うさぎ島の最後の巫女
さなこばと
序章
陽射しが一面の雪景色に反射して、窓の外はまぶしく輝いていた。晴れた空に雪が舞い落ちてきていて、今朝はいうなればお天気雪だ。その美しい様子を、僕は小型のカメラで撮影してから、コーヒーの冷め具合を確認しにリビングへ戻った。
うさぎが溢れかえるこの島は、通称うさぎ島と呼ばれている。
生息しているうさぎたちはみんなとても活発。ぴょこぴょこしている姿は実に愛らしい。どこから知ったのかたまに観光客から問い合わせが来たりもする。
ただし僕は不用意にうさぎたちに近寄らないようにしていたし、来島客については設備の点検や島の公的調査などやむなしの場合以外はお断りしていた。
それは極めて単純な理由。うさぎたちは性欲が盛んで、隙を見せると襲いかかってくるのだ。
下手すると、ものにされてしまうかもしれない。
住人もお客さんもお構いなしだ。
生々しい性的な危険が、目下のところリアルにあった。
トントン、とノックの音。
「今、開けるよ」
僕の家を訪れるのは基本的にふたりだけだ。
朝に訪問してくるのはそのうちの一人、というか一羽で……僕は慎重にドアを開けた。
ドアの隙間からのぞかせるのは、白く伸びたうさぎ耳。
「はかせ! おはよっ! おしごとをしにきたよ!」
視線を下げると、小柄なうさぎ耳の女の子が笑顔で上目遣いに見つめてきていた。
彼女は宮野原真白という名前で、宮野原さんの家の女の子だ。背丈は僕の腹部くらいだけど、ふわふわの白い毛で覆われた体は成熟していてオトナなことも経験済み。彼女は人間とうさぎのハーフだ。
しがない中年研究員である僕の、たった一羽の研究パートナーだった。
招き入れると、「あったかい……」と真白はふにゃっとした顔になり、体毛にくっついている雪の欠片を手で払っていく。
「リビングで待ってて。今、朝ごはんを持っていくから」
僕はコーヒーを後回しにして台所で調理を始めることにした。冷蔵庫を開けて卵を取り出し、フライパンに割り入れて焼き始める。
「ね、はかせ」
「うん?」
「なんどでもきくんだけど、はかせはもうおじさんなのに、なんでどうていをすてないの?」
「僕には心に決めた女性がいるからね」
「そういうきもちにならないの?」
「どうかな」
「わたしとしよ」
玉子が焼けるのを待ちながらサラダを作っていると、真白が背中に抱き着いてきた。
下腹部を這い寄ってくる手つきがいやらしい。真白の誘惑はこなれていて、対応する僕も慣れたものだ。僕は手早くサラダを皿に盛りつけると、刺激を送ってくる彼女の小さなふわふわした手を上から握って、そっと下ろさせた。
「真白とはしないよ。さ、ごはんをよそうから椅子に座ってて」
「……はーい」
いつものやり取りなので、お互いに嫌な気持ちになったりはしない。
真白が駆けていって椅子に腰かけるのを確認して、僕は支度に戻る。料理の完成までは五分もかからない。朝から大層なものは作らないので、真白の退屈感を誘うこともないだろう。
トレイにごはんと目玉焼きとトマトサラダを載せて運んでいくと、彼女はテーブルの上のカップに砂糖を入れていた。僕が冷めるのを待っていたコーヒーだ。
「スティック何本入れたかな」
「いま、さんぼんめだよ。さとうがとけなくなるには、どれくらいひつようかなとおもって」
「研究熱心なのはよいことだけど、僕としてはあんまり甘くしないでほしいなあ」
「あといっぽんだけ」
「うん。いいよ」
真剣な目でカップを見つめる真白に和みながら、僕は朝ごはんを並べていく。
すっかり空になったトレイを持って、一度台所へ戻る前に、僕は窓辺から外を眺める。相変わらず明るい陽射しの中を小さな雪が落ちてきている。
今日は特別な日。
昼前には雪もやむといいなと思った。
甘すぎるコーヒーを僕が飲んでいる間に、真白はいつものように皿洗いをしてくれた。ピンク色のエプロンを身につけて、小型の踏み台に乗って一生懸命に皿をこする姿はとても可愛らしかった。僕に子どもがいれば、こんな光景も毎日のように見られたのかもしれない。
実際のところ僕は結婚経験もない独り者だ。それは望んでなったことであり、別に不服もない。
僕が夢を見ているのは、この島に暮らし続けて穏やかに果てること。
島に滞在する研究者として行く末を見守るため、というと格好いいけれど、あいにくそれは本心ではなかった。
この島は、もはやうさぎたちが征服しているともいえた。純粋な人間は、僕のほかには一人の少女しかいない。
僕はその少女に生涯をささげると決めていた。
きゅっ、と水道をしめた音。
仕事を終えた真白がエプロンを脱ぎながら駆け寄ってきた。
「はかせ、でかけるじゅんびできた!」
「よし、それじゃあ今日の仕事を伝えるよ。真白は役場に行って、昨日の午後から今日の午前にかけての出生数を聞いてきてほしい」
「わかった。いつものやつ」
「うん、そうだね。その間に僕は港へ行って、恒例の本土からの支給品をもらってくるよ。そのあとの待ち合わせは、公民館跡の広場にしよう」
僕はコーヒーを飲み干すと立ち上がった。彼女と入れ替わるようにして台所へ向かい、空になったカップに水を少し注いでからシンクに置く。
背後からは荷物を落ち着きなく揺さぶるような音。
「わかったけど、こうみんかんあと……? きょうはなにかもよおしがあったっけ」
リビングを振り返ると、トートバッグを持って準備万端の真白が小首をかしげている。
そのきょとんとした反応は意外でもなんでもなかったけれど、少なからず寂しい気持ちになる。
しかし、これはいってしまえば、この島に暮らしているわずかな人間の、取るに足らない感傷だ。時代の流れ、考え方の変遷、いろいろ言い方はあるけれど。
僕はリュックサックを背負って、不思議がっている真白に微笑みかけた。
「真白もよく知っている、咲菜加ちゃんが……巫女さんが最後の舞をする日なんだ。僕はそれを見届けたくてね」
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