第2話
さて・・・武藤みどりだが・・・
みどりは短い時間に咲き終えるさくらが大好きであった。そして、咲き終えた後えた後も私は行きますよと言いたげに眩いばかりの新緑で覆われる葉桜も好きでした。しかし、みどりが心を奪われるのは桜ではないのですが、晩秋の上田城の堀の周りに寂しく立ち並び、必死に朽ち果てまいとするケヤキ並木がこの上もなく、心が揺さぶられて仕方がないのである。だが、今は淡いピンク色が咲き乱れるさくらの中に、みどりはいた。
上田城の桜並木を見ようとする人出は途切れることは無かった。時間が立つにつれて、道に座り込み酒を飲む者も出て来た。そんな人の気持ちと裏腹に桜の花びらは静かに咲き乱れ、時々緩やかな風に二三枚の花弁が散って行く。
「・・・・」
みどりは嫌な光景を見てしまったのか、歩みを止めた。五六人の酔っぱらいが騒いでいた。その彼らがこっちに向かって来る。
今の所、彼らは暴れていないし、桜を見ている人にちょっかいを出していない。しかし、みどりは嫌な予感がした。
こんな時期だから仕方がないが、みどりは彼らを見ていて、急に苛立って来た。みどりはけっして早熟ではなく、人より正義感が他人よりより強かったのかも知れない。それは、祖父条太郎の
「楽しんでいる人に迷惑を掛ける奴は、懲らしめてやれ・・・」
という教えによる。桜並木の道を覆う桜は人の気持ちと裏腹に静かに咲き乱れていた。
「あっ」
みどりは小さく叫び声を上げた。
幼い姉妹が喧嘩をしながら、酔っぱらいの集団に近付いて行く。二人は彼らに気付いていないようだ。
(何も起こる筈がない・・・)
と思った。
みどりはしばらく様子を見ることにした。姉だろう・・・妹の手を強く引っ張っている。妹の方は何が嫌なのか母の手を離さない。どうやら母らしい女も彼らに気付かないように見えた。
そして、ついに母の手から妹を引き離すのに成功し、姉はそのまま妹を引っ張り続けた。
だが、二人の姉妹はすぐに彼らの一人ぶつかってしまった。
「まずい」
そうまずかったのは四十を越えているがっしりした男で、彼は顔と眼が異常に大きく、それに悪かったのは、その男の酒の量が相当飲んでいるようだった。
その時、みどりは母の様子を窺った。多分姉妹の母とみられる。その女はそんなに体は大きくはなく、小さな体は何かしら敏捷さを感じさせた。その眼は力強く美しく輝いていたのでが、何処となく気性の烈しさを見受けることが出来た。
この瞬間、あの女の人・・・
(何処かで会ったような気が・・・)
そんな気がした。心の中にもやもやする理解し難いものであった。
「何だろう?」
その気持ちに浸っている時間はなかった。この瞬間、みどりは避けがたい殺気に気付いた。
「誰なの?」
みどりは周りに注意を払うが、それらしき視線は見つけ芽ことが出来なかった。
(気になった)
しかし、今はあの二人の姉妹に対する酔っぱらいたちが気になり、鋭い殺気がどこから発せられているのかうまく見つけることが出来なかった。
今は、それに、姉妹の母と思われる人の動きに払わなければならなかった。それ程違う意味での強い殺気のようなものが感じられていた。その女は強い意志でもって何かをしようとしているように、みどりには見えた。いや、みどりはそれよりも・・・その女に胸に迫る淡い心地良さを感じたのであった。
(何・・・?)
その時・・・
みどりはその母が反応し、動きかけた。
だが、瞬時、みどりは桜並木の枝の一枝に向かって飛びついたのである。そのしなやかな枝は、みどりによって桜の木の皮を裂いた。
(無法な暴れ者なら物足りない武器だけど、相手は酔っぱらいだ。これで充分だろう)
「桜さん、ごめんよ」
みどりは桜の枝に言葉を掛けると、枝をシュシュと強く振った。そして、その枝を酔っぱらい達の前に突き付けた。
この瞬間、その母の動きは止まった。自分が手を出す必要はない、と判断したのだろう。彼女は自分の子供たちと同年代の少女が気になるようだったが、夕也と峯が気になり、辺りを見回した。
「いない・・・」
夕也は母の傍にいたのだが、妹の峯が見当たらない。
「みね?」
母は叫び、そのまま探し回ろうとしたのだが、一歩も動けなかった。彼女の視線は桜の枝を持った少女がいなくなった峯以上に、なぜか気になっていたのだ。見ると、少女は桜の枝を扇のように扱い、酔っぱらいたちの間をまるで踊りを舞うように動き回り、酔っぱらい達を翻弄していた。男たちは何度も倒れてはまた立ち上がったが、全く相手になる存在ではなかった。
「あの子は・・・」
その母は呟き・・・急に止まった。いなくなった峯のことが女の脳裏を過ったのである。
「私は城の中を探してくるよ」
多田雄一は郁子の返事を待たずに城門の方に走って行った。
峯はついに見つからなかった。
「気になるけど、一旦家に帰りましょ・・・」
明日は学校に行かなくてはいけない。
「俺は警察に届けて来る」
といい、多田雄一が警察に行った。
多田郁子と夕也が室賀の自宅に着いて時には午後九時を過ぎていた。
「あの女の子、強かったね。お母さん・・・?」
夕也がニコリとして、微笑んだ。
「あの子・・・」
郁子は上田城の桜並木で見かけたあの少女が気になるらしい。知らない女の子であった。でも、
「なぜ・・・かしら」
今はもちろんまだ見つかっていない峯も気にはなっていたのだが、同じくらい突然見かけた少女が郁子の心の半分くらい支配していた。
(なぜ・・・?)
