2020年8月2日

「ねえ、君はさ、好きな人とかいるの」

「…いねえよ」

「嘘つき」

「嘘ついてねえし。だいたい、なんでお前に教えなきゃいけねえんだよ。どうせ、言いふらしたりするんだろう」

「言いふらしたりなんかしないよ。わたし、こう見えて口が堅いんだから」

「どうみても口が堅いようには見えねえんだよな、おい」

「ちょっと、なんでそんなこと言うの。怒るよ?」

「は」

「は?じゃないでしょ、わたし、本当に口が堅いんだから。だからお願い、教えてよ、君の好きな人は誰?」

「教えねえよ」

「なんで」

「なんでお前が俺の好きな人を知りたいのか、わかんねえからだよ。これで二度目。同じこと言わせんなよ」

「…」

「…」

「もういい。わかった、もういいよ」


 視界が暗転した。

 放課後の校庭の隅で、意味もなく友達とバスケットボールをしている。男四人くらい、それぞれ部活動の都大会で敗れた者同士、傷を舐め合いながら、暇を持て余している。

「あー疲れた。俺もう帰るわ。またな」

「ごめん、俺もそろそろ帰んなきゃ。塾あんだよね」

「そろそろ母さんが夜勤だから妹の面倒見に行かなきゃ。僕も帰るね」

 さっきまで遊んでいた集団はあっという間に散り散りになって、俺は一人取り残されてしまった。いや、取り残されたというよりは、忘れ物をしてしまったから、重い荷物を背負ってわざわざ教室に戻るとかいうことをしなければならなかったのだ。こんな愚かなことに友達を付き合わせるのは気が引けるから、先に帰ってもらったということ。それだけ。

 下駄箱に薄汚れたスニーカーを突っ込んで、上履きに履き替えて廊下を走る。わざわざちゃんと履くのも面倒だから、かかとを踏みながら走る。靴底は擦り減って、踏みしめるたびに変な音を立てている。

 階段を駆け上って、二階の廊下を駆け抜ける。三年一組。校舎の一番端だからいろいろと不便だ。夕陽の差す廊下には誰もいない。もう少しで下校時刻だけれど、部活動の地区大会の時期なので校舎には居残り勉強している人くらいしかいないのである。

「三年一組」の札が架かった、ぼろぼろの柱に扉が挟まっている。勢い良く音を立てて、それを開くと、視界が急に眩しくなった。


 君は机に伏して寝ていた。

 数学の教科書とノートを枕に、左手にはインクの切れかけた赤のボールペンを握って、いびきも立てずに眠っていた。

 背中を焼く橙色に、教室の机と椅子が三十三個の影を作った。遠くに聞こえる救急車の音。家々の狭間に穿たれたような陽の光の充ちる空間に、帳が落ちようとしている。

 君の頬は少し疲れていた。額には小さなにきびがひとつ、しかしそれは色艶がよく真っ直ぐな焦げ茶色の前髪に隠れて目立たない。リボンを綺麗に結びつけた首元は細くて、顔と同じく、若干日に焼けて汗ばんでいる。小さな肩には、下着の紐が浮き出ていた。

 午後六時を告げる鐘の音が鳴り響く。しかし、誰の気配もなくて、ただ外をうるさく飛び回るカラスの鳴き声と木の葉が風に擦れる音だけが、教室の中に響き渡っている。

 君の隣に座ると、何だか落ち着く気がした。寝息を立てながらゆっくりと上下する君の上半身を、ただ眺めているだけで、何か満たされるようなものを感じた。

 

 ああ、俺、何だか気持ち悪いな。

 でも君が全部悪い。


 陽が傾いて、空の色は紫色に変わった。

 もう終わりにしなきゃ。君の背中をぽんと叩く。驚いたように君は飛び起きて、頬を染めながら、俺のことを罵る。


「…バカ」

 



 目を覚ますと雨のにおいがした。それだけじゃない。男子高校生の部屋にありがちな、汗臭さと水臭さの合わさったような、息苦しい臭いがそれと混ざり合って、気分が悪い。

 窓にかかった粗末なカーテンを開け放つと、河川敷の向こうに遠雷を聞いた。階下で妹と、その友達がはしゃぐ声が聞こえる。寝汗をびっしょりかいていたから、それに色々汚れているから、今着ているものを全部脱いでシャワーでも浴びようと思っていたのに、どうやら無理そうだ。

 そういえば、昨日も雨が降っていたっけ。

 どおんと響く雷鳴に驚いて、もう一回窓の外を眺めることにした。空の果てでは黒い雲が切れて、陽の光が差し込んでいる。遠くの鉄道橋を、特急電車が足早に駆け抜けていく。


 川の土手に、ビニール傘をさした若い女が立っていた。

 彼女は誰かを待っているみたいだ。まさか、と思ったけれど、そんなわけないよな、と思い直した。


 そんなわけ、ないはずだ。

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八月の幽霊 @thakajo

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