エリート医師は癒し系看護師とお近づきになりたい

九竜ツバサ

第1話 多忙なエリート、地味な看護師に大福を貰う


「先生、507号室の2ベッドの患者さん、パフ(心房細動)出てます」


 背後から掛かった鈴のような声に、白川亨(しらかわとおる)は半分になっていた目をこじ開けた。

「は?」

 キャスターが軽い音で転がり、体ごと振り向いた先には一人の看護師がいた。肥満体型ではないが肉付きのいい女だ。ナース服の腹と大腿周りが少々きつそうに張っている。後頭部で丸くまとめ上げられた黒髪、目立つところのない風貌の中で団栗眼だけが瞬きを繰り返している。

「何?」

 聞き逃してしまった言葉の内容を確かめようとして眉を顰めると、女は驚いたような怯えたような表情を浮かべて息をつめ、震える声で先ほどと同じ言葉を紡いだ。



 目の前の、モニター心電図の結果に目を向ける。女が言ったように、その患者には不整脈独特の波形が出ていた。夜が明けるまで緊急入院と急変に追われ、あちこちの処置に飛び回っていたせいで終わらなかった書類作業を片付けてる合間に、目の前のモニターも確認していたつもりだったが見逃してしまったらしい。

 というのもモニターから時々鳴るアラーム音が五月蠅くて勝手に消音モードに変えていたのだ。心電図が外れたり、様子見でいい不整脈まで拾ったり、毎度そんな理由で大きな音が鳴るのは臓に悪い。かと言って控室に戻れば、患者の状態報告と処方の確認に来る看護師に休憩を阻害され、集中力の切り替えに伴うストレスで気がおかしくなりそうになる。

 なので仕方なく、病棟の、しかも詰め所のカウンターで仕事をしていたのだ。本日の日直である育休明けの女医、蜜橋(みつはし)は子どもが発熱したとかで出勤が遅くなるというし、仕方ないとは言え徹夜で残業のダメージは大きい。



 亨は再び女に向き直ると、「担当の看護師に除細動するって伝えておいて」と不機嫌に呟いた。こめかみが痛い。眉根の付け根を親指で揉んでカウンターに戻ろうとすると、女が「あの」と引き留めるように声を出した。

「まだ何か?」

「肘のところに血がついてます」

 言われて左腕を上げて見たが白色しか見えない。

「逆です」

 腕をひっくり返して右肘を見る。筆で刷いたように赤く染まった箇所があった。いつかの処置の最中に血に触れたのだろう。こういうことは日常茶飯事なので驚くことではないが、患者からの印象や衛生的によくないので、不整脈の処置の前には替えなければいけないと考えつつ、二つ下の階まで降りることで被る体力の消耗にうんざりした。

 栗色の、真ん中で分けた前髪を掻き上げて溜息をつくと、離れたところでとろけた視線を向ける看護師数名が意味深に囁き合ったりはしゃいでいるのが見えた。研修が終わったばかりの、若く美形な男を見過ごす者などこの病棟にはいない。大学病院の循環器外科病棟の『王子』と呼ばれる、眉目秀麗、文武両道のエリート、それが白川亨だ。看護師たちの好意的な反応に少しだけ気分を良くして立ち上がる。



「パフ、俺も気付いてたから。ちょっと様子見てただけだから。あなたに言われなくても」

 ぼんやりしていたのは確かだが、ぱっとしない看護師に指摘されたのは少々プライドが傷付いた。それを癒す為に、鬱憤を晴らすた為に、思ったままを口にした。どうせ愛想よくしても何の得にもならない相手だ。どうでもいい。

 女は強張った表情で目線を逸らした。まるで小動物が肉食動物を恐がるみたいに。

「別に怒ってないけど」

 誰にも訊かれていないのに弁明する。血の気がなくなっていく女の唇を見ていると胸の雑音が大きくなる。俺が悪いのか?

 女は「すみません」と頭を下げた。長い髪が崩れないようにきつくまとめられているのが見える。そういえば今まで話をした記憶が無い――互いにこの病棟に所属している以上そんなことは無いはずなのに。おずおずと女が口を開いた。

「業務に戻ります」

 言葉とともに頬がふるりと動く。何か既視感がある。

 ――――大福。大福に似ている。

 疲れた体が甘味を欲していた。そう言えば出勤前に食事をしたきり何も食べていない。今ものすごく大福が食べたい。 

「大福……」

 思わず亨は呟いていた。

「大福が食べたい……」

 自分でも自覚できるくらい腑抜けた声だった。脳みそが綿あめになっている。

 女は暫く首を傾げた後、「ちょっと待っててください」と詰め所を駆け出て行った。残された透は膝裏にあたっていた椅子の座面にどっかりと腰を下ろした。空腹を自覚してしまうと憂鬱と疲労感が増す。握った手で額をノックしながら気を紛らわせるも、体力も思考力も回復しない。午前中の詰め所は出入りが多い。色々なところから聞こえてくる足音と作業音が、寝不足の頭に響く。亨は切れ長の目尻から一粒涙を流して欠伸をした。丸めていた背中を伸ばそうとしたとき、再び女が現れた。



「よろしければどうぞ」

 砂を掬うように合わされた両手の中には、拳大の丸い物体があった。白い粉に覆われたそれは、見ただけで柔らかい弾力があることがわかる。ラップで粗末に包まれていることなど気にならなかった。

 亨はそれを見つめた後に、女に視線を戻した。

「これは?」

「大福です。手作りで申し訳ないんですが……」

 眉尻を下げて本当に申し訳なさそうに女は言う。

 亨は口の中に唾液が溜まるのを感じた。

「いや、うん、ありがとう。貰っていいなら遠慮なく頂きます」

 女からそれを受け取って手の中で頃がした後、亨は白衣のポケットに大福を滑り込ませた。ずしっと裾が引っ張られる。

「もし口に合わなかったら捨てて下さい」

 女が両手の指を絡ませながら恥ずかしそうに俯く。

 亨は目を丸くして声を大きくした。

「餅って手作りできるの?」

「作れなくは、ないです」

「……へえ」

 思わず女の手を見た。白く清潔で、触ったらふわふわとしていそう。

 亨にとって餅や団子は買うものだった。医者家系で比較的裕福な暮らしをしている亨には甘味を手作りするという感覚が分からない。そういうものは菓子屋で買うものなのだ。素人の手作りなど食べれるか、という気持ちが頭を過ったが奇しくも同時に腹が鳴った。見た目は市販品と変わらない。言われた通り、味見だけして捨ててもいいのだ。



 では、と女が去ろうとする。

 亨は脊髄反射の勢いでその腕を掴んだ。まるでマシュマロのような感触で面食らう。しかしぎこちなく唇を動かした。

「名前、教えてほしいんだけど」

 女は一瞬目を見開いてから首を傾げた。

「黒野(くろの)です」

「下は?」

「ゆえ、です」

「クロノユエさん?」

 はい、と女――ゆえは頷いた。周囲の喧騒が搔き消えたように静かになったが、自分の耳の中だけだったかもしれない。忘れないようにと彼女の顔を観察し名前を口内で反復する。ゆえは状況が理解できないという様子で呆然としていた。

「黒野さんちょっとこっち手伝って」

 詰め所の奥から声が掛かって、ゆえはそちらを振り返った。

「邪魔してすみませんでした。私行くので」

 急いで会釈をして彼女は声の方へ消えて行った。亨はポケットの中の感触を指先で確認し、眠気でぼやける意識を整える。

 口の中にはすでにあんこの味が広がっていた。


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