夢なんてのは。

@Sumica

1話


「何度言ったらわかるんだ……お前それでも主任か? 」

 目の前にいる男から何度目かの罵声が僕に飛んでくる。指導と言うには乱暴で、行き過ぎたパワハラかと言われたら素直にうなずくことはできない。所詮はお前の能力不足だと言わんばかりの冷たい一言が、怪我に染みる海水のように僕の心の傷を癒やすまいとする。

「はい、申し訳ありません。」

  以前は負けてたまるかと言い返して荒波を立てたり、改善案も提出していたものだが、いつしか自分で起こしたはずの荒波は心のなかで黒い渦潮となり淀み、改善案もテトラポットに特攻する波のごとく、砕け散ってしまった。





 ここ、東京の〇〇区で働く僕は、地元の港町を遠く離れ、水産物の流通会社に就職した。

 子供の頃から海や海に住む生き物が好きだった。子供の頃はよく漁師の父親に連れられて海釣りをした。竿を投げた後の何が釣れるかわからない、宝くじをしているような感覚が大好きだった。浜や防波堤ではもちろんのこと、父親の船である清漁丸に乗せてくれと、せがんでは僕のわがままでシケた顔になった父親はしぶしぶ船を出してくれた。朝早くから夜遅くまで、清漁丸に乗っている時もずっと海と共に暮らしてきたし、海が僕を大きくしてくれた。大人になったらみんなに海の恵を知ってもらおうと心に固く誓っていた。





 いつだったか、空が厚い雲に覆われた日、父親と進路のことで喧嘩になった。

 父親はてっきり、僕が漁師を継いでくれるものだと思っていたと失望に似た視線を送った。

「お前あんなに海が好きだったじゃないか、魚に触れ合うのも船の運転だって。もったいないぞ、悪いことは言わないから素直に俺の跡を継いでおけ」


 そんなの自分勝手だ。

 もったいない? 悪いことは言わないから? 全部オヤジが勝手に決めたことじゃないか、俺はもっともっとみんなに海の良さを知ってもらいたいんだ。

「そんなの勝手だ! 俺はオヤジの後を継ぐために生まれてきたわけじゃない! 俺は俺のやり方で夢を叶えて見せるんだ! みんなに海の良さを知ってもらうために東京に行ってもっと漁業や海産物の良さを知ってもらうんだ! 」


「別に東京じゃなくてもできるだろ、それにそんな大層な夢はもっとえらい人に任せて、人間地道なのが成功のコツだぞ。」


「その成功は俺じゃなくてオヤジのためだろ! やってみなくちゃ分からないじゃないか! 」


 結局その日の話し合いは地平線のように終わることはなく、夕日が水面に沈んで行くように、お互い気まずさを引きずったまま時間だけが過ぎていった。





 高校を卒業して僕は飛び出すように故郷を離れ、今の会社に就職した。

 ここで結果を出してオヤジを見返してやる。必ず夢を叶えて見せるんだ。と息巻いていた。

 だが現実はそう上手くはいかない。慣れない電車での移動、社会人としてのマナー。社会人として初めての背中にのしかかる期待と責任、もちろん釣りや漁業のことばかり考えていたのでパソコンのスキルだってそんなにあるわけじゃない。ストレスからか父親に隠れて吸っていたタバコの本数も社会人になって格段に増えた。

 気づけば、才能のある同期とは少しずつ差が生まれ、僕に残っていたのは子供の頃から外にばかりいたせいかついた体力と根性、あとはもう少しで沈没せんとす夢だけだった。


「今日もまた残業か……」


 僕だけしかいないオフィスで僕だけのタイピング音がこだまする。

 成績の悪い僕は見積もりや日報、資料などを作る傍ら、心に宿した夢が日々消えかけているのを感じる。辞めていく同期を見ては俺は違う。必ず夢を叶えてやるんだと息巻いていた。