郁子は繰り返し、考えていた。
「夕也・・・」
郁子は夕食を済ませた夕也に言った。
「何・・・?何なのよ」
強い調子の夕也の声である。夕也はまだ十歳だったが、心はまた不完全なのに自分はもう大人なのだと言いたげで、母の郁子に対してことごとく反抗的になって来ていた。郁子と長女の夕也は気が合わないのか、よく意見が対立して口論していた。口論というものではなく、ちょっとしたことで喧嘩をした。
「ふっ、ふ・・・」
郁子は祖父への反抗的な態度を思い出し、苦笑するしかなかった。
(あの時も・・・)
しかし、郁子はもうこれ以上考えるのは拒絶し、気分を変えようとした。
その夜、十二時を過ぎると、雄一は家の帰って来た。その前に、携帯から知らせが入り、力ない声で、
「まだ見つからないんだ」
と伝えて来た。
雄一が家に帰って来た時には、もう夕也は寝ていた。家族に不足な事態が起こっても時間が止まることは無い。この重苦しい時間はどんなに苦痛に満ちたものでも霧散しないし、より一層深く人の心に侵入してくるに違いない。
「寝たか?」
「ええ」
しばらく二人とも一言もしゃべらなかった。当たり前のことだが、そんな気分ではなかったのである。何をしゃべったらいいのか、楽しくなるのか分からないのである。夕也の同級生の佐久間雪菜がまる一日いなくなったことも、どちらからも言葉にすることは無かった。もちろん気にならぬ筈がない。話して話題にするのが怖いのである。雪菜の場合は明朝に家の前に帰って来た。
雪菜は警察の問いに、何も覚えていない、という。そんなことも、やはり言葉には出さなかったが、気にはなっていた。
「ねえ・・・」
郁子はぼそりと言った。
「えっ」
雄一は妻を見た。
郁子は慌てて首を振った。
「何だ?」
「いえ、何でもないわ」
今見る夫の雄一は、郁子には頼りに見えた。まだ一緒にならない時に、あの山奥の村に連れて行った時、祖父の武藤条太郎は雄一を見るなり不快な眼で睨んでいた。確かに、若い雄一の肌は透き通るように白く、虚弱に見えた。おまけに気性の面でも頼りなかった。少なくとも、条太郎の見方はそうであった。真田家の重臣であった由緒ある家系からすると物足りないかも知れない。
だが、今郁子の目の前にいる雄一は逞しく見えた。
何かあれば、警察から連絡があるだろうし、夕也の友だちの雪菜のように、朝になればひょっこりと家の前に立っているかもしれない。その保証はなかったのだが、気休めにはなった。
「少し・・・横になりましょ」
郁子は夫を労わった。
「ああ・・・私は明日仕事を休むよ」
こういうと、雄一はこたつの中に足を突っ込み、座布団を二つに折り、枕代わりにした。炬燵をたたむには上田ではまだヒンヤリし過ぎていた。
眠れない夜が明け、空気中にぽっかりと穴が開いた・・・もの寂しい朝が来た。
「あっ!」
郁子は飛び起きた。うっすらと眼をつぶっていただけのような気がする。ことッ、という音を聞いたような気がしたのである。
時計に目をやると、まだ六時前だった。夕也が学校に行く時間にはまだ早い。夕也は寝られたのか・・・。
(ふっ!夕也なのかな・・・)
何と言ってもあの二人は姉妹なのである。夕也とは気が合わないといっても、妹のことが心配だったに違いない。
(気のせい・・・?)
彼女は雄一を起こそうと思ったが、雄一の性格は気弱い所があるのを知っているので、一人でその音がした方に歩いて行った。何処っ・・・と首をひねった。足は自然と庭の方に向かっていた。初めて多田の家に来た時、その広い庭には庭らしい樹木や躑躅などの庭木もなく、雑草が所々に生えていて、大小の石ころがあちこちに散らばっているだけだった。
雄一の母は病弱ではなかったのだが、やはり体が強くはなかった。そこで、郁子はこの家に住み着くようになってから、少しずつこの大きな庭の美観を整い始めたのである。
「ああ・・・」
郁子は吐息を漏らした。自分の整えた庭に満足を覚えたのである。だが、今の庭の光景を目にして不快感で一杯だった。
峯・・・彼女の姿はなかった。
(み・ね・がいるって・・・)
と確信していたわけではない。夢を見たのでもない。
「ふっ「
と、苦笑した。
「そうだ、あの人・・・」
郁子は峯が心配だったが、それ以上に夫が心配になった。ここ、しばらく珍しい気丈な所を時々見せてくれていた。子供たちが心も体も成長しているのを眼にしていることもあるのだろう。それに、峯が消えてしまったという今度の事件である。雄一にとって、そらなる重荷になっているのに違いない。耐えて欲しい・・・郁子はそう願う。この先、気か休まらない日々が続いていたにちがいない。
郁子は庭に峯がいないのを確認すると、居間に寝ているはずの雄一の元に戻ることにした。彼女は何も出来ない自分に苛立ちを覚え、気が狂いそうになる。
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