夢胡蝶学園在校生の諸事情
味噌野 魚
第1話
おかしいとは思っていたのだ。
きえーっと奇声を発する人面蜘蛛から逃げながら、私は遠い目で天井を見上げる。
シミ一つない真っ白な天井に長細い蛍光灯…というのは私の願望で、苦悶の表情を浮かべる人間にしか見えないシミだらけの天井とジジッジジジッと明滅を繰り返すホラー映画さながらの蛍光灯――本来、通うはずもない女人禁制男子校の天井がそこにはあった。
もちろん私は女だ。中身も女、見た目も女。
人面蜘蛛に挟みうちにされたので小動物よろしく震えながら誤って蜘蛛を踏み潰しつつ中央階段を駆け下りる、か弱いか弱い女の子だ。
踊り場の鏡に映るのは当然――仏頂面の学ラン男子――訂正しよう。見た目は男です。
私はいわゆる男装女子であった。
期待したそこのあなた、申し訳ないが私は男装が趣味なボーイッシュガールではない。
やむにやまれぬ事情があり、他に方法がなく、仕方がなく、それこそ背水の陣くらいの気持ちで男装している100人中99人は同情する訳あり男装女子である。
全ては我が双子の姉――退学したら借金1億だというのに早々に女バレしやがった、そのくせ恋をして一人だけ青春を謳歌している、脳みそ花畑阿呆ドジ天然娘――が金持ちじいさんの高級壺を割ったことから始まった。
春休みだ。
法定速度を無視する車が歩行者に泥雪を飛ばす、悪しき3月の下旬。
私と姉の葉月は信号待ちをしていた。
我慢が苦手な葉月は横断歩道の点字ブロックを越えて歩車道境界ブロックたる長々しい名前のチョーク石の親玉の上に立ち、いまかいまかと信号が青になるのを待っていた。なんたる自殺行為。泥を浴びせてくれと言っているようなものだ。
私は可能な限り車道から距離を取っていた。
コンマ1秒程、泥はね注意をしようか迷ったがやめた。
何を何度注意しても葉月は笑顔でわかったと頷くくせに次の瞬間には同じ事をする。鶏は三歩歩けば忘れるが、葉月は秒で忘れる。鳥以下だ。注意するだけ無駄。
しかし今回に限っては、注意すべきだった。
もう何百何千回と後悔したが、私はこの高校を卒業するまで何度だって悔やむだろう。
そして、運命の時は訪れる。
ぷるぷると震える手で風呂敷を持つおじいちゃんが葉月の隣に立ったのだ。
お人好しの葉月に無視という選択肢はない。
「荷物持ちますよ!」是非も聞かずに風呂敷を横からひったくった葉月は、その勢いのままコマのように回って転んだ。
馬鹿みたいな話だが事実である。
遠心力により葉月の手を離れた風呂敷は宙を舞った。
体感的には雲のようにゆったりと、現実はピューンと流れ星のごとき早さで。
唖然としたのは一瞬だけ。私は歴戦の排球選手よろしく風呂敷を追いかけた。
三島さん家の塀を蹴り上げて跳躍する。太陽の光に目を潰され風呂敷を目視することはできなかったが掌には布と硬い感触があった。勝利を確信した私は喜びのスパイクを打ち下ろした。…まあ私にも非があったことは認める。
パリンッ
それは風呂敷に包まれていた壺が割れる音だったか、過ちに気付いた私の心が砕ける音だったか。定かではないが、かくして1億円の壺は割れた。
よぼよぼおじいちゃんは富豪だった。
金持ちは心に余裕があるのか寛大で特段お叱りの言葉は頂かなかった。弁償も不要だと言う。
私はほっとして葉月を引き剥がした。
「海月ちゃんは悪くないよ。お姉ちゃんが守ってあげるからね!」と私のことをずっと抱きしめていたのだ、この阿呆娘は。元凶が自分であることをすっかり忘れているらしい。鳥頭め。
ともかく私も葉月も気が緩んでいた。そのため、おじいちゃんのお願いを詳しい話も聞かずに了承してしまった。これは仕方のないことだったのだと胸を張って言い訳しよう。
話には続きがあった。
弁償は不要だが、その代わりにおじいちゃんが運営する高校に入学して欲しいと。
由緒正しき歴史ある学園にもかかわらず、少子化のせいで定員割れが続き廃校の危機に瀕しているのだとか。
学校生活にかかる費用は全額こちらで負担する。3年間学校に通い卒業してくれるだけでいい。学校存続のためにどうかと頭を下げられた。
断るわけがない。私たちは一も二もなく頷いた。
1億の壺が高校生活を送るだけでチャラになるなら安いものだ。しかも学費が一切かからない。両親だって小躍りするだろう。
うししと心の中で笑っていれば、葉月がなにやら書類にサインをしていた。「困ったときはお互い様です!」などと言っている。
お前は助け合う側じゃなくて困らせる側だ。
項垂れて、嫌な予感がした。脳内にビーチフラッグが立つ。
ちょっと見せてと書類を奪えば、それは誓約書だった。
長々とした文章の重要部分を要約すると、『私は全寮制の男子校に入学します。留年・退学をした場合、契約違反として壺を弁償します』と記載されていた。
「なにか問題でもあったかのぅ?」とおじいちゃん。問題しかない。
書類の署名欄には『薙野 葉月』『薙野 海月』見覚えしかないミミズみたいな字があった。ご丁寧に拇印まで押してある。思い返せば書類を読んでいる最中、ペタペタと指に何かを塗られて勝手に動かされていた記憶がある。これだったのか。葉月がどや顔している。なるほどスッキリした~とはならない。断じてならない。
うぐがああああ。言葉にならない私の叫びは宇宙にまで届いたことだろう。
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