 みんなに漁業や海と暮らす素晴らしさを知ってもらうんだと、脱サラの後、SNSや情報発信に特化したプロの釣り人や漁師、魚屋になりたい人間をサポートするなどといった企画資料を幾度となく作り、上に新事業をと訴えたが上司や役員はいい顔をしない。なんとなく理由はわかっている。

 面倒くさい。全員の顔にそう書いてあるのが手に取るようにわかる。

 時代にそぐわないとか、予算がとか、また今度とかのらりくらり荒波を立てないように僕からそっと距離を置くだけ。持ち前の根性と努力でしつこく提案し続けたのが良くなかったか、もともと成績が悪かったからかは分からない。

 いつしか会社はまるで毒を持つ魚が釣れたときのように僕を避けだし、僕のことを精神的に追い立てていった。

 終わるわけのない量の資料作成。電話対応も全て任せるといった無茶苦茶な指示。上司や同僚は仕事を教えてくれなくなり業務の都合上、事情が変わったからと明らかに移動に時間のかかる担当ばかりの振り分け。資料作成は皆結託して俺に仕事をなすりつけてきたが、皆去り際に見せる罪悪感と後悔が映る瞳に上からの指示なのだとすぐに察することができた。これじゃあ何も言えないじゃないか。


 わかっている。生半可な夢ではなかったと、覚悟が必要だった。しかし日々、ダムの放水のような業務量は今の僕を憔悴させるには十分すぎた。

 いつしか僕のギラついていた心もすっかり波が長い時間をかけて石を削り丸めるように、こだわりの無い、誰とも摩擦を生まない人間に成り果てていった。

 早く帰ろうとパソコンに映る青白い画面を見つめるたび父親の言っていた言葉を思い出す。


「いいか。もっと海をもっと知りてぇなら毎日海と顔を合わせるのさ。人間と同じさ。初対面のやつとはいきなり仲良くなれないだろ? 毎日触れ合って海の顔を見るのさ。そうすると不思議とどうすりゃ魚が釣れるか、いつ海が荒れるか、自然とわかるもんさ。いいか、毎日見ることが大切なんだぞ」

 

「最後に見たのいつだったか……」

 ぼそっと呟いたその言葉が限界だった。一気に押し寄せる感情を制御する術は持ち合わせておらず、机に突っ伏し体が完全に仕事をするのを放棄してしまった。

 今日はもう帰ろう。

 回らない頭で身支度を整え、日々上司への謝罪がすっかり板についた猫背の背中に背広の袖を通し、退勤のタイムカード切ろうとするがそういえば4時間前に切ったのだと不本意な空笑をまとい家路につく。

