第29話 追跡
「ところで、あいつはクロだな。気づいたか?」
馬車の荷台に乗り込んだ私達に向かって、馬車の後部で歩くディランは言った。何の事だと私がアルジャーノンを見やると、彼は当然と言った様子で頷く。
「人狼とは得てして嘘つきですからね」
「どういう意味だ?」
「自分の名前まで忘れているのに、店の事を覚えている奴がいるか」
そう言われてようやく違和感に気付いた。握手を求めてきた人狼の笑顔を思い出す。しかし、とてもじゃないが彼に悪意があるようには見えなかったのだが。
「果たして粗忽なのかなんなのか……奴は恐らく、何か都合の悪い事を隠してる。完全な記憶喪失って訳じゃないだろう。警戒しておくに越したことはない」
「だが、悪い人物には見えなかったぞ」
「悪人とは得てしてそういうものですよ」
そんな話をしていると、道端の茂みから飛び出してきたネズミが素早く馬車に飛び移ってきた。腕を差し伸べ手のひらに乗せたアルジャーノンは、鼻をひくつかせるネズミと目を合わせふむふむと頷き、ご苦労様ですと再びネズミを放す。
「例の二人組は途中で馬車を拾い、街に向かっているようです」
「まずいな、急ごう」
正門が遠くなり、角を曲がったところでバレットを馬に化けさせて馬車に繋ぎ、颯爽と荷台へ乗り込むと腕組みをしてディランが言った。
「あいつらが拠点に帰っちまうと面倒だ。それまでに追いついて、街中で日記をスってしまおう」
「そんなめちゃくちゃな」
「どのみち、この件は人間の手に負えないんだから仕方ないだろう。何もできないのに嗅ぎ回られても困る。更に手がかりであろう日記を持ち出されてるのも厄介だ。……なぁ、俺が先に魔法で街に戻るのは?」
「だめです。こんな人気のないところで今の王子と離れてはいけません」
「あっそう……じゃあ馬宿に速攻で戻って、街を歩くあいつらを見つけ奪い取る」
「そんな事が可能なのか? どうするんだ」
「こういう時こそ、バレットの本領発揮だ」
意地悪く笑うとディランは馬車の荷台を軽く叩いてバレットに指示を出し、馬の嘶きと共に馬車が加速した。
墓場と街の最短経路は南門の馬宿だが、探偵たちとうっかり鉢合わせしないよう東門の馬宿へと回り道をして、到着する前に道外れで再び使い魔の姿を戻した。手続きを済ませ、今度は犬の姿のバレットと共に三人で街に入る。中央通りから少し手前の人目につかない路地で再び木箱の陰からネズミが鳴き、傍にしゃがみ込んで一言二言尋ねた後立ち上がったアルジャーノンが言った。
「二人は馬車から降りて、中央通りで屋台からコーヒーを買いその場で小休憩しているそうです」
「少しくらい別行動はできるよな? 日記を奪うのは俺がやる。お前らはロジェがよくいるパン屋の近くの路地で待ってろ。あそこは中心地に近くて比較的安全だ」
「うーん。街中ですし、まあいいでしょう……しかし相手は探偵なんですよね? 顔を見られているのでは」
「だからバレットを使うんだよ」
彼が何やらハンドサインを出すとバレットが小さく吠え、途端に銀色の靄が広がったかと思うと——現れた光景に、目を見開いた。
「これなら、いくら名探偵であろうと絶対にわかるはずがない」
帽子にかけられた黒いヴェールから覗く口紅。コートに垂れる緩く巻いた長い黒髪。ディランの姿が、どう見ても犬の散歩をしている最中の貴婦人にしか見えなくなったからだ。
「なっ、えっ⁉ 嘘でしょう⁉」
「魔法はこんな事も可能なのか⁉」
「いやただの幻覚。俺自身や所作は何も変わってないが、幻覚に見合うように補完されるんだ。お前らをそう惑わせて脳に錯覚を起こす、シェイプシフターの固有能力だよ」
ディランの口調だが、麗しい女性の声で喋っている。思わず何度か目を擦ったが、目の前の現実は変わらない。
「じゃあ、俺が行ってくる間にトラブルを起こすなよ」
実に簡単な仕事だ、と意気揚々とバレットと共に路地から出て行く彼、いや彼女を呆然と見送る。所作は変わっていないと言っていたが、やはり慎ましやかに歩いている上品な婦人にしか見えない。なんなら、時折すれ違う男性が口笛を吹き気を惹こうとしては当然の様に黙殺されていた。
「ちなみになんですけど、これからの私たちと、彼と、どちらが先にトラブルを起こすと思いますか?」
「……下手な事は言わないでおこう」
「賢明な判断です」
厳かに言うアルジャーノンと連れ立って、指定されたパン屋の側へ向かおうと路地裏を出た。
「あれ? レオン兄ちゃん? こんなとこで何やってんの?」
「……身を、潜めている」
「ちょっと、話しかけないでくださいよ隠れてるんですから。空気を読んでください」
「いや、もう一回聞くけど、何やってんの……?」
夕刊を売ろうと声を張り上げていたロジェが、裏路地の木箱から表通りをじっと覗き見るこちらに気づいて怪訝な声を上げた。
「うまくいくと思いますか?」
「ここからじゃ現場は見えないし状況もわからないが……ディランを信じよう」
「あんまりここで変な事されると客足遠のくから、普通にやめてほしいんだけど……」
