柚子の実

主水大也

柚子の実

 私の家の庭には柚子の木が生えている。大きなものではない、慎ましい、私の腹にも届かないほどの小さな木である。その木には毎年冬の季節になると実がなる。子どもの頃は良く、祖母と共に収穫した。祖母が慌ただしくビニール袋と大仰な鋏を持ってきて、

「今年もぎょうさんなっとるで」

 と私の小さな手を引っ張るのである。私は最初こそ面倒で、勝手に摘んできて、と言っているのだが、その内楽しくなってきて、どっちが多く取れるか競争を持ちかけてた。騒ぎを聞きつけた祖父は、手伝うわけでもなく、ただじっと縁側から私たちを見つめていた。優しい目であったので、怖くはなかった。柚子の実は、その頃の私の手では、片手でつかめないほどに大きく、河原にある石のように固かった。私は、柚子の実が寒がっているのではないかと思って、手のひらに包んで暖めた。しばらくすると、手のひらに柚子の匂いがうつって、良い香りがした。ああ、柚子があったまって喜んでくれているのだと、私は思った。ふと、祖父の方を見ると、私にて招きをしていた。私がそれに答えて駆け寄ると、

「その柚子、じいじにくれんか」

 といった。私は、せっかく温めたものなのになと思いながら、無碍に断る理由も見当たらなかったので、祖父に手渡した。祖父は、まるで大きな真珠でも持つかのように受け取って、傍にあるナイフで柚子を切った。その切り方は余りに丁寧だった。柚子に刃が入ると、その皮は閃光のように煌めき、黄色い実が二手に、地割れのようにギリギリと分たれていく。実の中は、花弁のように一つ一つが日に当たってネオンのようになっていた。祖父は片方の実を持つと、コップの中に入れ、サイダーを注ぎ始めた。私が羨んでじっと見つめていると、元よりお前のものだ、と言わんばかりに、黙って私の顔に近づけた。飲んでみると、とても酸っぱかった。祖父を見ると、残ったもう一遍の柚子の実を、皮ごと食べていた、とてもおいしそうに。そんな姿を見ながら飲むと、サイダーは不思議と甘くなったような気がした。

 五歳の頃、犬を飼い始めた。パピヨンとチワワのミックス犬で、愛らしい顔をしていた。私は、その犬にミックと名付けた。何のひねりもない、ミックス犬だからミックとしただけである。ミックが二歳になったころ、唐突に茶色い眉柄が出来た、家族のみんなで代わる代わる顔を見ては、小さく笑ったものだった。犬は、なんだかみんなが楽しそうなので、とりあえずはしゃいでおくか、と言ったように、ぴょんぴょんと飛び跳ねていた。

 それから十年後、祖父が亡くなった。ほぼすべての臓器を悪くしていて、いつ死んでもわからない身であったが、それでも唐突だった。その一年、柚子は収穫しなかった。祖父に見られずに収穫するのは、どうも身が入らなかったからだ。しかし、その一年、ミックは狂ったように毎晩けたたましく鳴いた。慟哭に近かった。祖母は、じいじが死んでおかしくなったんや、と言っていた。そんな言葉も、犬の鳴き声で半分掻き消された。ミックはその時十二歳である。彼の先も、短いものだった。その夏、柚子は腐って、ぽとぽとと力なく地面に落ちていった。

 一年鳴き続けたミックは、その後静かになった。毎日寝てばかりで、餌もろくに食べなくなった。私は、大好きだった祖父が死んで、そのあとを追いかけようとしているのだ、と思った。なんとも悔しかった。自分だって大好きだったのに、ミックはその短い寿命に託けて、いとも簡単に後を追いかけようとしている。私にはできない所業だ。何せ私はまだまだ若い、悲しむ者が大勢いるだろう。ミックにもいるのに、そこに目を向けていないのではないかとも思って、尚の事悔しくなった。私は、骨の浮き上がっている身体を優しく撫でた。苔の生えた岩のようだった。その年、柚子は収穫した。ミックは鳴かない。しかし、柚子を見て久々に起き上がった。私は、犬にとって毒である柚子をあげてはいけないと隠してしまった。ミックは小さく鼻を鳴らした。私は、彼に意地悪をしたような気持になって、慰めようと頭を撫でた。

 私が大学生に入ったころ、ミックは十四歳になった。認知症が進んで、もう家族の誰の事もわからない。声が低く図体も大きい私の事を、ミックは怖がった。もうあのごわごわした身体には触れられなかった。歳をとったミックはよく吐いた。その後片づけは、ミックが唯一怖がらない祖母がやった。祖母はよく、じいじに似てきたわ、と言った。

 もうすぐ十五歳を迎えるころ、ミックはあっけなく死んでしまった。皆が寝静まったころ、同じくして眠りにおちたのだった。私は久々に身体を撫でた。冷たかった。

 ミックの身体は庭に埋めてやった。私が穴を掘る係だったので、気を使って柚子の木の近くに掘った。

 ミックを入れる前に、私はその小さな穴に入ってみた。小さなころのように、柚子の木が目の前にある。葉は少しくすんで深い緑色である。彼も年を取ったのだなと、私は思った。上を見ると、空が遠い向こうにあった。飛行機が白い境界線のような雲を作って飛んでいった。

 ミックを埋めたその年、柚子が実ることはなかった。祖母は、死体を埋めて土の感じが変わったんや、と言った気がする。私はその言葉は耳に入らず、きっとミックが食べてしまったんだと思った。そんなに、祖父の事が好きだったのか。

 私は庭に行き、木を眺めた。すると、木の奥のほうに出来損ないの柚子の実があることを認めた。私はその実を引き千切り、口の中に放り込んだ。

 

 

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柚子の実 主水大也 @diamond0830

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