 早く帰りたい。布団の中で何も考えず眠りたい。とにかくもう疲れた。

 幸い明日は休みだし、今日だけはゆっくりできる。いつもカップ麺やコンビニで済ましがちなので外でうまいものでも食べよう。今だけは仕事のことを考えたくない。

「でも22時32分か……今からとなるとなぁ、ラーメン屋かチェーンの居酒屋かな」


 考えを巡らせ歩いていると知らない路地に入ってしまったことに気づく。完全に迷子だ。

「参ったな、とことん自分が嫌になるよ」


 スマートフォンで地図アプリを開き検索をかけようとしたその時、あることに気づいた。

 すごくいい匂いがする。

 磯の香ばしい香り、魚だけじゃない、甲殻類や貝など、匂い自体は覚えのない香りなのになんというかとても懐かしいような香りだ。優しい匂いがする。

 僕は初めての道とは思えないほど入り組んだ細やかなビル群を抜け、気づけば月光に魚が吸い寄せられるように匂いの主と邂逅した。

 おそらく香りの元はここだと思われる質素な建物にひっそりと佇む薄暗いテナントには、これまた質素な木製の看板がついている。ただ一言、


RICORDARE


 とだけ赤い文字で書かれていた。

「り、りこる……? ほんとにここなのかな」

 なんだか入り口はちょっと暗いし、クローズともオープンとも書かれていないガラスドア、正直本当に飲食店なのかも怪しい。見たところお客さんはいないようだし入りづらい。

「こういうところって当たり外れが多いんだよなぁ。正直今はハズレを引いて引きずらない心の余裕はないよ」


 さあ、踵を返してもとの帰路につこう。時間は多少ロスしてしまったが、ここは東京。まだ何かしらにありつけるはずだ。

 そう思っていたのだが、どうしても振り返れない。僕の顔が、いや鼻があの香りは放すまいとさっきから店の入口に釘付けだ。

 一歩、また一歩と店の入口に近づき見ての戸に手をかけるが。

 「いや、いやいやないない。少なくとも今じゃない」


 店の前で一進一退している僕の姿は他の人から見たらさぞ不審なことだろう。こうしている間にも時間は過ぎていく。早く帰路にと思うほど、相変わらず、この匂いから離れることができない。

「撒き餌に群がる小魚じゃないんだから、早く行かないと……」


「あれ? お客さんですか? 」


 いきなり背後から声をかけられ、心臓が張り裂けるかと思った。慌てて振り返ったら、そこには身長180cmくらいの男がいて、少しウェーブがかったミディアムヘア、そしてところどころ染みのあるコックコートとコンビニの袋を提げて現れた。

「いや……そのなんていうか、すいません」


「謝らないでくださいよ。ささっ中にどうぞ」


「いやっ! 僕はなんていうか……」


「えっ? 中じゃない方がいい? 困ったな。うちテラス席はまだなん無いんですよぉ」


 この男は気さくなのか、無神経なのか分からないが一つだけ言えることは、もしこのレストランから来る香りがこの男が作ったものだとしたら間違いない。絶対に美味しいものを作れると言うことが本能的に察することができた。食べたみたい。

「じゃあ……あの、一人なんですけど、いいですか? 」


「もちろん! 好きなところに座ってくださいね」


 お邪魔します。とガラスのドアをスライドし中に入れば、中は意外と広く清潔で各テーブルにはクロスと皿が置かれており、皿横の小さなバスケットにはフォークやナイフが置かれている。

 なるほど、洋食か。店名から察するにイタリア料理だろうか。そういえばどこにでもあるアレがない。

 席に付き、男が水を運んできたタイミングで聞いてみる。

「あの、メニューってありませんか」


「あー、うちメニュー無いんですよ。でもお客さんが食べたい物を言ってくれたら合わせて作りますよ」


 なんだそれは。変わった店だな。今からでも他の店にと思ったが、店の中にはいってから一層強くなる優しく懐かしいあの匂いが僕を繋ぎ止めている。

「お客さん、魚好き? 」


「えっ」


「今日いいのが入ったんですよ。見たところお若いし沢山食べられるでしょ? コースで出しますね」


「あっ……はい。じゃあそれで」


 多少、いやかなり勢いに気圧されてしまったが、メニューは決まった。

「あっ! すいません! あとっ! 」


「はい? 」


「その、奥の大鍋からすごくいい匂いがして、それもいただきたいんですが……」


「あぁ、ちゃんとコースに入れてあるので心配しないでくださいな」


 良かった、それが目当てでここに決めたのだ。売り切れだったり、明日の仕込み分とか言われたら立ち直れないところだった。

 水を一口飲み周りを見渡せば、海外の絵画や装飾の施された皿、ドライフラワーが飾ってあり、やはりイタリアンなのかと思ったらレジには小さなラクダの置物、小さな窓のサッシにはだるま、席を中腰で立ちキッチンを覗けば、タジン鍋まである。一体何料理が出てくるんだ、ここは。

