み上げ、真上から見下ろしてきている。
真っ赤な瞳が凝視していた。
「もし長生きできたなら歴史に名を残すような魔導師になれたのかもね?」
今朝のグランツ叔父から振るわれた暴力のせいで、額についたオスカーの傷跡。
そこに顔を近づけていき女性は口づけした。
「さようならラカリズ村の小さな魔導師さん。あなたはこれから私が滅ぼすこの村の消えゆく景色と共に永遠に絶望の中をさ迷い歩くといいわ」
冷たい声色でそう一言残し、彼女は森の奥へと消えていった。
強張った顔のオスカーは硬直していた。
最早姿すら見えなくなった女性。彼女が先ほどまで立っていた空間をずっと見つめ続けている。
どれくらいの時が経っただろうか。
突然、足音がこの場に近づいてきた。
「あ、やっぱりここにいた! こら、オスカー! ラカリズの森の中に入ったらダメだって何度も言ってるでしょーが!」
金髪の少女が木々の隙間からひょっこりと呆れ顔を出した。
ラナ・ミルツ。
オスカーの幼馴染だ。
村の同年代で一番可愛いと評判の少女だった。
「……オスカーってば? ねえってば! なんで無視するのよ!」
とラナは小走りでやってきてぺたぺたと手のひらでオスカーの顔に触れ始めた。
彼女の青い瞳とオスカーの瞳が交差する。
「…………はぁ、はぁ……はぁッ!」
オスカーは地面に崩れ落ちた。
「ちょ、ちょっとオスカー!?」
心配そうなラナの顔が覗き込んで来ていた。
だがオスカーの視界は水面が波打つように揺れ動き、次第になにも映らなくなっていった。
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