第3話

 郷の顔が見られなくて、前だけを見て歩く。


 それに郷は、反抗はしなくても、屈服もしなかった。へらへら笑ったり、下手に出るようなことはなかっただろ。

 ちょっとユズ先輩に家に連れ込まれただけで雰囲気に流されそうになるようなあたしから見れば、郷は充分立派だよ。

 あたしには、ずっとお前が眩しく見えてるんだ。黒髪がかわいい。細い顎がかわいい。眼鏡とか似合うんじゃないの。ていうか外見より中身が素晴らしいんだけどな。

 ……そんなことは、なかなかしらふでは言いにくい。


「――なんでもない。まあ、あたしはそうするのがあたしらしいと思ったし、ほかに選択肢はなかったよ」


 だから助けた。

 で、おかげであたしはハブられた。

 あの五人は、ほんの短期間で、クラスの人気者として君臨してしまってた。

 四月の終わりごろ、体育の時に郷の着替えをふざけて写真に撮ろうと五人が揃ってスマホを取り出した時、あたしはとっさに、スマホを五台とも立て続けにはたき落とした。

 撮った後で消させるんじゃだめだ、なにが起きるか分からない。撮る前にやめさせないといけない、と思った。

 幸いスマホは全部無事だったけど、五人はこの世の終わりに見たいに騒いで、弁償弁償叫んでた。


「やかましい。そんなことに使うんならお前らのスマホなんて壊しといたほうがいいわ」


 それからさらに、恥ずかしくないのかとか、くだらないことしてんじゃねえとか、でっかい声で真顔説教してしまったので、まあクラスの中心人物にそんなことすればハブになるのも仕方がない。


 一応、郷へのいじめはなくなった。でも郷と仲良くするやつもいなかった。あたしについても、同じ。

 そして二ヵ月ちょいが過ぎた今もクラスの空気は変わらず、あたしの教室は実に居心地が悪いのだった。

 たまに軽口で、赤坂さんていまだに空気読めないよねと嗤う声が聞こえてくる。誰が読むかそんなもの。読めば読むだけあほになる読み物なんて、空気のほかにはないんじゃないか。好きなだけ一生読んでろ。


「てか礼ならあの時言われたぞ。なんでまた」

「あの時は、とっさというか、反射的に言ったから。ちゃんと落ち着いて言いたかったの。さっきも、憎まれ口叩いてごめんね」


 そのしゅんとした声色に、こっちもしんみりした気持ちになる。


「別に、そんなの気にしてねえよ」

「……ところで、どうして口を押さえてるの?」


 いつの間にか、郷があたしを不思議そうな顔で見上げてる。


「お、おー。なんかくしゃみかせきかしゃっくりあたりが出そうか出なさそうか、まあ出ないかな」

「なにそれ。やっぱり変なの」


 郷が笑った。

 五対一で迫害されても心を折ることのなかった女が、あたしの横でこんなに無防備に笑ってる。

 それを見た時、胸の奥に、めらっと燃えるものがあった。

 こいつ、今急にあたしにキスされたらどんな顔するんだろうとか、いきなり「彼女にならん?」って言ったらなんて言うんだろうとか、そんなことがたまらなく気になった。


 完全にユズ先輩のせいだ。くそ、だって仕方ないだろ。いきなりファーストキス奪われたんだから、影響受けるなってほうが無理だ。

 くそ、くそ。郷、キスさせてくれよ。そう言ってやろうか。こいつにも、あたしと同じ気分を味わわせて、そうしたら、……

 そうしたら? キスさせてくれって言って、そうしたら、どうなる? 郷に、……キスさせてくれって……


「赤坂さん、教室着いたよ、どこまで行くの?」


 そう言って、郷があたしの顔を覗き込んできたので、その顔面の近さにパニクった。


「うわあキスさせてくれよ!?」

「え?」


 一瞬、時が止まった。

 廊下には、ほかに誰もいない。

 一生の中の全盛期を迎えつつあるセミの群れが、やたらでっかい声でミンミンツクツクジイジイと窓の外で叫んでる声だけが響いてる。


「あ、……いや、今のは」

「なっ……な?」


 みるみるうちに、郷の顔が真っ赤になっていく。


「違う、違うんだよ、今のは違うから全然違んであって」

「からかってるの!? なに言ってるの!? 私なりに真剣に話してたのに、もうっ!」


 郷は速足で自分の机に行くと、中からなにか――わしづかみにしてたのでなんだか分からない紙束――を取り出してかばんに突っ込み、ばたばたと出て行った。


「違……」


 あたしは、こぶしを握り締める。


「くそが……ユズの野郎ォあいつのせいだ……許せん……ッ」


 セミだけが、教室に一人取り残されたあたしに、全力の大合唱を浴びせかけていた。


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