「珍しいでしょ。うちねお客さんからいろんなものを貰うんで、なんだか訳わかんないことになっちゃってるんですよ」


「そうなんですか、じゃあ結構お客さん来て繁盛してるんですね」


「いや、どうですかねぇ、みなさん結構思い思いのことを言うから大変ですよ」


 男は料理をしながら、ははっと軽快に答えるが、うまい返答を持ち合わせていない僕は愛想笑で返してしまった。

 でも、なんだか楽しそうだな……きっと僕と違って好きなことして生きてるんだろうな。一瞬心に墨を一滴落としたような気持ちになるがいかんいかんと思考と目線をまた厨房に移す。

店主を見ていたらおそらくフライパンで調理していたであろう一品目ができたようだ。

「はい、おまたせしました」


「……おぉ」


 目の前に現れたのはタコの足が二本。おそらくトマトで煮込まれたであろう赤いソースのかかったタコの足が二本盛り付けられている。その他に黒オリーブがまるごと、黒胡椒、最後に回しかけるように彩られたオリーブオイルとドライバジル。イタリアンなんてコンビニでパスタを食べるくらいだからこういう本格的なものを前にすると感動する。

「冷めないうちにどうぞ」

 

 じゃあ早速と、バスケットから馴染みの無いフォークとナイフを取り出し、恐る恐る一口大にカットする。

 もしかして、このタコ。

「あっ、やっぱり」


 柔らかい。スプーンや箸でも切れるんじゃないのかと思えるほど柔らかい。しかしクタクタになっているわけではなく、吸盤にはしっかりとタコの歯ごたえとタコに絡んだソースの味がふんだんにする。ソースも見事だ。最初にトマトの鮮やかな酸味とふくよかな甘味の後、貝の旨味。おそらくアサリを使っているのだろうか、しかしその後追いかけるようにふわりと香るこの独特の、しかしどこかで食べたことあるような。この味は。

「春菊……? 」


「えっ、すごいですねお客さん。アサリと白ワイン、春菊で出汁をとってるんですよ」


「いやぁ、それほどでも」


 久々に褒められて気を良くしてしまった。いつ以来だろう、誰かに褒められたのは。

 気を良くしたのと、料理があまりにうまいので黙々と食べ進めてしまう。そのままでも十分うまいが、付け合わせのオリーブと食べるとまたコクと少しの渋みが加わりトマトソースの甘みが一層強くなるが、最後にちゃんとバジルと春菊が口の中に風を起こす。

 タコを食べ終わったくらいで男がなにか持ってきた。持ってきたそれは香ばしくもほんのりバターの優しい香りがして、普段料理をしない僕でもその正体がすぐにわかった。

「つぎの料理がもう少しでできるんで、パンでも召し上がっててください。そのソースと良く合いますよ」


「ありがとうございます。いただきます」

 そう言って男が出してきたパンはバゲットタイプで小さなバスケットに二切れ入っている。早速もらったバゲットを半分にちぎりソースをつける。これはいい。バゲットの香ばしさがこのソースに合っている。しかし、なるほどただのバゲットではない。軽くガーリックを表面に塗り込んであり、ほんのりガーリックが香る。またこのガーリックの香りがソースにさらなる香りとコクを生み出す。この勢いでバゲットなんか食べていたら満腹になってしまうのではないかと思っていた。だが完全に杞憂だったようだ。

 ちょうど皿の上の料理をすべて平らげたときに、男がまた違う香りを漂わせた料理を持ってくる。

「気に入ってくれたようで良かったです。はい、次はこちらですよ」


「アクアパッツァですか? でもアクアパッツァって普通は……」


「そうそう、今日はマグロを使っているんですよ。珍しいでしょ? 」

 厚めに切り身になったマグロに緑の鮮やかなソースが涙滴型に添えられていて、ほんの少しだけサシのあるマグロの赤身はなぜか側面は茶色で小松菜に似た野菜とミニトマト。

 アクアパッツァといえばたいてい白身なのだが、マグロとは珍しい。血合いがある魚を使うのは避けると故郷では聞いた事がある。一瞬疑問に思ったが先程の料理の美味しさに僕はここの料理なら大丈夫だろうと、付け合せの野菜達とともにマグロを一切れフォークにさし、ソースともに頂く。