パン屋の近くには喫茶店やコーヒーの屋台があるため、小休止のついでに新聞を買う客が多くいるのだ。毎度あり、とサンドイッチを手にした紳士に新聞を渡して肩を竦めたロジェは、不審そうな顔をしながら渋々遠ざかっていく。その反対の道から、自然と人混みが割れるように道を開けられ、歩いてくるディランの姿が見えた。
「あ、来ましたよ!」
同時に向こうも気づいて機嫌よく歩を速め、笑顔で手を振りながらこちらへ向かってきた。……確か補完されると言っていたから、これは幻覚なんだよな? そうだと思いたい。
路地裏で無事合流すると、彼女をこっそり目で追っていた男性達からなんだよというぼやきと周囲から数々の舌打ちが聞こえてくる。貴族の逢引か何かと勘違いされているようだが、全然違うし普通に怖い。やめてほしい。
「おい、うまくいったぞ。任務成功だ」
ぐいぐいと路地裏の奥に人を押し込みながら、幻覚の姿のままのディランは悪い笑みを浮かべた。背を押されて歩きながらアルジャーノンが憮然として呟く。
「ちなみに、どうやったんですか」
「あいつらがコーヒー飲んでる隙に、ちょっとよそ見してぶつかったふりをしただけだよ。後は日記にマークした転移魔法を発動して奴らの懐から手元に呼べばいい。ちょろいもんだ。さっそく何が書いてあるか確かめよう」
そう言って木箱の陰でコートから取り出した日記を広げ、三人で覗き込む足元ではバレットが興味津々に飛び跳ねている。墓を掘り返されたという、ヴィクター・フランケンシュタイン博士故人の日記だ。内容はほとんどメモに近く、悪筆で所々読みづらい。日付と共に、簡易なメモが書き残されている。
日課であるリバーサイド河口の生態収集で、妙な生き物を見つけた。刺胞動物か棘皮動物の一種かと思っていたが、未知の深海生物か、新種かもしれない。鑑定のため友人に写真を送る。
これより生態観察の簡易記録……詳細は報告書にまとめるとする。
海水を模した水槽に入れてみた。透明な外見なのに内臓が観察できず、泳ぐ姿はナマコに近い。しかし口らしきものも見当たらず、前後が不明。死んでしまったかと思っていたが、どうやら生きている。
何を食べるか不明だが、同時に採取したミズクラゲを気づかないうちに捕食していた。ミズクラゲの傘は捕食された跡があるが内臓の観察ができないため、表面構造は光を反射し内部が見えないのではないかと推測。
後日友人から返事が届く。未知の生物らしい。引き続き観察を続ける。これが新種なら命名権は私にあるはずだが、興奮して大量の名付け候補を送ってきて煩わしい事この上ない。
経過を報告すると、友人がスベスベナマコミズマンジュウはどうかと言ってきた。無論却下した。
「これって——」
「イリスが見せてきた生き物に、特徴が一致するな」
日記のページに貼り付けられた、水槽が映っている白黒の写真を指差してアルジャーノンが言った言葉に、ディランが頷いた。
新種を拾ってXX日、当該個体がどうやってか深夜のうちに水槽から飛び出していたのを確認。乾燥して半分以下に縮んでおり、死んでしまったかもしれないと水槽に戻したが、昼には復活していた。
恐らく深海の水生生物のはずだが、生命力が高く、極端に乾燥に強いのは摩訶不思議だ。もしかするとクマムシの一種だろうか。緩歩動物にしては大きいが。
経過を報告すると、友人がクマムシモドキトゲナシトゲトゲはどうかと言ってきた。無論却下した。
事故からXX日、採取した体長が倍近くになる。中指程の全長から掌に余るほどになった。
とりあえずクラゲを与えてはいるが、肉も魚も海藻も関係なく捕食する。海の掃除屋の一員ではあるだろう。食べる量は変わっていないが、とにかく成長が早い。
「このマンジュウだかトゲナシトゲトゲだかの謎の生物は確かに気になるが、問題は実験室の所在とやらだ。クソッ、しょーもない事ばっか書きやがって……いったいどこに書いてある」
「——219項。八月二十七日からの記述だ」
「そうか助か——っ⁉」
苛立たし気にディランが分厚い日記をばらばらとめくっていると、背後から声がした。驚いて全員で振り返る。
墓場で見かけたあの探偵と助手が、表通りへ繋がる路地の入口を塞ぐようにして立っていた。
「巻いた餌に引っかかってくれたようで何より。ところで人目を避ける相談は、わかりにくい場所でもっと堂々と行うべきだ。例えば、往来行きかう喫茶店のテラス席か、ホテルのロビーなんかでね」
壁によりかかる鋭い目をした痩身の探偵は、更に続けた。
「故人は一人暮らしで街外れの館に住んでいたが、その家には実験室なんて部屋どころか必要な設備すらない。なのに妙に詳しく書いてあるから認知症か、もしくは精神を病んだ末の妄言だと思われていたんだがね。その日記を見るにどうも私は真実だと思うよ」
「ああ、気を悪くしないでくれ。ちょっと君たちと話がしたいだけなんだ」
気難しそうな探偵とは対照的ににこやかに話しかけてくる助手の背後で、ロジェが不安そうにこちらを窺っているのが見えた。
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