「うわっこれもおいしい。でも食べたことない味だ」


「野菜がポイントなんですよ、付け合せも美味しいでしょ? 」

 そうは言われても見たこともないこの小松菜によく似た細い野菜はなんだろう。小松菜によく似た野菜を取り、よくよく観察してみると茎の中が空洞なことに気づく。

「あっ! 」


「そうそう、それ空芯菜なんですよ、ソースによく絡むでしょ? 」

 確かにこれは表面だけじゃなくで空洞な構造上、その空洞の表面までソースの旨味が絡んでいる。よく考えられてるんだなと思いつつまた一口また一口と食べ進めているが、気になるのはこのマグロの側面だ。マグロだが側面が火が通ったように茶色い? なんて不思議な顔で見ているとそれに気づいた男が、

「ああ、その色はね、マグロをさっと湯通ししているんですよ。マグロは赤身の中にもすこしサシが入ってますからね。湯通しすると油がほんのり溶けて優しい味になるんですよ」


 やっぱりこの店は他の店とは一味違う。いや、東京に来てこの方、レストランでゆっくりご飯なんて食べたのは数えるくらいしかないが確信を持って言える。この店は当たりだ。

 しかもマグロと空芯菜だけではない。黄緑色のきれいなソースには男いわくカブを葉ごと使っており、カブの持つ根菜類の甘みがこの料理によくあっていてほんとにうまい。

 残ったソースと付け合わせの野菜を最後の一切れのマグロで掃除し、きれいに平らげる。まるでカレーの皿を舐める小学生みたいだなと口元が緩んだところで、水を一口飲み、さあ次の料理をいただく準備は万全だ。

 入店を決めるきっかけとなったあの優しくも懐かしいような心惹かれたあの香り。あの香りがだんだんふくよかになっていき、今か今かと期待感に胸を弾ませる。最初に男が言っていた通りおそらく海の幸であることは間違いないが一体何が出てくるのか今から楽しみだ。

「お待たせしました。本日のメインです」


「え? これですか……」


 パスタだ。平打ち麺。コンビニで見たことあるな、フィットチーネだっけ。それと飾り用の海老の頭、ムール貝、ドライパセリとむき海老がいくつか散りばめられ、鮮やかなオレンジ色のソースに身を包まれている。

「あれ、もしかしてお嫌いでした? パスタ」


「いえ、そういうわけでは……」


 正直香りからしてたくさんの魚が入った鍋とかを期待していたのだが、しかしあの懐かしいような香りは確かにこの目前のパスタから香ってくる。……まあイタリアンだし、別にパスタが嫌いなわけでもないとにかく一口食べてみなくては。

「いただきます」


 フォークにパスタを巻き付け一口食べる。瞬間思わず目を閉じてしまうほどの、幾重にも重なり合った旨味。これって……

「オヤジがよく作ってくれた鍋の匂いとそっくりだ……」


 オヤジはよく魚は捨てるところがないとか言って魚のあらも全部一緒の鍋に入れて煮込んでいた。頭も骨もヒレも、魚も海も昆布でさえも構わず入れていた。

 よく子供の頃食べさせられたっけ……

「げー、またこれかよー! 俺育ちざかりなんだから肉食わせろよ! 肉! 」


「何いってんだ、魚もちゃんと魚肉じゃねえか。それにな、これは俺が子供の頃から食ってる大好物なんだぞ」


「まじですげぇ頻度でこの鍋出てくるよな、いい加減飽きないの? 」


「馬鹿、人間なにか好きなモンを見つけたらそれをどんな形であれ追求してこそだ。お前のじいちゃんは魚屋だったが俺は釣る方が好きだったもんで、漁師になったんだぜ」


「マジ? 初耳なんだけど」


「そうさ、じいちゃんも俺も海が好きだった、だからお前も海が好きになってくれて嬉しいよ。きっと海鍋も好きになるぜ」


「うみなべ……? もしかしてこの鍋のこと? 」


「おう、これぞ男の海鍋よ」


「センスねぇな……」


 ああ……そうだった。はじめから知ってる匂いだった。海鍋だった。海鍋そのものがパスタにかかっているわけでは無いのだが、このソースの根本にあるものは海鍋の出汁そのものだ。 もちろんバターやトマトなどその他の香りも感じるけど、一口、また一口と食べるたびに懐かしさに思わず、涙腺が緩んでしまう。

「変わらないな、この味」


「え? お客さんどうかしました? 」


「いえっ、何でもないです! 」


 具のエビにもムール貝にもずっと寄り添ってくれる。うまい。何よりも、とても懐かしいんだ。清漁丸から感じる海の美しさとあの頃の匂いがフラッシュバックする。何もかもが懐かしいのに料理のおかげで新しくもある。今までのどんなものより美味しい。数多の魚の旨味をトマトの酸味とバターのコクでうまく昇華しているし、貝や甲殻類の旨味も強く感じる。フィットチーネがこのトロリとしたソースをしっかりと持ち上げてくれる。

 段々と目が潤んできてうまく食べれない。涙ながらにご飯を食べるなんて初めてだ。

 気づくと男が微笑みながら厨房から出てくる。

「そんな、泣くほど美味しかったですか? 」


「はいっ、とっても美味しかったです」


「先程のパスタでコース料理は以上となります。後でコーヒーお持ちしますね」


 男はそう言うとまた厨房に消えていった。思わず涙ぐんでいる僕を一人にしてくれたのだろうか。男はテキパキとコーヒーの準備をしている。僕は未だに空になってしまった皿を見て、思わず笑みがこぼれた。懐かしさや子供の頃の高揚感、もちろん料理自体の美味しさもあったがやはりあの味に出会えたのが最も大きいのだろう。

「お客さん」


「はい? 」


「よかったら外でコーヒー飲みません? 」





 意外な提案にすんなり首を縦に振ったのはすっかりここの料理に骨抜きにされたからだろうか。男は2つのマグカップを両手に持ち、ほほえみながら僕に近づいてきた。

「ああ、これ? 僕のぶんですよ」


 席を立ち、マグカップを受け取って僕らは外に出た。外はもうすっかり夜も更けて心地良い風が吹いている。もうビル群の明かりもすっかりまばらだ。今日この店に来なければ僕もこの明かりを構成する要員になっていただろう。

コーヒーの湯気が立つマグカップに口をつけ、心を落ち着かせる。ふと目をやった男もコーヒーを嗜んでいる。

「料理どうでした? 」


「えっ、ああ、とっても美味しかったですよ。特にあのパスタが」


「あーあれはソースアメリケーヌですよ。アメリケーヌはエビで出しを取るんですが、うちはその他にも沢山の魚のアラや貝の身、ローリエとか香草で出汁を取ってまして、他にもこだわりの……」


 やはり、この男、いやもう失礼か。この料理人は楽しそうに料理の話をする。まるで親に褒められた子供のような満足げな顔をしている。この料理人になら話していいかもしれない。

「あの、迷惑じゃなければなんですが」


「はい? 」


「ちょっときいてくれませんか、僕の昔話を」


 水が手のひらをなめらかに滴るように、今までのことをこの料理人に話した。まるで初対面とは思えなかった。

 オヤジのこと、夢のこと、会社でのこと、今日の料理が懐かしい味だったこと。でももう限界も近いと、今までのことも全部話してしまった。余計なことも言った気がする。多少の後悔を少し冷めたコーヒーで流し込む。料理人はこんな見ず知らずの僕の話をずっと黙って聞いてくれた。

「なるほどねぇ、そんなことがねぇ」


「いや、偶然って怖いですね」


 勢いに任せて話してしまった。込み上げ来る羞恥を隠すため笑ってごまかす。いやしかしこの目の前の料理人には筒抜けだろう。

「いや、偶然じゃないですよ」


「えっ? 」


「きっと運命の転換期だったんですよ。今日たまたま帰ろうと思ったのも、うちを見つけたのも、そのうみなべ? がうちの今日のメニューの味と似ていたのも」


「……」


 そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。答えを持ち合わせていない僕は再び沈黙してしまう。そんな僕の沈黙に更に料理人は答える。

「追求してこそですか……確かにそうですよね。でもぼくは料理の師匠に言われました。夢なんてのは叶うこと自体奇跡みたいなもんだ。だからどんな形でもいいのさ、叶うなら。別にやり方や動機なんていくら変わってもいいんだ。それが成長ってもんだろ。本当に叶えたい夢なら根っこの方はそんな簡単に変わったりしねぇよ、ってね。だから現状にこだわらなくてもきっといい方向に傾いてくれますよ」


「現状にこだわらなくても……ですか……」


「はい。夢は叶うこと自体奇跡のようなもの、ですから」


 なんとなくわかっていた、今の会社にいても夢を叶えるのは途方もないことだ、かと言って今のやり方ではもう可能性は百に一つもないということも。

「そうか、僕は……いや俺今日ここに来れてよかったです」


「良かった、お客さん来る前と今じゃ別人に見えますよ」


「はい、俺も変わらなきゃですね」


「ええ、そうだ、タバコ一本吸ってもいいですか? いやはや料理人なのにお恥ずかしい」


「構いませんよ、俺もよく吸いますし、オヤジもよく吸ってましたから」

 俺も持ち前のタバコに火をつけようとして胸ポケットを探り、タバコの箱に手をかけるが、しまったな。全部吸ってしまっていたことを忘れていた。

「一本いかがです? 」


 そういって料理人はタバコ一本くれたのだが、その銘柄に思わず吹き出してしまった。

「やっぱり今日来たのは偶然じゃなかったみたいです。料理人さん」


 そのタバコはオヤジと一緒の銘柄だった。





 あれから俺は、辞表を出しもともと社内では問題児扱いされていため特に揉めることもなく退社することができた。先輩や後輩には今までのことを謝る者もいたが、別に今までのことは事情も知っているし、特に償ってほしいとも思っていない。次の会社は決まっているのかと心配してくる人もいたが、先のことはまあ決まっているような決まっていないような。でも彼らに最後、入社した時のようにギラギラしていると言われたし、今はかつての熱を取り戻すことができた。きっと大丈夫だろう。

 これから生まれ故郷に帰り、釣具屋を開くつもりだ。もともと貿易でできた人脈と地元のコネで釣りを通して、SNSや動画投稿でもっともっと漁業を発展させていこうと思っている。前と違うのはまず自分が先頭に立ち自分が楽しんでいる姿を見せるところだ。何もかも初めての挑戦だ。失敗するかもしれないし、くじけてしまうかもしれない。でもきっと大丈夫。やり方や動機なんていくら変わってもいい、夢は叶うこと自体奇跡のようなものなのだから。

「っと、そろそろ着くってオヤジに連絡しないと」


 最寄りの駅に着いたらオヤジが迎えに来てくれる手はずになっている。連絡を入れるため電車に乗る前にポケットからスマートフォンを取り出す。

 そういえばあのパスタをオヤジに食べてもらおうと思ってあの料理人にレシピを聞いたんだっけ。断られると思ったが、すんなりと教えてくれた。

「なんだよ、アメリケーヌって調べたらフランス料理じゃん」


 あの飄々とした料理人らしいことだ。次行くときの話題が増えたな。おっと忘れていた。オヤジに電話しないと。

「もしもし、オヤジ? うん13時に着くよ。わかってるって南口な」


 喧嘩別れしてからオヤジとは全然口もきいてなかったな。なのに昨日話したみたいに感じる。

 「ああ、色々話したいこともあってさ、着いたら話すよ」






「そうそう、オヤジに食べてほしい料理があってさ……」









おわり。

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